第2話 ナナ

 ◇◇◇


 私は今日も嘘をく。


 

 絹糸のように細く、真っ直ぐな髪。色は墨のように真っ黒で、でもつやつやと光っている。すっきりとした輪郭の顔。シャープなあご。すっと通った鼻梁びりょう。白い歯がこぼれる薄い唇。切れ長の目は長い睫毛まつげふちどられていて、瞳には強い光が宿っている。泣き黒子ぼくろが最高にセクシー。


 背が高くて、手も足も長くて、運動のあとでも石鹸せっけんの匂いがする。優しく響く涼やかな声は耳に心地がいい。


 朝日に照らされた雪原のきらめき、暑気を払う清涼な風、舞い落ちる花弁はなびらの香り、色づいた葉からこぼれ落ちる柔らかな光。それら美しいものを集めて固め、ナノレベルで精緻せいちに削り出す。


 そうしてできたのがサキちゃんだと、私は思っている。


 サキちゃんよりも綺麗な人間はいない。

 ううん。人の中でだけじゃない。

 この世で一番綺麗なもの、それがサキちゃんだ。



 サキちゃんと初めて出会ったのは、小学五年生の夏休みの前。


 転入の挨拶あいさつなんて面倒だと思いながら、担任の後ろからうつむいて教室に入った私は、生徒が私の容姿に感嘆かんたんしたことに満足し、上目遣いで素早く教室に視線を走らせた。


 目に止まったのは、一番後ろの席に姿勢よく座った女子。


 視線がぶつかった瞬間、頭の中に花火が散った。


 すぐに目を伏せたけれど、もう遅かった。


 心臓は蒸気機関車のピストンのように激しく鼓動こどうを刻み、血液を頭へと押し上げていく。きゅうっと胸が苦しくなり、眩暈めまいがした。足が震えて崩れ落ちそうになるのを必死でこらえる。


 息が苦しくて、名前を上手く言えなかった。


 誰かが何かを言ってどっと笑いが起こり、担任が叱りつけたが、耳鳴りがしてほとんど聞こえなかった。


 教師に背中を押されて席に座るようにうながされたのだと知り、汗で濡れた手でスカートのももの辺りを握りしめ、足をもつれさせないように注意して歩いた。


 用意されていた座席はあの女子の横だった。

 奇跡だと思った。神の存在を信じかけた。


 隣の席だということに。

 そして、間に通路があることに。


 反対側の、ぴったりと机をつけた方の隣だったなら、きっと私は気持ちを抑えることができなかっただろう。



 一瞬で心を奪われたその日、私は彼女を手に入れるために、幼い頭で精一杯考えた。


 幸いこの学区は中学まで持ち上がりだ。中学受験をする生徒も少ないと担任が言っていた。 


 時間はたっぷりある。


 焦らずに、じっくりと、確実に、彼女を私のものにする。

  

 夏休みはもうすぐ。


 終業式の日に強い印象を与えてやれば、休みの間、何度も繰り返し思い出すことになるだろう。


 そうやって、私という存在を、彼女の中に深く植え付ける。


 まずはそこからだ。



 ◆◆◆



 ナナがうちに泊まりにくるのはよくあることだ。


 あたしのパジャマを着たナナと同じ布団に滑り込む。


 お風呂に入ったあとなのに、すぐに布団はナナの甘い香りで満たされる。

 

