祖母と店子
薫はときどき、すでにこの世にいないものに出会ってしまう。
はっきりと姿が視えるときもあれば、気配だけのときもある。ただ、必ずといっていいほど奇妙な音がする。そこにいてはいけない者がいるために生まれた空間の歪みが悲鳴をあげるようなものだと、薫は考えていた。
幼い頃からの経験で、タチの悪いものほど不協和音は大きくなることはわかっていた。
今、目の前を走る軽自動車から聞こえる不協和音はゆっくりしたテンポでもつれていた。そこから感じ取れるのは悩みと不安、そして閉塞感だ。
それから五分ほど走り続けると、街灯もまばらになり、道は細く、蛇行するようになった。薫は青ざめた顔で深呼吸を繰り返している。気を抜くと取り乱しそうで怖いのだ。
その様子に気づいたらしく、大輝が少し慌てた様子でたずねた。
「大丈夫ですか? 車酔いしてます?」
「いえ、大丈夫です」
車酔いのほうが楽だと言いたくて仕方なかった。
軽自動車はY字路にさしかかり、左のウインカーが点滅する。
『これで別の道にいくかな』
そんな期待は大輝が左のウインカーを出したことで砕かれた。道が枝分かれしているのに同じ方向に進んだのは、これで三度目だ。
「まさか前の車を尾行しているわけじゃないですよね?」
「まさか。縁もゆかりもありませんよ」
しかし、そう言ったあとで「……多分」と小さく付け加えたのを、薫は聞き逃さなかった。大輝も不審に思うほど、その車は同じ方向をずっと走っているのだ。
やがて軽自動車が速度を落とし、ウインカーを右に出した。ライトに浮かび上がったのは『駐車場』と書かれた看板だった。
これで離れられる。そう安堵した瞬間、薫はぎょっとした。大輝も同じ駐車場に入っていったのである。
「ここですか?」
「ここなんです」
軽自動車は駐車場の入り口付近に停まったが、大輝はさらに奥に車を進める。よく見ると、三件の店舗兼住宅が並んでいて、そのうちの一軒に明かりが灯っていた。
「さあ、行きましょう」
大輝が降りるように促したが、薫は離れたところで停まったままの軽自動車に目を走らせ、怯んだ。
「でも」
「……あの車がそんなに気になりますか?」
「いえ……そういうわけじゃ」
本当は怖い。あの軽自動車からは『危うい』気配が漂ってくる。少しでも気が緩んでしまうと、引きずり込まれそうな気がするのだ。しかし、それを言っても、白い目で見られるだけだろう。今までそうだったように。
「ごめんなさい、今降ります」
薫は自分を奮い立たせ、ドアを開けた。春とはいえ少しひんやりとした夜気と共に、あの不協和音が体全体にまとわりつくようだった。
スーツケースを手に一軒の店舗兼住宅に歩いていく大輝のあとを慌てて追う。一階は店舗で二階が住居スペースらしく、建物の脇に扉があった。鍵はかかっておらず、大輝が慣れた手つきでドアノブを押す。
すぐにパチっという音がして、狭い階段が照明に浮かび上がった。それをのぼりきると、小さな踊り場と玄関ドアが見えた。
「ここが雅さんのお住まい、つまり今日からあなたの家です」
「私の家……」
この向こうに初めて会う祖母がいる。そう思うと胸が高鳴った。けれど、その高揚を必死に押さえつけようとしている自分もいる。
『あの自分勝手な母親を産んだ人なんだよ? どうせおばあちゃんだって、自分のこと以外には無関心なんだよ。だって、そうじゃないならどうして孫の私に一度も会いに来てくれないの』
拗ねた顔をした自分が心の片隅で叫んでいるのを感じ、薫はぎゅっと唇を噛んだ。
玄関ドアを開けようとした大輝が、ふと振り返る。
「雅さんに初めて会うんですよね?」
「はい」
「もしかして、清良さんからおばあさんのことを何も知らされていませんか?」
「……はい」
「……そうですか」
大輝が黙りこくり、すぐにこう言った。
「安心していいですよ。多分、あなたはここに来て良かったと思うようになります。あと、今日はあなたの歓迎会ということで騒々しいのが一人いますが、勘弁してくださいね」
「良かった? 歓迎会? 騒々しい?」
きょとんとしていると、大輝はほんの少しだけ唇の端に笑みを浮かべながらドアを開けた。
その瞬間。
「薫ちゃん、ようこそー!」
パン! パン! という乾いた音と共に、陽気な男の声が響いた。
唖然として立ち尽くす薫が目にしたのは、満面の笑みでクラッカーを手にする男だ。歳の頃は四十代後半だろうか、髪に少し白いものがあるし、目元には笑い皺が目立つ。
「あっれぇ、驚いちゃった?」
男はがははと豪快に笑い飛ばし、薫の手を取って握手をする。
