ガラスペンを透かせば、君が

深水千世

桜色の大岡山

迎え

 群馬県の某駅からリムジンバスが走り去る。

 残されたのは、スーツケース片手に立つ一人の少女だった。快活そうな目鼻立ちをしているが、表情に疲れが見える。彼女が札幌を出て八時間はたっていたのだ。少女は黒髪を耳にかけながら無人のロータリーを見渡し、口を尖らせた。


「ちょっとぉ、誰もいないじゃない」


 母親の話では祖母が迎えにくるはずだ。生まれてから十八年間、一度も会ったことのない祖母で、顔どころか電話越しの声すら知らなかったが。

 時計を見ると午後六時過ぎ。そして視線は風になびく駅そばの暖簾に留まった。鳴り響く腹の虫。


「食べてみようかな。一度食べてみたかったんだよね、駅そば」


 暖簾めがけて歩き出したときだ。ロータリーの駐車場に停まっていた乗用車から一人の若い男が降りた。長身で小綺麗な男だった。

 それに気づいた少女はたじろいだ。その男は吸い寄せられるようにまっすぐ彼女に近づき、目の前に立ちふさがったのだ。


「あの、なんですか?」


 後ずさりする彼女に、男はこう言った。


渡瀬わたせかおるさん?」


「え、そうですけど」


 どうして私の名前を? そう尋ねようとした矢先、男は軽く会釈をした。


櫻井大輝さくらいだいきといいます。あなたのおばあさんの代理です。みやびさんは今朝、転んで右足首を捻挫しましてね。運転は辛いというので、僕が迎えにきました」


 祖母の『みやび』という名を口にしたことで、ふっと警戒心が薄れた。


「そうなんですか。それはわざわざすみません」と、咄嗟に頭を下げる。

 彼はちらりと駅そばの暖簾を見やり、素っ気なく言った。


「夕食は用意してありますから、駅そばはまた今度にしておいたほうがいいと思います。食欲があるのはいいことですがね。サクラが散ったにしては、それほど落ち込んでいないみたいですね」


「なっ!」


 なんだって? という言葉は最後まで口にすることができなかった。驚き、呆れ、そして沸き起こる怒り。人間は頭に血がのぼると言葉を失うものらしい。


「それじゃ、いきましょう」


 大輝は悪びれもせずスーツケースを手に取ると車に戻っていく。


「ちょっと待ってよ!」


 慌てて後を追うと、彼は助手席を指差した。


「うっ」


 薫は怯む。この男の言いなりになるのは癪だが、ここで一人にされるのは困る。妙な敗北感でむくれながらも、渋々ドアを開けた。

 すぐに大輝も運転席に乗り込み、「ではご案内しますね」と、車を北に向かって走らせる。


「薫さん、お腹すいてますか?」


 駅そばを注文しようとした人間に向かって愚問極まりないと無視したかったが、腹の虫が鳴りそうな今は沈黙が怖い。気を紛らせるためだと自分に言い聞かせて、返事をした。


「朝から食べてないんです。飛行機なんて初めてで、緊張でご飯どころじゃなくって」


「そうですか。雅さんのご飯は美味しいですよ。期待してください」


 どこか誇らしげな響きに、薫は首を傾げた。


「うちのおばあちゃんとどういうご関係ですか?」


「ああ、店子です。雅さんの貸店舗にうちの工房が入っているんですよ」


「工房って?」


「ガラス工房です」


「へぇ!」


 薫の表情が少しばかり和らいだ。


「素敵! ガラス細工やってみたいな」


「でもあなたは雅さんの店を手伝うんでしょう?」


「えっ、なにそれ、おばあちゃんも何か店をやっているの?」


「知らないんですか?」


 大輝は少しばかり目を丸くしたが、すぐにふっと笑う。


「うん、雅さんらしい。きっと、あなたのお母さんもサバサバしているんでしょうね」


「そうですね」


 母親のぬくもりだとか愛情なんて微塵も感じられない人です。そんな言葉を呑み込み、座席に深くもたれた。言いたいことを我慢するのは慣れていた。それなのに、喉元に重石をされたような閉塞感はいつまでたっても慣れないのだ。


 結局、二人の会話はそこで途切れてしまった。薫はぼんやりと車窓の景色を見やる。市街地を抜けると、どんどん畑が目立つようになり、迫る山では若葉と常緑樹が織りなす緑の濃淡がせめぎあう。その中で淡く白みがかっているのは、咲き始めたばかりの桜だ。ふくれっ面の薫は、その眩しさに目を細める。


