胡蝶外伝 かはひらこ

橘櫻花

第壱話


少年はふと空を見上げた。

頭上にはぼんやり薄雲がかった碧羅の天が広がっている。

澄んだ大気の中に、芽吹き始めた青草の匂いを嗅ぎ取って、彼は大きく息を吸い込んだ。身体の中までその清々しい気が染み通っていく心地がした。

遠くで小鳥の雛が鳴いている。母鳥が餌を採ってくるのを待ちかねているのだろう。

そんな初夏に入ったばかりの、ここは平家の所領である桂の荘だった。

視線の先に止まった蜻蛉を見つけ、黒曜石の瞳を丸めた五郎丸は、小さな虫を驚かさぬよう、そうっと近寄ってみた。

小さな食指を一本出して、蜻蛉の大きな目の前でくるくると回してみる。


「そうすると蜻蛉は目を回してしまうから、容易く捕まえられるぞ」

大好きな長兄が以前教えてくれたようにやってみたが、いきなり突き出された指にこそ驚いて、蜻蛉はまた宙に飛び上がり、さっさと逃げていった。

しかし少年は残念そうな顔も見せず、にっこりと笑い、嬉しそうに蜻蛉の行方を目で追った。


「丸さま?どちらにおいでですの?」


乳母が呼ぶ声がする。五郎丸はぱっと瞳を輝かせて振り返り、彼女に向かって手を振った。


「ささらー!」


叫んで元気よく駆け出した。まだ三歳を過ぎたばかり、細い手足を懸命に動かして、自分を覆い隠すほどの丈に伸びている草原をまろぶように走っていく。

そんな幼い主をようやく視界に認めて、笹良はほっと安堵の息を吐いた。


「丸さま、おひとりで遠くへ行かれてはなりませぬ。おたた様がご心配でいらっしゃいましたよ」

「だいじょうぶ。ささら、みえた」

「丸さまはお小さいので、こちらからだとお見つけし難いのです。笹良は肝を冷やしました」

「しろうあにちゃまは?」

「四郎丸さまはおたた様のもとにいらっしゃいます。もうすぐお中食ちゅうじきにございますよ」

「ごはん!」


うれしそうに小さな手のひらを打ち合わせる五郎丸の幼い仕草に、笹良は頬を緩めずにはいられない。


「丸さまのお好きな栗の甘葛煮あまずらにもご用意しておりますよ。さ、参りましょう」


そう言って小さな身体を抱き上げる。その時、五郎丸が淡い黄色の花を持っているのに気づいた。


「まあ、可愛らしいお花ですこと」

「ささらに、あげる」


そう言いながら笹良のゆるく結わえた元結の根方にそっと挿した。

きれいね、と笑う五郎丸の無邪気な優しさに喜びが込み上げる。


「丸さま…ありがとうございます。笹良のために摘んでくださったのですか?」

「うん。ささらに、あげたかったの」


可愛らしく笑う子供は、笹良にとって婚家に残した我が子以上の存在だった。


「嬉しゅうございます。ですが、次はまず、おたた様に摘んでさしあげてくださいませ」

「たたちゃま?」

「きっと、お喜びなさいますよ」


小首を傾げてしばらく考えていた五郎丸は、うん、と頷いた。



皐月の初め、美しく晴れ渡ったこの日、棟梁清盛の妻時子は子供や孫たちを引き連れ、一日、西八条第から桂川を渡って草摘みに出かけた。

おつき女房や子供のそれぞれの乳母たち、警護の者まで含めると総勢三十余名の大移動だが、今や後白河院のご用も務める重鎮、皇太后宮権大夫清盛の正妻であり、自身二条の帝の乳母のひとりでもあり、院ご寵愛の女房滋子の義姉でもある――ということは滋子女御のお産みなされた皇子の伯母君でもある時子御方の一行としては、これは相当身軽と言える。


口さがない者たちは、武家の者は軽々しいだの、 所詮地下人じげびとだのと貶める種にするが、時子自身は同じ平氏でも貴族の出だった。

伊勢の別族である夫の後妻にという縁談はなしが出た折、こちらは堂上とうしょう、同姓とはいえ地下との婚姻などとは、と渋る親族を説き伏せてくれた父に、時子は今でも感謝している。


