プロヒビティッド849
チェクメイト
1 とんだ船旅
彼が目を覚ますと、目の前には見慣れない衣装に身を包んだ女がいた。
黒いローブに三角帽、眼窩に嵌められた
しかし、これは現実だ。そう彼に伝えたのは、疑い様の無い、あまりにも実際的な痛みの存在だった。
脈動に呼応してずきずきと後頭部を襲う痛覚神経のシグナルに、彼は思わず顔を顰める。手をあてがうと、ぬるりと温かい感触。べっとりとついた赤い血は、鉄サビっぽい嫌な臭いを放つ。
「気がついた……」
彼の顔を覗いていた魔女は最初、恐怖混じりに強張っていたが、見る見る内にその表情は崩れ出し、ついには子供のように無邪気にはしゃぎ始めた。
「……気がついたわ、ミミ姉さん! 成功! 姉さん! 見て、ほら! 起きてる!」
慌てて走り寄ってくる、もう一人の女。ミミ姉さんと呼ばれた彼女は、これまた露骨に女戦士と言った露出の高い鎧に白いスカート。傷んだ鞘に納められた一本の剣が、物々しく腰からぶら下げられていた。物々しいのは剣だけじゃない。彼女の片目は真っ黒な眼帯で覆われており、そこから覗く古い傷跡は、亀裂のように顔の左半分に走っていた。生々しいメイクだ、と彼は思った。
彼は痛みの中で、必死に自身の理性に耳を澄ませた。
(……一体何だ? このコスプレ姉妹は……? ここはどこだ?)
彼の理性はぐるぐると彷徨った挙句、どこにもたどり着かなかった。少なくとも俺は生きているらしいが……と、それが彼の精一杯の結論で、後は全て保留だ。
「ヒュー、生き返ったのかお前」
女戦士ミミは彼に向かってぶっきら棒にそう言った。
「ネネが馬鹿な勘違いするから、そのまま死んでくれてた方が良かったんだけど」
ミミはシニカルに口の端を歪ませて、ぺっ、と地面に唾を吐いた。言動、物腰、風貌、その全てが粗雑で、女らしさの欠片もない。
「その1。姉さん、この男はもうヒューじゃないわ。
その2。誰が馬鹿よ。私の才能に嫉妬しないで……!」
と、今度は魔女ネネの言葉。彼女は姉と違って落ち着いた佇まいだが、お淑やかというには程遠かった。目の下にクマを作り、陰鬱な表情を裂くように、時折内なる感情の高ぶりを覗かせている。
ミミは呆れ顔でため息をついた。
「うるっせえのよ、禁術マニア。さあ、ヒュー。生きてたんならさっさと立ちな。モタモタするならこのままここに置いとくよ!」
彼は無意識に、辺りを見渡した。一本の砂利道を挟んで、延々と森が広がっている。木漏れ日が砂利道と二人の女にまだらな陰影を落としていたが、他には何もなく、誰もいない。蒸し暑く、耳に刺さるような虫の大合唱。
彼は唾を飲み込み、一呼吸つくと、目覚めて初めての言葉を発した。
「……ヒューってのは、俺の事か?」
彼の掠れた声を聞き、ネネは破顔した。対照的に怒り顔になるミミ。
彼女はずかずかと歩み寄り、脇に唾を吐き捨てると、思い切り彼の胸ぐらを掴んだ。女とは思えない怪力に、彼の体は赤ん坊のように軽々と持ち上がる。
気道が圧迫され、彼は苦悶の表情を浮かべた。
「つまんねえ冗談はやめろ。もう一回死にてえのか? それともアタシの妹をビョーキ扱いしてからかってんのか? ああ!?」
妹の禁術が成功した“フリ”をしていると勘違いしたミミは、ドスの利いた声で彼を恫喝した。
が、彼にはそんな積りは毛頭無い。禁術が何の事で、誰に何をされたのか、てんで分からない。分からない事尽くめの現状で、彼はまず自分が『ヒューという人間ではない』事を――あるいは、『ヒューという人間である』事を確認したかっただけだ。
「姉さん、言ったでしょ。この手稿は本物なのよ……これは本物の『キャンディ・マニュスクリプト』で、目の前で起こったのは本物の
酔って転んで後頭部を強打し、憐れあの世に旅立った傭兵ヒューのマナは、同時に亡くなったこの世の何処か……あるいは異世界の住人のマナとそっくりそのまま入れ替わった。
信じなくてもいいわ。何が起こったか、この男の口から出てくる言葉の一つ一つが未知の響きを湛えている事に、今に気づくから」
「アタシ達の言葉を喋ったじゃねーか」
「馬鹿ね。言葉はマナがそう伝えているだけ。言葉の向こうに佇む情感の話をしてるのよ。姉さんの心に詩的情感が無いのは知ってるけど」
「アタシは商人だ。数字しか信じない」