「よく来たねぇ。北海道は遠いから疲れたでしょう? ささ、入って入って」
「えっ、えっ」
男は薫の手を引き、リビングに案内していった。その後ろを大輝が『やれやれ』と呆れ顔でついてくる。
「雅さん、お孫ちゃん来たよ!」
薫の胸がギクリとした。リビングにいたのは白髪を綺麗に結い上げた老女だった。おっとりとした声で、微笑む。
「まあ、やっと会えたわ。初めまして」
薫は目をまん丸にし、何も言えずにいた。意外だったのだ。母親の清良は威勢がよく豪快な性分だった。てっきり祖母も似たような人なのだろうと思い込んでいたのだが、目の前に立つ老女はまったくの対極だった。
大きな目はアーモンドのようで、若い頃はさぞ美人だっただろうと思わせる顔立ちだ。柳のようにしなかやな立ち姿には『雅』という名前がよく似合う。
とっさに会釈をすると、右足首のテーピングが目に入った。
「あの、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね」
「……足、平気ですか」
「ええ、湿布をしてしばらく安静にしていれば大丈夫。迎えにいけなくてごめんなさいね」
「いえ……」
絞り出すような声で答えたものの、それ以上は何を話していいかわからない。
すると、さきほどクラッカーを鳴らした男が二人の間に割って入った。
「わあお、感動の場面ってやつだね! ほら、薫ちゃん、そんなびっくりした顔してないで、おばあちゃんにせっかく会えたんだから、笑って!」
大輝がスーツケースを置き、眉をしかめた。
「どちらかというと、あなたにびっくりしてるんじゃないですか?」
「ええ? そうなの? だったらごめん!」
「あ、いえ、両方です」
「さすが清良ちゃんの娘、正直者!」
「母をご存知なんですか?」
「まあね、初恋の相手だもん」
「ええっ?」
雅がくすくすと笑い出した。
「こちらは
大輝が言っていた『同じ苗字の男』や『騒々しい』というのは、彼のことかと納得する。
「初めまして! 薫ちゃん、群馬は初めてでしょう?」
「あ、はい」
「いろんなところに連れて行ってあげるから、よろしくね!」
「えっ、いえ、そんなご迷惑をおかけするわけには」
「遠慮しないでよ。楽しいことは一人より二人がいいでしょう? 大丈夫、大丈夫、アラフィフだけど、気持ちは若いから話も合うはず! ところで、うちの愚息が失礼なことしなかった?」
「愚息?」
「うん、大輝はね、うちの息子。あとは猫が二匹いるよ」
「ええ? 息子さんなんですか?」
「あ、その反応は傷つく。どうせ、息子のほうが落ち着いてるとか言うんでしょう」
「いえ、そんなことは……」
「ありますよ」と、大輝が顔をしかめている。
「薫さん、引いてるじゃないですか。しかも無駄口たたいてせっかくの初顔合わせを邪魔しちゃって。年相応の落ち着きを身につけてください」
「ひどいなぁ。大輝は丁寧だけど歯に衣着せない性分なんだよ。傷つけるようなこと言わなかった?」
「ああ……なるほど」と、薫はひとりごちた。ロータリーでのサクラチルは嫌味でもなんでもなく、本当に自分が落ち込んでいるようには見えなかったのだろう。
そこで雅がパンパンと手を打った。
「はい、親子喧嘩はそこまでですよ。ささ、ご馳走が冷めますよ。いただきましょう」
薫は「わあ」と掠れた声を漏らした。リビングのテーブルいっぱいにご馳走が用意されていたのだ。
大皿に盛られた唐揚げやサラダ、おこわ、刺身。それにラップで包まれた小さなおにぎりが綺麗に並べられていた。
「なんだか……すみません」
思わず口をついて出たのはそんな言葉だった。まさか自分が歓迎されるとは思ってもいなかったのだ。
「なにを謝っているの、面白い子ね」
口元を手で隠し、雅が笑う。
「そういうときは『嬉しい』と言うものよ」
詠人が薫の背中を押し、テーブルの上座に座らせた。
「はい、主役はここ! 大輝はみんなのグラスを運ぶの手伝って」
「はいはい」
櫻井親子はそろってキッチンに向かう。すると詠人がそっと大輝に囁いた。
「で、どうだった?」
「どうって、なにがです?」
「薫ちゃんはそっち側?」
「どちらかというと、こっち側でしょうね」
「そうかぁ。大丈夫かな。ここでやっていけるかな」
「……そうですね」と、大輝が少し顔を曇らせ、ため息を漏らす。
「なるようにしかなりませんよ」
それは、ほとんど声にならない声だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます