残された者、託す者
夕方。コンコンと扉を叩く音が部屋に響く。「こんにちは!」少女が明るく挨拶をして、部屋に入ってきた。「元気?」少女は、病室のベットに座りながらこちらに目を向けず本を読む少年に声をかけた。彼らは幼馴染だ。しかし、一般的なそれとは違う。幼い頃から同じ病院でずっと一緒に過ごしてきた、そういう意味での幼馴染だ。しかし彼らが中学生になった時、少女、美咲の病は突然治った。美咲は学校に行きだした。そして、毎日のように少年、陽のもとに通う。陽は未だに入院生活を続けていた。
「元気なわけないじゃん。今日も一日中ベットの上だよ」陽は気だるそうな声で美咲に目を向けずに答えた。「そっかー。今日はね、水泳の授業があってね、プールて泳いだんだー! 気持ちよかったよー」陽の気だるげな返答はいつも通りなのか美咲はたいして気にする様子もなく話を続けた。
今日の天気は快晴。ひんやりと冷えた病室では感じられないが、とても暑く、まさにプール日和だ。「へぇー、いいね泳げて」陽は本から目をあげずに言った。「え!? 陽ちゃん泳げないの? 教えてあげようか?」美咲はベットの横にカバンを置きながら言った。
「そういう意味じゃないでしょ、僕はここから出られない。あと陽ちゃんって呼ばないで」陽は美咲を軽く睨んで言った。「陽ちゃん怖ーい」美咲は陽のベッドに腰掛けて言った。「うるさい」そう言って陽はまた本に目を戻した。「陽ちゃんは出れるよ」美咲は陽をじっと見つめて言った。「出れるわけないでしょ。いつからか覚えてないほど前からずっと、僕はここにいる。皆のように走れないし、皆のように泳げない。学校にも行けない」陽の声はまるで全てを諦めているようだった。
「学校、行きなくないの?」美咲はおずおずと問いかけた。「……行きたくない」陽は少し間をあけてそう言った。「でも、いつも私の話聞いてくれるじゃん」美咲は拗ねたように言った。「別に好きで聞いてるわけじゃないし」陽はぶっきらぼうに言った。「……じゃあなんでいっつも待ってるの?」美咲はポツリと呟いた。「はっ?」陽は本から顔を上げて美咲を見つめた。「看護師さんが言ってたよ。陽ちゃんはいっつも夕方になると外を眺めながら本を読み出すって。まるで誰かを待ってるみたいに」美咲は陽をじっと見つめてそう言った。「そんなこと……」陽は美咲から目をそらした。「本当は学校行ってみたいんじゃないの?」美咲は言った。
「うるさいな!!! じゃあ行きたいって言ったら行けるの!? 僕はずっとここにいて、勉強なんて出来ない!! それなのに学校なんて行けるの!? ずっとずっと病院で生活してきて全然外になんて出れてない! 学校なんて行けるわけないでしょ!!」陽は声を荒らげてそう言い放った。美咲はしばらく驚いたように陽を見て、そして不満気な顔をした。「陽ちゃんは逃げてるだけじゃん!! 出来ない、出来ないって! 出来るかもしないじゃん!! 陽ちゃんはただ出来なかった時が怖くてやらないんでしょ!! 陽ちゃんは出来ないんじゃなくてやらないんじゃん!! 行きたいなら行きたいっていいなよ!!」美咲はそう言って、固まる陽を置いてカバンを持って病室から出て行った。
真夏の病室は夏を感じさせないくらい涼しくて、まるでそこだけ季節が違うようだった。
次の日。陽はいつも通り夕方までずっとベットに横になって考えていた。僕がやりたい事ってなんだろう……。今日は美咲は来ないかもしれないな……。そんな事を考えながらいつも通り棚から本をとって窓の外にチラチラ目を向けながら本に目を落とす。
コン、コン。いつもより少し控えめなノック音と共にソロソロと扉が開いた。「……陽ちゃん」おずおずと、気まずそうに入ってきた美咲は俯きながら言った。「昨日はごめんね」
「いや、僕もごめん。怒鳴っちゃって……」陽は美咲を見ながらそう言った。
美咲はパァっと顔を明るくしていつも通りカバンを置き、陽の隣に座った。「今日あった事話していい?」
「うん、聞きたい」そう陽が言うと美咲は嬉しそうに今日の出来事を話し出した。
楽しそうにその日の出来事を話す少女とそれを優しい目をしながら聞く少年。その二人の間の時の流れはひどく穏やかだった。
「うわ、もうこんな時間……。そろそろ帰るね! また明日ね、陽ちゃん!」
「美咲!」バタバタと帰ろうとする美咲を陽は呼び止めた。
「あのさ、僕……」
「ん? どうしたの?」
「学校、行きたい。美咲と学校、行ってみたい」陽がそう言うと美咲は目を見開いた。「え、本当に……? じゃあ、じゃあ、明日先生に聞いてみようね。リハビリとかきっと大変だろうけど私も応援するから、毎日来るから頑張ろうね。一緒に学校行こう!」
「うん……!」陽は少し照れたようにそれでも嬉しそうに笑った。
