第弐話


昼食後、四郎丸は母たちのもとを離れ、瀬とは反対方向へ歩いていった。

まだ幼いが、ひとりでいるのが好きな彼は、しばしばこうした行動を取る。


身体が弱く始終熱を出すために、大人たちは彼をふすまで包んで風も当てぬようにしようとするので、四郎丸はそれを厭がり、大人の目をすり抜けては一人になりたがる。

邸中の者が大慌てで探し回るのも日常茶飯事で、塗籠の葛籠の陰や母屋の床下で寝入っているのを発見されることも多い。

それで結局熱を出して寝込む羽目になり、悔しさと己が身体の思うに任せなさに歯がみするのではあるが、四郎丸は懲りずに脱走を繰り返す。

たびたび西八条第に顔を見せる長兄重盛は、家人と一緒になって四郎丸探索に加わることが多く、見つけ出すのも大抵は彼であった。


その重盛に言わせると「四郎は一人になりたいだけゆえ、隠れ場所もそう遠くなく、母屋付近で見つかる。だが五郎は空に向かって放たれた矢のように、どこへ飛んでいくかわからぬ」ということになる。

実際五郎丸は重盛でさえ見つけられぬことが多く、やしき中大騒ぎの末、夕方ひょっこりと自ら戻ってくる。

西八条第の広い敷地内には、池やちょっとした茂みなどもあり、まだ幼い若君がうっかり落ちでもしたら一大事と、笹良や姉の秋葉は家司や女房頭にきつく叱られるが、そのたびに時子がおっとりと取りなしてくれる。

