ボランティア
店内は午後の日差しを受けて輝くガラス製品で溢れていた。
扉の向こうは展示スペースになっていて、テーブルや棚に商品が所狭しと並んでいた。グラスや箸置きのような台所用品もあれば、アクセサリーやオブジェの装飾品まで幅広く扱っているらしい。
薫の目はすぐに大輝を捉えた。
「あれ、あの人……」
大輝のすぐ隣には見覚えのある女性の姿。
彼が接客しているのはバスの中で会った女性だった。けれどその横顔にあのときのような禍々しいものがない。彼女から聞こえる不協和音はずいぶん弱々しくなり、それに重なるようにまるで生まれたての子馬が歩くようなテンポで協和音もなっている。じっと耳をすましていなければ聞き逃すような、ほんの小さな音の連続だが、不協和音は崩れかけている。
大輝と彼女は壁につけるように設置されたテーブルに向かって立っていた。薫は女性客が手にしているものに気づき、目を凝らした。
それがガラスペンだとわかるまで、ややかかった。なにせガラスペンを見るのは中学生時代に北海道小樽市を観光したとき以来だ。柔らかな丸みを帯びて伸びる軸には透明な中に青い帯が走り、その先に透き通るペン先がある。
「……綺麗」
思わずうっとりと声が漏れる。ガラスペンの先は窓からの光を宿し、澄んだ輝きを持っていた。
女性客はこわごわと手元にあるインク壺にガラスペンを浸けては、テーブルの上の便箋に何かを書き綴っているようだ。大輝はそれを見守りながら、何かをアドバイスしているように見える。
やがてガラスペンを置いた女性客が便箋を折りたたむ。そして壁際に置かれた四角い箱に手を伸ばした。
「なんだろう、あれ?」
箱はテーブルの中央をどんと陣取っていた。横長の穴が空いていて、女性はそこに手紙を入れたようだった。
「あ、もしかしてあれが『よつばポスト』かな?」
確かにポストのような形をしている。けれど郵便記号はなく、代わりに四つ葉のクローバーの模様がついていた。
詠人が『我が工房のシンボル』と大げさに言っていたのを思い出し、眉をしかめる。シンボルというほどの大きさも派手さもない。
女性客は大輝と幾つか言葉を交わし、ガラスペンを購入したようだった。
レジでお辞儀をして振り返った女性を見て、薫は息を呑む。バスの中で見た陰気さがすっかり薄らいで、むしろ穏やかにさえ見える。あれから一時間も経っていないはずだ。一体、何が彼女を変えたのか。
「ありがとうございました」
突如響いた大輝の声に、呆然としていた薫がびくりとした。店を出てきた女性客と視線がかち合う。しかし、相手は気づいていないのか、すっと視線をそらして歩き出した。
「覗き見ですか」
大輝がにやにやしているのに気づき、薫が顔を赤くさせる。
「違わないけど、違うわよ」
「ずいぶんとじっくりご覧になっていたようですが」
「気づいてたの?」
「何言ってるんですか、丸見えですよ。そういう天然なところ、雅さんみたいですね」
母に似ている祖母に嫌悪感を抱きつつあるというのに、自分も似ていると言われると面白くはなかった。
無言で唇を尖らせている様子に肩をすくめ、大輝が「立ち話もなんですから、中に入ってみます?」と促す。
薫より先に反応したのは、いつの間にか足元にいたウメとタイコだった。
「んなぁ」と鳴き、二匹が薫の足に額をこすりつけている。
「わわ、なに? どうしたの?」
「おや、彼女たちがここまで歓迎するなんて珍しいですよ。さあ、どうぞ」
「えっ、あ、うん……」
おずおずと歩き出すと、二匹の猫たちも滑るように店内に入っていく。
「綺麗ね」
ほとんど無意識に、薫は心から呟いていた。陽の光を纏うガラス製品の美しさに心を奪われるのは初めてだった。視線が吸い寄せられ、そらすのが惜しい。それでいてもっと他のガラスも見たい高揚感にかられていた。
「これ、全部大輝さんたちが作ったの?」
「ほとんどが父です。僕はまだまだ修行中の身なので商品として出せるものは一部なんですよね」
「詠人さんって実はすごいの?」
「ただのチャラいアラフィフじゃないんですよ。ああ見えてイタリアとドイツに修行しに行った、なかなかの腕と根性の持ち主なんですから」
「ああ見えては言い過ぎなんじゃない?」
苦笑しつつ、色とりどりのグラスが並ぶ棚を見て歩く。
「大輝さんが作った『一部』っていうのはどれ?」
そう言いながら底が球体になっているスインググラスをつつくと、起き上がり小法師のようにゆらゆらと揺れた。
「んなぁ」
答えたのは、ウメだった。
「ほら、うちの看板娘たちが居座っているでしょ。あそこにあるものです」
ウメとタイコはあの妙な四角い箱の前で毛づくろいをしていた。近づいてみるが、二匹ともテーブルから降りる気配はない。
間近でしげしげと箱を見ると、すぐにそれが陶器製だということがわかった。大きさはそれほどでもなく、薫でも楽々と持ち上げられそうに見える。