清盛は精悍で魅力的な男で、優しく子煩悩な父親だった。時子のことも正妻としてきちんと遇し、大切にしてくれる。

ただひとつの問題は、他の女にも優しいことであったが。

ともあれ、子宝にも恵まれ、平家の隆盛並ぶべくもない今となっては、親族たちの懸念も雲散し、時子御方はその名の通り時めいている、などと持ち上げてさえみせる。

しかし彼女自身はそれまでと変わらず、夫に仕え、子らを慈しみ、義弟妹を大切にする “善き嫁 ”であった。


この日、野遊びに出たのも、いつもは邸内にあって楽しみも少ない女たちの気晴らしになればと思い立ってのことだった。

子らを外で遊ばせてやりたいという、母らしい気持ちも無論あったが。


「たたちゃまー」


小さな息子が駆けてくる。

五郎丸は当年三歳であったが、ようやく襁褓むつきも取れ、よちよち歩きを脱したばかり。

女の子のように愛らしい目鼻立ちをしていて、大人たちはみな彼に夢中であった。


「まあ五郎。ひとりでどこへ行っていたのです」

「きれいな、おはな!」

「お花を摘んでいたのですか。けれど、あまり遠くへ行ってはなりませぬよ」

「へいき」


そうにっこりと笑う息子は可愛いが、なにぶんまだ幼すぎる。

気儘にあちらこちらへ行ってしまうのを懸念した母は、彼よりは年嵩の子供たちに注意を促すことにした。


「そなたたち、小さな弟のことを見ていてくださいね。兄として、気に掛けてあげて」


そう言われて時子自身が産んだ長子の宗盛は大儀そうに頷くのみであったが、夫清盛の前妻の子重盛の長子、時子にとっては義理の孫に当たる惟盛はにこやかに答えた。


「ご心配なさらず、おばばさま。今し方は宗盛殿らと瀬のほうへ行っておりましたが、これから気をつけておりましょう」

「頼みましたぞよ、惟盛殿」


時子にとっては生さぬ仲の息子の、そのまた息子ではあったが、惟盛はいつも彼女をおばばさまと慕い、よくなついてくれる。

年下の叔父に当たる時子の息子たちとも仲がよく、ことに五郎丸を弟のように可愛がっていた。今も竹筒の栓を取って、手づから水を飲ませている。

時子にとっては孫と言うより、甥のような存在だった。


「そういえば、四郎はどこに行きました?」

「あら…?先程までその小岩のところに座っておいででしたが…」

「しろうあにちゃま、あそこ」


水を飲ませてもらって、口元まで惟盛に手巾で拭って貰い、満足そうな五郎丸が指さす方を見れば、しゃがみ込んだ小さな背が、何やら地面を覗き込んでいる。


「四郎丸、何をしておいでじゃ?」


母が声を掛けても振り向きもしない。四郎丸の乳母で笹良の姉の秋葉あきはが慌てて四郎丸に駆け寄っていく。

お母上さまがお呼びですよ、と肩を叩かれて、初めて気づいたように顔を上げた四郎丸は、表情も変えずに立ち上がり、母の元へ歩み寄った。


「何をしていたのですか?」


もう一度問われて、無言のまま小さな手を差し出す。

その指に握られていたものを見て、女たちは悲鳴を上げた。


「ま、丸さま!!」

「そのようなもの…お捨てなさいまし!」


女たちの恐慌ぶりを意にも介さず、四郎丸は手に持った干からびた美美須みみずの死骸をじっと見ていた。

死んでかなり経っているとみえ、たかっていた蟻が細い腕に這うのもかまわずに、不思議なものであるかのようにしげしげと見つめている。

時子も黙って息子の様子を見ていたが、やがてそっと尋ねた。


「その美美須が気になりますか?」

「……どうしてうごかないのですか?」

「それはもう死んでいるのです。命の火が尽きて、動かなくなったのですよ」


その言葉にようやく母を見上げた四郎丸は、重ねて訊いた。


「どうして、ありがいっぱいなのですか?」

「蟻は美美須の死骸を食べるのです」

「…こんなにちいさいのに?」


驚いたように目を見張る小さな息子に、まだ早いかと躊躇いつつも母は生命いのちの営みの一端を教える。


「蟻はたくさんいるでしょう?みなで食べ尽くしてしまうのですよ」

「みみずをたべたら、ありはみみずみたいに、おおきくなるのですか?」

「いいえ。蟻は蟻のままです。小さくてもみなが集まって、大きな美美須を食べてしまうのです」


そう言うと、四郎丸は再び手の中の美美須の死骸にじっと目を落とした。

代わって五郎丸が尋ねた。


「たたちゃま、いっぱいのみみず、ぜんぶ、ありがたべちゃうの?」

「いいえ、蟻に食べられない死骸もあるでしょうね。そうしたものはやがて土に還るのですよ」

「つちに、かえる?」


五郎丸は小首を傾げた。


「そう。死骸はやがて融けていって、この土になるのです。そうしてまた、新しい命を生むのですよ」


さすがに末息子にはまだ理解わからないだろう、と微笑しつつ、時子はもういちど四郎丸に言葉をかけた。


「美美須はそこで土に還るままにしてあげなされ。それが供養ですよ」


母に促され、四郎丸はそっと美美須の死骸を足元の草の上に置いた。

それを優しく見やったあと、時子はみなを振り返った。


「さあみな、瀬で手を清めておいでなさい。中食ひるにしましょう」



(続)

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