 いつもなら手を握って、ナナの規則正しい寝息を聞きながら、幸せな空気の中で眠りに落ちる。


 だけど、この日は違った。


 ナナがすがりつくようにして腕にしがみついていた。


 うすい布地ごしにナナの体温が伝わってくる。

 ナナの髪から、あたしと同じシャンプーの匂いがする。


 下着を着けていない、柔らかい胸が腕を挟んでいて、あたしは硬直するしかなかった。


 腕が解放されたとき、名残惜しい気持ちと、ほっとした気持ちがない混ぜになって、あたしは自分に呆れた。


 けれど、布団の中で体を起こしたナナが顔をのぞき込んできて、それどころではなくなった。


 豆電球の光では、見下ろしているナナの表情は見えない。


 熱に浮かされたようにうるんでいた目だけがはっきりと見えた。


 サキちゃん、とかすれた声が降って来た。


 心臓がうるさい。


 ナナに聞かれてしまう。

 この気持ちを知られてしまう。


 だけどあたしはナナから目をそらせない。


 ナナは口がつきそうなほど顔を近づけてきて、忘れさせて、とささやいた。

 吐息が唇をなで、ほんのかすかに唇が触れ合った。


 電撃が走った。

 手足の指の先に残った痺れが、あたしをベッドに押さえつけた。


 次にふにょっとした柔らかさを唇に感じたあとのことは、ほとんど覚えていない。


 ナナの温かさ、わずかに漏れる声、背中に回された手の強さ、そして、ただただいとおしいという気持ちだけが記憶に残った。



 ◇◇◇



 優しくて、面倒見がいいサキちゃん。

 だから私は、弱くて、恥ずかしがり屋で、頼りない演技をして、その庇護ひご欲を誘う。


 シャープな見た目とは裏腹に、レースやぬいぐるみといった可愛いものが大好きなサキちゃん。

 だから私は、過度に甘ったるい服装と仕草を心掛け、その所有欲を満たす。


 成長してサキちゃんにつやっぽさが加わってくると、それまで見向きもしなかった男どもが、サキちゃんの魅力に気づき始めた。嫌らしい視線がサキちゃんにからみつく。


 そのことごとくを断ち切り、時には体を使って叩き潰してきた。



 でも、ほんの少し目を離した隙に、サキちゃんは私に黙って恋人を作った。


 それを知ったとき、目の前が真っ暗になった。身体からだ中から冷や汗が出て、椅子ごと奈落の底に落ちているような感じがした。


 体の制御がかず、口が勝手に、したの、と小さく問いかけた。


 サキちゃんは驚いたように目を開き、ちらっと上を見た後、恥ずかしそうに笑った。


 その瞬間、カッと頭に血が上り、視界が真っ赤に塗りつぶされた。


 凍っていた血液が一気に沸点に到達し、煮えたぎったままごうごうと音を立てて体の中で暴れている。


 髪が逆立ち、筋肉が収縮して、体がぶるぶると震えた。


 よくも。よくも私のサキちゃんを。


 八つ裂きにしてやる。

 いや、四肢の末端からごりごりと削り殺してやろう。


 後にも先にも、こんなに強烈に殺意を覚えたことはない。


 だけど結局、私はその男を殺すことを諦めた。


 サキちゃんが幸せそうに笑うから。

 私が他の男の話をすると、寂しそうな顔を見せてくれるようになったから。


 その男を殺したところで、私はサキちゃんの恋人いちばんにはなれない。


 だから私はサキちゃんの親友いちばんであることを選んだ。


 サキちゃんは、絶対にその男に会わせてくれない。

 カレがナナを好きになったら困るから、とおどけたように言う。

 

 私がその男を寝取ったら、サキちゃんは私を嫌いになるだろうか。


 ううん、きっと、寂しそうに笑って、仕方ないねと許してくれる。


 だけど、私を見るたびに、透かして後ろにその男の影を見るだろう。


 そんなの、耐えられない。



 ◆◆◆



 ナナと一緒に果てて、あたしはその横に寝転がった。


 二人とも肩で息をしている。


 初めてだったけど、満足させることはできたらしい。

 

 ナナは私の肩に頭をつけて、そのまま寝てしまった。


 ふいに不安に襲われた。

 変わってしまったあたしたちの関係。

 これからどうなるんだろう。


 まだ親友いちばんでいられるんだろうか。



 ◇◇◇



 ある日、男の話ばかりをするサキちゃんを見ていられなくて、私は彼氏に乱暴されたと涙を流しながら訴えた。


 私の嘘にサキちゃんは真っ白な顔をして、唇を戦慄わななかせた。


 そして、いつも以上にひやりとした手を私の頬にあててから、そっと抱きしめてくれた。


 その反応で私は満足したけれど、それだけでは終わらなかった。


 耳元でささやかれた、今日は泊まりにおいで、という声に、甘いしびれが体に走った。

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