病室から出た少女はズキンッと痛む胸を押さえて苦しそうにしゃがみこんだ。「まだ、大丈夫だよね……? お願い。もう少しだけ、もう少しだけ時間をちょうだい」そう言った少女は突然ブンブンと頭を振り「大丈夫。私は、大丈夫」と呟き立ち上がった。少女の声は儚くだがどこか力強かった。
次の日、陽は珍しく昼に起きた。夕方からの回診の時間まで先生になんと伝えようか考えていた。しばらく悶々と考えていると廊下が騒がしくなった。
「……さん! 聞こえますか! ミサキさん!!」
……ミサキ? 嫌な胸騒ぎがした。しかし、頭の中では酷く冷静に考えていた。美咲のわけが無い。だって美咲の病気は治っているのだから。しかし、陽は不安を拭いきれなかった。そして、病室を出て、その騒ぎへ向かった。
すると、バタバタと後方から足音が聞こえた。「ん? 陽君?」そう声をかけたのは息を切らした美咲の父だった。隣には母もいる。「君も聞いたのか? こっちだ!」そう言うと美咲の父母は廊下の先へ進み一つの病室へ入っていった。陽は悟った。先程運ばれていたミサキは美咲である事。そして、治療室ではなく病室へ運ばれた意味を。
部屋に入ると涙声で美咲を呼ぶ父母の姿が見えた。近くには神妙な顔をした医者、看護師がいる。彼らが動いていない、という事はやはりそういうことなのだ。
「あ……、お父さん、お母さん……」いつもの美咲の声とは全く違う彼女の声が聞こえた。「美咲!」彼女の母が声をかける。「ごめんね……。もっとさ、一緒にいたかったなぁ。ごめんね。あ、ようちゃんにもさ……謝りたいなぁ、陽ちゃんね……」「陽君ならここにいるぞ!!」そう、彼女の声を遮って彼女の父が言った。「陽くん。こっちに来てあげて……」そう彼女の母は言った。
彼は彼女のもとへゆっくりと近づいた。陽の視界に沢山のチューブで繋がれた弱々しい姿の、昨日とは全く違う彼女の姿が映った。
「ようちゃん……ごめんね。昨日約束、したばっかなのにね……」そう、笑って美咲は言った。「本当だよ……。昨日言ったじゃん。一緒に行こうって。毎日来て、応援してくれるって……」そう言う陽の頬に涙が伝う。
「うん……ごめんね。ようちゃん。あのね、ようちゃんはねやりたい事やんなきゃ。ちゃんと自分がやりたい事やんなきゃ。私はやったよ。学校に行って、ようちゃんとも毎日一緒に居れて。だからさ、ようちゃんも最後までやりたい事やんなよ。絶対、楽しいから」その言葉を紡いでいる時もやはり美咲は笑っていた。
「うん……。うん……」涙を拭いながら陽は頷いた。
「でもね、でも……、ようちゃんと、がっこう、いきたかったなぁ……」美咲の頬を涙が伝った。「美咲……」陽は美咲の手を握った。
「お父さん、お母さん、ようちゃん。今までありがとう。本当に楽しかった。お父さんとお母さんの娘でよかった。ようちゃんと会えて良かった。楽しかったよ」そう言って笑った美咲は疲れたようにゆっくりと目を閉じた。
病室に残された彼らが彼女の名前を呼び嘆きをもらした病室で、彼女のチューブの先の機械が鳴り響き、そして医者がゆっくりと彼女の死を告げた。
「……陽くん。入るぞ」入ってきた担当医に陽は目を向けた。医者は彼の体をゆっくりと調べ、そして、頷く。「うん、体調は大丈夫そうだ。辛いことがあったな……」医者は陽のベットに座り窓の外を眺めながらそう言った。「彼女の想いは受け取れたか?」
「はい」そう陽ははっきりと答えた。「そうか……それは良かった」そう医者は笑って言った。「先生、僕、学校に行きたい」陽は医者の後ろ姿を見ながらそう言った。「君がそれを望むなら私は君にその道を用意しよう。だけど……それは茨の道だということを君は知っているはずだ。本当に大丈夫か……?」医者はまだ窓の外を見ている。「うん、大丈夫。美咲と約束したから」陽は力強く答えた。
「そうか……」医者は安心したように笑った。「じゃあ一緒に頑張ろう。陽くん」そう言って医者はベットから立ち上がり陽と向き合い手を差し出した。「うん、よろしく。先生」そう言って陽は先生の手を握った。
数年後。キレイに手入れされているお墓に一人の青年がやってきた。墓を洗い、花をそなえ、線香に火をつける。そして、墓に話しかけた。
「久しぶりだな。美咲。最近あったことを話していいか?」彼の問いかけに返事はない。少し笑って彼は話し始めた。「今日はね……」
寂しそうに、楽しそうに、近況を話す青年と何も語らない墓石。その空間の時の流れは寂しく、酷く穏やかだった。
「あ、こんな時間だ。もう帰らなきゃ。また来るね」青年はそう言って立ち上がり、手を振って歩き出した。「またね、陽ちゃん!!」風に乗って彼に届いたその声は幻聴か、それとも……。青年は振り向きもう一度笑いながら手を振って「うん、また」そう言って今度こそ振り向かずにその場をあとにした。
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