そして箱の右脇にはガラスペンが幾つか並べられたトレイがあった。その手前に『試し書きできます』と書かれた札がある。
「えっ、もしかしてガラスペンを作ってるの?」
「薫さん、どうして僕がガラス職人になったのかききましたよね」
「うん」
「実は僕、ガラスペンが作りたくて職人になったんです」
大輝が誇らしげに微笑んだ。
「もともとイラストレーターだったんですけどね、ガラスペンの描き心地にすっかり夢中になりまして、父の工房を継ぐ決意をしました」
「そうだったんだ。それで、ダム湖でスケッチしてたのね」
「うちのガラスペンでイラストを描いて、ポストカードにしてるんです。ほら、これ」
大輝が指差したのは、壁にかけられた棚に並ぶポストカードだった。色とりどりのインクで描かれたイラストは柔らかい筆致で、季節の花や食べ物、風景、そして猫があった。
「ガラスペンって絵も描けるんだね」
「もちろん。ガラスペン、使ってみます?」
「いいの?」
「ええ。もともとここはガラスペンの試し書きをするスペースなんですよ」
なるほど、言われてみればテーブルの上には小さな便箋の束とティッシュ、ゴミ箱、小型の筆洗、そしてインク壺がある。
「じゃあ、これ」
薫はシンプルな無地のガラスペンを指差した。すうっと流れるように伸びる軸が綺麗だと一目で気に入った。
「インクにペン先を浸して書くだけですよ。インク壺のふちでそっとぬぐってから、紙に書いてみてください」
大輝がインク壺の蓋を開け、新しい便箋をテーブルに置いた。
こわごわペンを走らせて自分の名前を書いてみると、紙にあたる感触が想像していたよりも柔らかい。しかし、力の入れ加減がわからず、ぎこちない手つきになってしまった。
「少し寝かせるようにすると書きやすいかもしれません。インクが少なくなったと思ったら、またインク壺に浸してください。濃淡が出て綺麗でしょう?」
薫は無言で頷く。ペンを走らせた速さや角度でインクの濃さが違う。同じインクでありながら移ろいゆく表情を見せるのは趣深いものがある。
ふと、大輝は薫の字を見つめ、「へえ」と微笑んだ。
「なんだ、やっぱり明るい字を書くんですね」
「明るい字ってなに? 筆跡鑑定でもできるの?」
「違いますよ。僕は字にも色を感じるんです」
「あ、そうなの?」
「ええ。僕には、自分の名前を書いたときに見える色がその人本来の色に見えます。薫さんはうじうじ悩んでネガティブだけど、本当は朗らかな人ですよ。もったいないですよね」
「ねえ、大輝さんってなんで喧嘩売るようなこと言うの? 神経逆なでするようなことばっかり」
「ああ、気に障りました? 本当のことだからかな」
「あのね!」
ケラケラと笑い、大輝が宥めるような手つきをした。
「ごめんなさい。でも、もったいないのは本当ですよ。だって、あなたの本来の色、とっても綺麗なんです。それなのにあれこれ悩むもんだから、すっかりくすんでる」
「知らないわよ、そんなこと! どうにかできるもんなら、とっくにやってるってば」
「そうですよねぇ」
またも膨れっ面になったのを見て、大輝が眉尻を下げた。
「そんなに怒らないで。お詫びに今からとびっきり良いものをお見せしますから」
「……なによ、良いものって」
「よつばポストの不思議な儀式です」
「よつばポストって、詠人さんが話してたよね。もしかして、この四角い箱?」
テーブルの上に置かれた箱を指差すと、大輝が深く頷いた。
「そう。うちの名物でしてね。四つ葉のクローバーが幸せを運ぶかもしれないというポストです。そこのプレートが見えます?」
指差すほうを見ると、正面の壁に小さなプレートが打ち付けてあった。そこには『想いをガラスペンでしたためると、届くかもしれません』とある。
「ここを訪れた人はゆきばのない想いを抱えていることが多いんです。それで、ちょっとしたボランティアをしているんですよ」
「はあ? ボランティア?」
「そう。試し書きついでにね、届けたい想いがある人は、それをこのよつばポストに入れてもらっているんです。ほら、こんな風に」
大輝がよつばポストの向きを変えると、後ろには取り出し口が開いていて、何枚かの便箋が入っているのが見えた。
「僕はこの中で、届きそうな想いがあれば、実際に届けるお手伝いをしているんです」
「手紙の相手に配達するってこと?」
「まあ、そんなところですよ。僕じゃなく、このガラスペンと猫たちが、ですけれど」
薫の顔が「はあ?」と、歪んだとき、ウメとタイコが揃って「んなぁ」と鳴いた。それはまるで『さあ、始めよう』とでも言いたげな、威勢の良い声だった。
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