「いいから離しなさいよ。異世界の話を聞きたいの」
刹那、彼は自分の全身が頼りなくグラつくのを感じた。それは胸ぐらを掴まれて足が地面から持ち上げられたせいでは無い。彼の奥深くに眠る魂……この世界では“マナ”と呼ばれる存在が、ヒューと呼ばれた人間の肉体と不整合を起こした為である。
不整合はちょっとしたデジャヴを彼に引き起こした。この感覚を彼の経験上最も相応しい言葉を使うなら、船酔いだ。逃げ場の無い不快感が体の奥底で騒ぎ立て、目眩と吐き気がじわじわと全身を支配する。
とんだ船旅をさせられた事に、彼はまだ気づいていなかった。彼の元居た世界では、魂という概念は非現実の範疇だ。自分の魂が異世界に転移させられたなんて、事実として受け止められるはずが無い。彼の常識は当然ながら、彼の世界や宇宙の秩序から一歩も出ることが出来ないのだから。
“現象“を前に、固定観念はあまりにも無力だった。非力な理性は、彼の目眩を悪化させる。
その先に待っているのは……たった一つの終着点。
即ち、パニックだ。
「ネネ、お前の言ってる事はこの男を追い詰めてるんだぜ」
ミミは腰から剣を抜き、彼の喉元に宛てがった。
「お前の世迷い言を信じた訳じゃないが……お前の糞ったれ降霊術は、教会の禁じたものだ。こいつの中身が異世界からのどっかの誰かさんだったとして、そいつがバレれば異端審問官が黙っちゃいない。
もう一回言うぞ、アタシは商人だ。一銭の得にもならない厄介事を抱える積りは毛頭ない」
彼女の脅しは、彼の症状を悪化させた。
「殺人だって、自警団が黙っちゃいないわよぉ……!」
ネネはミミの筋肉質な腕を掴み、捲し立てる。
ぐらぐらと揺れる彼の視界。そして吐き気。
「ほら、姉さん。こういうオモチャはグラスケージの大好物じゃない! あいつに任せれば、黙っててもこいつは金に変わるわ! 貴重なサンプルを、みすみす殺す事なんて……!」
「黙れネネ! ヒュー! お前もいつまでしらばっくれてんだよ! 死にたくなかったら、お前の借金の額を1ゴールド足りとも誤魔化さず言ってみな! さもなくば……」
ミミはそこで、怒鳴るのをやめた。
パニックか、はたまたマナの“船酔い”か、あるいはヒューという男が死の直前までに暴飲した酒のせいか。
複数の要因により非常事態だと判断した胃と食道が、全身全霊を賭けて自らを痙攣させ、彼を盛大に嘔吐せしめたのだった。
「おえっ! ……おげえぇぇぇぇっ!」
果実酒によってピンク色に染まった吐瀉物はミミの胸元を汚し、腹を撫で、そのまま太腿を伝って地面にまで流れ落ちる。
辺りに立ち込める胃液の悪臭。
ミミは微動だにしなかった。ただ、微かに震えていた。
「綺麗なゲロだわ」
ネネが楽しそうにそう呟くと、ミミは彼の胸ぐらから手を離した。彼は地面にぐったりと倒れ込み、げほげほと苦しそうに咳き込む。
「……気が変わった」
ミミはぎゅっと剣の柄を握り直す。
「こいつがヒューでも、そうじゃなくても関係ない。教会も商人も何も関係ない。
こいつはさっきまでここで死んでいたし、その事実は変わらない」
「やめてよ……勿体無いわよぉ……」
彼は慌てて地面を這った。残念そうなネネを尻目に、ミミはずんずんと彼に距離を詰める。迷いの無い、完全な殺意を持って。
彼には何も分からなかった。ここがどこなのか、目の前の姉妹が一体何者なのか、何故自分が『ヒュー』と呼ばれるのか、これが夢なのか現実なのか。
ただ一つ分かるのは、目の前の荒々しい気性の女戦士が、その手に握った長剣で自分を真っ二つにしようとしている事だけだ。
後ずさる彼の進路は、ふいに一本の木によって遮られる。彼を追い詰めたミミは歩みを止め、彼を睨みつけながら、ゆっくりと剣を空に掲げる。
彼はぎゅっと目を瞑った。覚悟をした訳でも、運命を受け入れた訳でもない。ただただ、そうするしか無かった。
瞼の裏に浮かぶ、ちりちりと火花のような模様。虫の声を縫って、微かに鎧の擦れる金属音が耳に届く。
……しかし、ミミは一向に剣を振り下ろさなかった。
彼女の気が変わった訳ではない。
森の奥から、蹄の音が聞こえたのだ。
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