『どうせ私はサクラチルよ』


 薫は受験した大学すべてに落ちた。緊張のあまり解答欄がずれてしまったり、試験前日に高熱を出したり、とにかくついていなかった。

 ロータリーでのやりとりを思い出し、薫は顔をしかめた。


『でもさ、初対面であれは失礼じゃない?』


 大輝のなにが癪に障ったかというと、『それほど落ち込んでいないみたい』という一言だった。

 これでも落ち込んでいたのだ。恋もせず、自動車免許もとらず、青春そっちのけで勉強してきたのに結果は散々だったのだから。


 けれど、実の母である清良きよらは冷たいほどドライな性格で、慰めることなどなかった。むしろ、肩をすくめてこう言い放ったのだ。


『来年も受験するの? わからない? とにかく穀潰しでいられるのも困るからさ、群馬のおばあちゃんと住んでくれる?』


 そして知ったのは、自分が知らないうちに両親の離婚が成立し、父親が愛人と出て行ったことだった。

 さらには群馬県でいくつかの店舗兼住宅を所有している祖母が、その管理を清良と薫に任せたいと申し出てきたことだ。


『母さんもさすがに歳か。でもねぇ、私、あと一年はこっちにいたいのよ。お弟子さんたちの新しい先生を見つけてあげたいし、演奏会の予定があるし』


 清良は札幌の交響楽団でバイオリンを演奏する傍ら、バイオリン教室を主宰していた。何十人もの弟子を放り出してすぐには戻れないというのである。

 それで高校を卒業して群馬県にやってきたわけだが、傷心の彼女に大輝の無神経な言葉はこたえた。


『まぁね、母親でさえ慰めの言葉もないし、父親は女と逃げるし、赤の他人が優しい言葉をくれるわけないか』


 孤独だった。将来の道は途絶え、両親は自分を突き放したようにしか思えない。それに初めての本州は北海道とは何もかもが違う。北海道には曲がりくねった道も、大きな竹藪も瓦屋根もない。そこらへんに墓地がぱらぱらと散らばっていることもないし、目にする街路樹も初めて見るものだ。ぽんと異世界に放り出されたような心細さに胃が軋む。


 薫は運転席の大輝を盗み見た。涼しげな落ち着きと若々しさを併せ持つ風貌で、二十代前半だろうと思われた。きっと今までの人生で自分のような惨めな思いをしたことなどないのだろうと、薫は鼻をすする。

 考え方が僻みっぽいのは、空腹のせいかもしれない。切ないほどひもじいのは、腹なのか心なのか。


『やっぱり、駅そば食べてくるんだったな』


 後悔した途端、とうとう腹の音が鳴り響いた。思わずかあっと赤面すると、大輝が声に出さず笑った。


「もうすぐですよ」


「はあ」


 とてももうすぐとは思えなかった。駅からもう十五分は走っているが、いっこうに到着する気配はない。それどころか周りは杉ばかりになり、どう見ても山道だ。ガードレールの向こうには渓流が流れているようだが、日が落ちてよく見えなかった。


 薫は唇を噛み、黙り込む。大輝は丁寧で物腰も柔らかい。だけど、絶対的な壁があるように感じて、どうにも息苦しい。初対面だからというより、もともとの彼の性質に思えた。


『札幌に帰りたい』


 もう簡単には会えない友人の顔が浮かんでは消えていく。涙がじんわり滲み、慌てて堪えた。

 ふと、フロントガラスの向こうに気づいた薫の顔つきが険しくなった。嫌なことは重なるものだ。


「櫻井さん」


「ああ、名前でいいですよ。うちの店、同じ苗字の男がもう一人いるんで」


「じゃあ、大輝さん」


 薫が躊躇いながら切り出した。


「前の車と、もうちょっと距離を置いたほうがいいと思いますよ」


「えっ、そうですか?」


「いや、車間距離は十分あいてますけど、その、なんとなくもっと離れたほうがいいと思います」


 大輝はきょとんとした。彼らの前を走行するのはシルバーの軽自動車だった。遅く感じるほど模範的な運転で、酔っ払い運転や居眠り運転をしているようにも見えない。だが、すぐに「わかりました」とだけ言い、速度を落とし始めた。


 薫は変なことを言う人だと思われただろうかと大輝を盗み見る。彼は何も気にする様子はなく、涼しい顔をしていた。


『よかった。理由を言わなくて済む』


 それはつまり、あの好奇と恐怖の入り混じった目で見られなくて済むということだ。

 薫は顔を歪ませ、そっと両耳を塞いでみた。そんなことをしても無駄だとはわかっていたが、それでも。


 彼女の耳には、軋むような不協和音が聞こえていた。前を走る軽自動車から重く響いてくるのだ。そしてそれは大輝には聞こえないものだと、彼女はよく知っていた。

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