エピソード2 異世界に飛ばされるまで

一話 変わらない現実からのリスタート


 朝山橙也が異世界オーベルへと行き、健康食堂で働き始める、少し前のこと――。


 管理栄養士である彼は、大手電機メーカーの支社にある社員食堂で働いていた。

 社員食堂を運営しているのは飲食業を営む別の会社で、橙也はこちらの契約社員である。


 大学や他の企業にも食堂を出している、業界内では結構大きな会社だ。

 安定しているとか、給料がいいのだろうとか言われがちだが、実際のところ橙也の月給は、額面で約二十万円。契約は一年更新であるため、更新がされなければ途端に無職となる。

 当然、転職を考えたこともあるが、さほど待遇が変わらないことを考えると、その気なって行動を起こそうとは思えなかった。


「この後の人生、どうなっちゃうんだろうなぁ。お金持ちのお嬢様の専属料理人とかになって悠々自適な生活とかできればいいのに」


 天気のいい朝だというのに、これから仕事に行くと思うと体が重くなってくる。着替えをしながら、くだらない妄想で現実逃避するのも仕方のないことだった。


「兄さん、何を言ってるの?」


 大学へ行くために着替えを終えた妹の桃香が、橙也の部屋の扉を開けている。「ノックしてくれよ」と言うと「したけど返事がなかったから」とジト目で言われてしまった。


 橙也と桃香は二人で暮らしていた。

 両親は桃香が幼い頃に事故で亡くなり、それからというもの二人きり。

 桃香と少し歳が離れている橙也は両親のことを覚えているが、まだ幼かった桃香に両親の記憶はほとんどなく、残っている写真やビデオでその姿を知っているだけだ。そのため、両親に対する寂しさというものは強くないと聞いている。

 また、幸いというべきか、経済的な困窮はなかった。


 それなりに高額な保険に入っていたことや継いだ持ち家があったことなどが理由だ。

 そんな境遇の中、桃香はしっかり者に成長していた。しっかりしすぎて、がめつさや妙に交渉上手なところが気になるが、これくらいしたたかでないとうまく人生を送ることができないらしい。

 兄と比べて桃香は社交性があり、友達も多くて、いわゆるリア充と呼ばれるような存在だ。それでも彼女が兄のことを大切にしてくれるのは、両親の命日や橙也との記念日を友達との予定よりも優先してくれることからわかる。


 だからこそ、橙也はただ一人の家族である桃香を守ることだけを考えてきた。決して裕福とは言えないが、働きながら学生である妹を支えられていることが唯一の誇りと言っていいだろう。


「支度できたら行くからね」


「わかってるよ」


 会社へ向かう橙也は大学へ行く桃香といっしょに家を出るため、玄関へと向かう。

 靴を履き、カバンを持って、ドアノブに手をかけた。

 いつもどおりの一日――となるはずだった。

 この瞬間までは。


『トーヤ』


 どこからか呼ばれた気がした橙也は、後ろを振り向く。そこには床に座り、靴を履いている桃香がいるだけだ。


 彼女は視線を足元に落としており、橙也が振り向いたことに気づいていない。

 彼女が呼びかけてきた様子はないし、そもそも妹である桃香が名前で呼んでくることはない。


(……気のせいかな)


 すこし不思議に思ったが、続きが聞こえる気配もないし、ただの空耳だろう。そう納得してドアを開ける。


 瞬間。


 一歩踏み出すと、急に膝から崩れ落ちた。

 まるで階段から踏み外したようだった。このままだと転ぶ! と咄嗟に手をつこうとした橙也だが、つくべき地面がない。ただバランスを崩し、そのまま体が回転していくだけ。


「何がっ……!」


 見れば膝も地面があるべき場所に沈み込んでいる。転びそうになったのではなく、地面が消えていたのだ。

 単純な穴とは違う、何か異質な暗闇が橙也の足を飲み込んでいた。

 混乱する橙也の体に、後ろから桃香の手が伸び、一瞬体が引っぱられる。


「兄さん、わたしに捕まって!」


 桃香からしたら、急に兄が地面の中に吸い込まれているのだ。急いで手を伸ばして、助け出そうとしている。

 だが、女性の桃香では成人男性を引き上げることはできない。

 両手で必死になって持ち上げようとしているが、ジリジリと共に沈んでしまっている。


「桃香、逃げろ!」


 どうしてこんな状況になっているのか。なぜ自分がこんな目に遭うのか。そんなことよりも、桃香が道連れになってしまうのが怖かった。


(これからの人生、楽しいことがたくさん待っている桃香をこんなところで死なせていいわけはない……!)