「この子らが気儘で行方をくらますのですから、乳母たちばかりそう責めますな」と。

鷹揚な時子御方は、闇雲に仕える者を罰したり、金切り声を上げて詰ったりなど決してしない、仕えやすい女主人だった。



さて四郎丸である。

乳母にさえ何も告げず、ひとり野に出て丈高い草むらの中でころんと転がり、葦の葉に切り取られたような空を見上げた。

さやさやと草を揺らす風は心地よく、身体の弱い彼を真綿にくるむようにして甘やかそうとする乳母も、何かと後を追おうとする弟も、ここに彼がいることに気づいていない。

静かで、自由で、のんびりしていて、年に似合わず「なにもしないでいること」が大好きな少年にとってはとても幸福な時間だった。


そうこうするうち、いつの間にか寝入っていたらしい。

地面の冷たさにふと彼が身震いして目覚めたのは、半刻ほどしたころだったか。

女たちが立ち騒ぐ物音に気づいて立ち上がり、幕屋の方を見れば、みな蒼い顔をして自分と五郎丸の名を呼んでいる。

無言で幕屋へ向かって走り出した四郎丸の姿を認めた秋葉は、ほっとして幼い主人を迎えた。


「丸さま、おひとりで行かれてはなりませぬと、あれほど申し上げましたものを…」


それを遮って四郎丸は乳母に訊いた。


「ごろうは?」

「…五郎丸さまもお行方が知れませぬ。今は四郎丸さまだけでも、母上さまにご無事をお知らせせねば」


幼い者はそうされて当然だが、四郎丸は日頃手を引かれて歩くことも嫌う。

そのことをよくよく知っている秋葉は、ここで手を離してはまたぞろ飛び出して行きかねぬとばかり、肩まで抱いて護るように時子の前へと養い子を連れていった。

お陰で四郎丸は顔をしかめながら母の前に出ることになった。


「お方様、四郎丸さま、お戻りにございます」

「おお、おりましたか。よかったこと」


母は安心したように四郎丸にふわりと笑いかけた。しかし続く秋葉の言葉に眉宇をひそめる。


「けれどおひとりきりでいらっしゃいました」

「まあ…四郎、五郎は一緒ではなかったのですか?」

「わかりません」

「まあ、困りましたね。どこへいったのでしょう」


片頬に手を当ててのんびりとつぶやく時子御方は、言葉ほど困っているようには見えない。

おっとりした女主人を余所に、側仕えの者たちが再び騒ぎ出す。


「丸さまはまだお小そうございますゆえ、お探しするのもなかなかに…」

「けれどそろそろ日も傾いてまいりまする。早うお探し申し上げぬことには」


そこで一人の侍女が、ふと気づいたように当たりを見回した。


「あら…?そういえば、山吹殿はどこへ?」

「そういえば見かけませぬ。まだ五郎丸さまを探しているのかしら」

「それにしても戻りが遅うございます。まさか山吹殿まで迷うたのでは…」

「迷うたのならばまだよろしゅうございます。このあたりは大江山にも近うごさいますし、よもや鬼どもが…」

「これ、滅多なことを申すでない!」


迂闊な侍女が侍女頭に叱られる。

この桂の地の西側には、古来鬼が棲まうという大江山が聳えている。

鬼の首魁である酒呑童子が源頼光にが成敗されて二百年近くが過ぎたが、京の人々の間には、未だ根強く鬼に対する警戒感があった。

ましていなくなったのは、飛ぶ鳥落とす勢いの平家の若君である。

侍女頭にとってみれば、山吹という侍女のことなどどうでもよかったのだろう。

主人である時子を憚り、子供の不在をそうした悪い憶測で騒ぎ立てる愚かな者を許しておけるはずもない。

叱責された侍女は慌てて無作法を侘びたが、さすがの時子御方も白い頬を蒼醒めさせた。

若君ばかりか朋輩の不在にも動転した女たちの狼狽うろたえ声を聞きながら、四郎丸はそっと色とりどりの衣の間を抜け、幕屋を滑り出た。

そして誰にも気づかれずに、再び葦の野原に向かって歩き出した。



無論彼は弟を捜しに出たのである。

邸内の庭とは違って、この草原には何が潜むかわからぬ。

母に似て暢気ではあるが、まだ小さな弟が帰れずに泣いているのではないか、と彼は兄らしく案じたのだった。

しかし女たちが懸念していたように、彼の背よりも高い葦の草原で弟を見つけ出すのは、とても困難な仕業である。

いつの間にか母たちの声も聞こえぬ遠くまで来てしまっていたらしい。周りには葦の茂み以外なにも見えぬ。

さて困ったなと細い腕を大人めいて組み考え込んだところへ、かさかさと草を掻き分ける音がして、ひょっこりと顔を覗かせたのは、誰あろう彼の小さな弟であった。


「あにちゃま!みぃつけた!」


嬉しそうに抱きついてくる五郎丸を、この時ばかりはほっとして抱き返す。


「ごろう!どこにいた?」

「きれいなちょうちょ、いたの」


あどけない声が得意そうに報告する。


「ちょうちょ、おいかけてきたのか?」

「うん!あにちゃまに、みせたげる」


そう言うなりくるりと踵を返して駆け出そうとする弟の袖を慌てて掴む。


「こら、またまいごになるぞ」

「まいご?」

「みんなさがしてたんだ。おまえがいないから」

「あにちゃま、いるよ?」

「おれがいたのは、まくやのちかくだぞ。おまえをさがしにきたんだ」

「あれぇ?」


自分がいなくなって大騒ぎになっていたことも知らず、五郎丸は不思議そうに小首を傾げた。


「…おまえ、ぜんっぜんわかってないな」

「ぼく、あにちゃまといっしょだよ」


それでも満面の笑みをうかべる弟に、四郎丸もなんだか嬉しくなる。


「…そうだな。おまえといっしょだ」

「うん!」


嬉しそうに頷く五郎丸の手を引いて、四郎丸は幕屋に戻ろうと草原へ分け入っていった。

並んでみると、一歳年長の四郎丸の方がほんのわずかに背が高いが、その他はまるで水鏡に映したようにそっくりの二人だった。

子供らしくふっくらとした面差しも、肩上で切りそろえたさらさらと絹のように真っ直ぐな髪も。美しい黒曜石の瞳は、四郎丸の方がやや色濃く、五郎丸の方は不思議な紫色がかってはいたが、そっくりの大きな猫目だった。

ただ、四郎丸の瞳が年に似合わぬ沈思に傾くことがあるのに対し、五郎丸のそれはいつもきょろきょろと楽しそうに動いている。

今も兄と手を繋ぎながら、五郎丸は瑠璃色の羽を誇らしげにひらめかせるカワセミや、美しい声で恋を語るヒヨドリを目で追いかける。


「あにちゃま、あれ!」


五郎丸が指さす先に、きらきらと鱗粉を輝かせて飛び交う数匹の蝶がいる。


「あれは、あげは、っていうちょうちょだ」

「あげは」

「そう。ちちうえやあにうえの、かたなのにぎるとこに、まぁるい、えがついてるだろ?あれとおんなじだ」


そう弟に説明してやったものの、四郎丸もあまりよくはわかっていない。

聞き返されて答えに詰まる。


「かたなって、なあに?」

「かたなは…かたなだ。こしにさす、ながいやつ」

「ごろう、みたことないよ」

「おれも、あんまりない」

「なにするの?」

「……なにするのかな」


やがて平家の両翼とも謳われる清盛公のめぐし子たちも未だ幼く、刀に触れるはおろか、その意味も知らぬ。

死の危険を孕んでいることも、彼らの手にはまだ重すぎることも。



(続)

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