乙女の懇願




 白い世界の中央にクラウスは扉の方には背を向けて立っており、その後ろ姿にジゼルは数歩入ったところで足が止まった。


 長く伸ばされていた髪が跡形もない。

 それもまた白い中では見つけるのはすぐだった。切られたと思われる長い紺碧の髪がクラウスの足元に落ちている。

 それよりもっと下、地面にきらきらと光る筋がいくつもある。

 銀色の筋はクラウスが立つ周りを円を描いて囲み、円の内部にも及ぶがそれらは単純な丸を描いているばかりではない。


 銀色の正体は元は石だ。

 どこで採れるものかは知らないが、普通の鉱石が採れるようにそこらにあるものではないという希少な石を砕き、それから何段階も手間を加えるそうだ。

 原材料からして手に入れることは難しいそれだが、より入手困難な理由と詳しい製作過程が知られていないのは神殿しか作る方法を知らないから。

 そして今神殿は頑なな態度を取り続けているはず、だったから。


 今も神殿の大事な儀式の際に見られると聞く星の輝きを映したような銀の粒、神殿が王宮と距離を置いている今まず見られないはずのそれをジゼルは間近で見たことがある。

 それがクラウスの足元にどのような形を描いているのか、ジゼルには分かった。


 かつてジゼルもあの中央に立たされた。





 ジゼルが立ったときはあんなに清らかなものではなかった。

 すでに血が染み込み、それでもなおきらきらと輝きを見せる不思議な細かな欠片たちを目にしたジゼルは綺麗だとは思わなかった。

 なんて残酷な輝きだろうと、流しすぎて涙の止まった目に映ったそれに絶望を抱いた。

 どうせ死ぬ。

 ジゼルの見る前で顔も知らない人たちがそうなったように自分も死ぬ、と。



 ――119年前、その〈儀式〉は王宮で為された。


 天上より堕ちた神が世界に災厄を振り撒く最中のこと。

 『神の木』と呼ばれる木があるのは首都外では神殿、首都には王宮のみ。『神の木』は名前の通りに神々のご加護があったのだろう、その木がある首都、王宮はまだ無事だった。

 けれどもたぶん、あのまま行けばその木があろうと王宮も消え去っていただろう。

 いくら神々の祝福のある木でもやはり神々そのものが宿っているわけではないだろうから。


 普段ならきらびやかであるはずが、影が落ちてしまった王宮のどこか広い場所に人が集められていた。

 高価とは言えない服を着た一般の民らしき者が多くいたが貴族の姿も混ざり、おそらくジゼルのように兄妹の末端であったと思われた。

 世界が滅んでしまいそうな中でもその先の未来を信じていたのか、高位の貴族は家族を差し出そうとはしなかった。

 しかし面目として出すべきだとやり取りがあったのかもしれない。

 王宮の人々のすごい点はそこだ。いかなときでも会議をする。だが会議とは染みついた手段で決して落ち着いているわけではなかった、それを経なければ何も決められなかっただけだ。