 しかし、桃香は手を離そうとはしなかった。


「桃香、どうして……?」


「わたしにとって兄さんは……たった一人の家族なんだよ!? その家族がいなくなるなら……ここで死んだ方がマシだもんっ」


 勝ち気な彼女の目には涙が浮かんでいた。

 それだけで、橙也には彼女が共に行く道を選んだのだろうと察する。


(最後まで家族と共に……っ)


 そう思う橙也は、すでに限界だった。吸い込まれる力に抵抗することもできず、桃香共々、飲み込まれていく。


「「わああぁあぁぁっ!」」


 なすすべもなく一瞬で暗闇へ体が沈み込んでしまうと、そこからは落下しているような感覚もなかった。

 来るべき衝撃が来ないことに安堵し、しかし普通じゃない状況に言いようのない不安感が湧き上がってくる。

 それより、


「桃香、大丈夫か!?」


 引き上げようとしたまま自分の腕にくっついている桃香にそう問いかける。

 彼女が触れているのは確かに感じるが、何が起こっているのかわからない状況で尋ねずにはいられなかった。


「う、うん……なんともない、けど……。わたしたち、生きているんだよね?」


「た、たぶんな」


 いつの間にか二人はしっかりと自分の足で立っていた。

 立っている感覚はあるものの、地面は先程までと同じ真っ黒で、またいつ飲み込まれるのかわからない、という不安が拭えない。

 何が起きているのかわからない。


 だからこそ、橙也は安全を確かめるように、軽くその地面をつま先でつついた。

 先程とは違い、確かな硬さを感じた。

 恐る恐る体重をかけてみたが、変化はない。


「ここ、どこ?」


 ただの闇。辺りを見回しても闇、闇、闇。


 困惑した桃香の声に、橙也は答える言葉を持たなかった。

 見慣れた玄関先とは明らかに異なった空間。それどころか、現実感がなく、どこか夢の中を思わせるような不確かさを感じさせる場所だった。

 ここがどこなのか、ひとまず安全なのか、自分が確かめるしかない。今更かもしれないが、桃香を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。

 橙也は桃香をかばうように彼女の前に出ている。


(ひとまずこの場所は地面も抜けそうにないし、大丈夫そうだな……)


 安全そうなここに桃香を残して辺りを調べに行くべきか、それともやはり調べるにせよ一緒にいったほうが安全なのか。

 考えている橙也の服を、桃香が小さく掴んだ。


「兄さん、わたしたちどうなっちゃうの……?」


 橙也はつばを飲み込む。何が起こっているのかはわからないが、桃香をさらに不安にさせるわけにはいかなかった。


「きっと大丈夫だよ。ここにしても何もないから、とにかく少しずつ前に進んでみよう」


 恐怖を感じながらも、なんとかしなければと一歩踏み出しかけたそのとき――。

 ボゥ、と途端に辺りが明るくなったと思ったら、真っ赤な炎が地面から天に向かって膨らんでいった。


「……っ!?」


 絶句する。

 炎が消えた先にいたのは大きな何かだった。二つの大きな翼と金色に輝く皮膚。頭には角があり、口元は牙が見えていた。まるで、ファンタジーに出てくるドラゴンだ。

 そいつがかすかに身じろぎをするだけで、高層ビルがうごめくような、大きな威圧感がある。

 橙也は無意識に後ずさりかけたが、すぐ後ろには桃香がいる。そう思って踏みとどまった。


「こ、これ……夢じゃないよね……」


 後ろで桃香が息を呑む声がした。

 橙也は睨みつけるように、そのドラゴンへ目を向ける。半分くらい、意地みたいなものだ。

 視線をそらさないのかそらせないのか自分でも分からない中、ドラゴンを見つめ続ける。

 その視線に反応して、ドラゴンも橙也へと目を向けた。大きく、鋭い目がじっと橙也へと向けられていた。

 その目は爬虫類的な、温度や理性を感じられないものとは程遠い気がした。まるで、知性があるかのような。願望混じりかもしれないが。

 橙也は唇を引き結び、そのドラゴンを見上げ続ける。


「兄さん……兄さん……」


 彼女が怖がっているというのがわかるからこそ、橙也は兄としてドラゴンと対峙できていた。

 自分一人ならきっと、一目散に逃げていただろう。こんな大きなドラゴンから、逃げ切るのは難しいだろうが。

 なんとか彼女だけでも逃がせないだろうか。


(囮になるか……いや、そもそもここがどこかわからないし、帰れる保証もない……。くそ、何もできないのか……っ!)


 安全地帯もわからないこの状況で、自分の何倍も大きなドラゴンから逃げ切れるイメージが湧かなかった。

 その時、固まっている橙也たちを眺め、ドラゴンがゆっくりと口を開いた。


「む、怖がらせてしまったか」


 低く唸るような、しかししっかり通る声でドラゴンが言う。


(しゃ、喋った……?)


 びくり、と背後で桃香が反応した。

 橙也も内心驚いていたが、桃香が側にいる手前、なんとか平静を装おうとした。しかしそれで手一杯で、ろくな反応もできず、ドラゴンから目をそらさないだけで精一杯だった。

 ドラゴンが喋ったことにまず驚き、その後少しずつ希望が見えてきたことに気づく。

 喋れるということは、意思の疎通がはかれるということ。うまくすれば二人共見逃してもらえるかもしれない。しかも、向こうから声をかけてきているのだ。


(意外と草食かもしれないし……)


 そう思って口へ目を向けると、立派な牙が視界に入り、その可能性はなさそうだと悟った。


(これはやばそうだな……)


 見えてきた希望の光は消え、橙也は死を覚悟したのだった。

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