捨てるに覚える子の慟哭を

神取直樹

プロローグ:対酒

 床に伏し乾いた唇に、骨のような指を当てる人型のもの。不自然に艶めく髪は炭より黒く。瞳はその弱々しい体の血が溢れたように赤い。


 座敷牢。黒髪に赤い瞳を飲んだ少年は、そこにいた。今、日に一度だけの水と残飯の粥のようなものを食む彼は、齢十一を超えて暫くになる。鏡合わせ、双子の兄の誕生日には、少しだけ粥の具が上品な味付けだったような気がする。

 少年はそんな過去の情景を思い出しつつ、喉に詰まりそうな今日の粥を食べ終わって、一匹の羽虫が浮いた水を飲み干した。


「終わったんなら牢の外に出しておけよ。そんな汚物部屋に入りたくない」


 ふと、男の声が聞こえた。その声も言葉も既に聞き慣れて、最早憎さを超えて呆れてしまった。男はもう見なくても姿を理解できるほど、少年と付き合って来た仲である。男は裸女祐多らじょゆうたという。ある程度伸ばした黒髪を一つに纏め、にんまりと笑う口は人間らしさを奪う鮫の如き歯を並べる。しかしそれとは付き合ってきたと言っても、関係性としては飼育員と畜生の関係に近い。


「睨むなよ。今日は腐ったもんが入ってなかっただけマシだったろう?」


 睨んではいないと、言い返す体力も既に消えている。どうやら自分はただ見つめるだけでも、憎悪漏れ出す目をしてるらしい。鏡を見たことがないからか、少年は自分の姿をよく知らない。双子の兄は一卵性というやつで、本来ならば自分とそっくりらしい。人の姿は経験に現れるという。ならばきっと、彼と自分は違う姿をしているだろう。

 微かに聞こえてくる声色等からは、自分のような生活ではなく、物語に出てくるような生活をしているようだ。毎日服を着替えて、毎日三食違う味と形と匂いの固形物を食べ、毎日柔らかな布団というものにくるまって、「兄さん」「母さん」という生物と笑っている。自分は経験もしたことがない。その差異は、きっと目に現れている。双子の兄はおそらくは、裸女にも睨んでいるなどとは思われていない。


「あぁ、そういえば」


 少年が牢の外に投げた、割れ欠けの器を拾って、裸女が思い出したように言う。


「昨晩、長男の縒夜よりや様がお亡くなりになった。俺の所有権は次男の科夜しなや様に移っている。そのうち、お前の待遇も変わるだろうよ」


 どうでも良いことだと言うように、裸女は欠伸を一つ置く。

 少年にその名前はよくわからなかった。夜という名を聞きつけて、おそらくは自分と同じ家のものなのだろうとしか知れない。回転する頭の中、それが双子の兄の言っている「兄さん」というものなんだろうと思っただけだ。


「それが良い方向かは知らん。まあ大体、悪い方向ではあると思うけどな。アイツなら、お前を本当に殺して、何処かに埋めるくらいするだろう」


 妙に、語る日だなと、少年は思った。いつもならば何も言わずに去る裸女が、少年のことを語りだす。その、縒夜という長男と、科夜という次男について。


「縒夜様は決断力がなかった。甘い。甘すぎて生贄になるほか有用性が無かった。だが科夜様なら、兄の欠点を見ているのなら、おそらくは、自分の命にしがみつくだろう」


 期待のような含みを飲んで、裸女が言う。

 少年は語り始める裸女に飽きて、筋肉のない体を引きずり、唯一の家具である本棚まで擦り寄った。そのまま本を開くと、黙ってそれを読み始める。そうすれば、語る裸女の声を塞ぎきれた。


「……つまんないだろうよ。言ってる意味がわからねえんだから」


 あぁ、全くもってつまらないと、少年は返事してやろうとも思う。だが、そんなことにわずかな体力を使うことも出来ない。眠るにも体力は必要である。唯一の知識源である本を読む以外に、使ってやる体力はない。


「それでも、信じることだ。お前はそのうち変わる。それだけは絶対だ」


 転機と一つの笑いを謳って、裸女はやっと、屋敷に続く階段を上がっていった。

 それを確認した少年は、本のある頁を開いて、床に横たわる。その頁に挟まっていたのは、一枚の紙切れ。その紙に書かれていたのは、【銃夜】という文字。


――――これが、俺の名前。


 少年は紙を折れないように触れる。撫でた指はかさついて、酷く細い。


『銃夜へ』


 それだけが書かれたその紙の、書き手は知らない。それでも、酷く、酷く、その文字が懐かしくて、柔らかく感じて、きっと書き手はそういう人なんだなと、勝手に思っている。その文字が自分の名前であることは、裸女から聞いたことであったが、それが真実であると思いたいほどに、自分が銃夜であることを信じるほどに、その文字に魅了されている。


 少年は明日を暫し生きることについて、その文字へ一切の責任を負わせていた。


 そして眠る。

 明日、この牢を出て、自分の姿に向き合わねばならなくなると知らずに。

 鏡合わせの兄を見て、喉からひび割れる声を上げねばならないと知らずに。


 今がまだ、朝焼けの中であることを知らずに。


 少年は、何も知らずに、今が全てが寝静まる夜と信じて、夢の中に落ちた。

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