 人々が貧富関係なしに焦りと混沌に引きずられていた証拠でもあろう。


 はじめは民だけを犠牲にしていたのだと聞くが高貴な血が必要だと考えたか、下位高位関係なく貴族が人を差し出すまでとなっていた。

 当時からジゼルの生家であるノークレス家は貴族の中でも最も力ある三家の一つであったが、示しとしたのか。

 ジゼルが元々病を持っていて差し出す者としてちょうど良かったのか、父親の真意はもはや知るよしもない。帰ることができたあとは罪悪感からだろう、よそよそしかったから。


 事実ジゼルは差し出された。

 他に差し出された貴族が全員ジゼルのように兄妹の『余り』だったかどうかそのとき確かめることなんてできなかった、そんな気も起こらなかった。

 いつ腕を引っ張られ中央に立たされるのか怯えていた。

 首都の外ではもっと悲惨なことが起きていると聞いていたが、はっきり言ってジゼルにはその場所の方が恐ろしかった。



 大人に腕を背を押されてその場に入ったときにはすでに凄惨な跡があった。周りに倒れる人々、散る赤、それでもなお美しく輝き続ける円を描く物体が。

 そのとき部屋の右手から女性が手を引っ張られて中央にある銀の円に入らされていた。

 ジゼルは女性の恐ろしいまでに泣き叫ぶ声に鼓膜を刺激されて、目を離せなかった。その目の前で事は起きた。

 髪を切られ、ギラリと鋭い光を持つ刃物が突き立てられる。

 女性から液体が溢れ、ぼたぼたと落ちる。膝をつかされた彼女は泣きながらにして本心からの神への祈りを叫んだ――真っ白な光が雷のごとく女性に落ちた光景が、ジゼルの開いた目に映った。

 しかし光はすぐさま一点に吸い込まれるようにして失せ、残ったのは目を見開き倒れている女性だけ。

 その目には生気がなく、さきほどの光に光を吸いとられてしまったように思えてならなかった。


 何が起こったか欠片も理解できずに呆然としていたジゼルは止めていた足を強制的に動かされ、まだ生きている人たちに加わった。

 そこでずっと見ることになったのはあまり変わらない、残酷で絶望的な光景だった。

 ある者はまた髪を、ある者は指を切り落とされていた。全員で共通するのは腕を切り裂かれること。

 ときに腹を切り裂かれる者があるのは、おそらく血の量が少ないからだとジゼルは知った。そんなの待てばいいのに大人たちは何かに急かされている様子で人の身体に傷をつけた。


 死を待つ列に並び長く経ち、とうとうジゼルの腕が乱暴に掴まれた。

 誰かが何事か言うがジゼルの耳は言葉を受け入れない。勝手に流れだし、もう止まった涙が濡らした頬も乾いていた。


 数度だけ、一気に円を崩して形を作っていたものが隅に追いやられ円が作り直されていたが、ジゼルが足を入れたとき見た周りを囲み足元に模様を描く銀色は半分ほどは赤色に染まっていた。

 抵抗することなしに円の中心に立ったジゼルは泣かず叫ばず、行程を他人事のように見ていた。

 金色の髪がザクと切り落とされまとめて足元に落ちた。

 掴まれた腕に前の人の血の拭いきれていないナイフが深く沈み、身体の内から出てくる色は、見てきた色と変わらなかった。

 耳から言葉を遮断したジゼルであるが、言われなくても両の膝をつき神への祈りを口にした。


 どういう思いで神へ祈りを捧げたのだったろう。

 理不尽な列に並ばされることになり、諦めたものの隠れていた怒りだったか。ジゼルを差し出した親への怒り憎しみか。

 この状況を作り出したとされる堕ちた神への怒り憎しみか。

 人々が命を落とし、必死に祈りを捧げているのに助けてくれない天上の神々への失望か。


 いいや、ジゼルはあのとき――


 視界が目を潰さんばかりの光に塗りつぶされたあとのことは曖昧だ。

 身体に宿った力に勝手に身体を動かされ操り人形みたいに堕ちた神に立ち向かったジゼルには、神々の特別な祝福と神自身が身体に降りてきていた。








 ――〈神降ろし〉と呼ばれ【禁忌】として神殿が隠している方法



 銀色のナイフが鋭く光り、ナイフを手にするクラウスが袖を捲り露にした自らの腕を深く傷つけ、血がぼとぼとと地に落ちる。

 こんなときでなければ見とれてしまう輝きにもかかり、こんな世界ではとても鮮やかだ。


「――クラウス、待って」


 自らが同じことをしたときと重ね、声を失っていたジゼルはようやく制止の声をあげることができた。

 声が引っ掛かり、小さい。


 広がる光景に思考が追いつかない。

 クラウスは何をしている。

 どうしてかつてジゼルが目にした光景と重なっている。どうして、明らかに同じことをしているのだ。

 本当は分かっていた。見た瞬間、かつての光景が甦った。間違えようがない。




 ――彼は〈神降ろし〉をするつもりだ




「やめて!!」


 ジゼルが喉が裂けんばかりに叫ぶのにクラウスはこちらを向いてくれない。聞こえていないはずはないから無視している。

 彼は誰も犠牲にしないと言った。それは、こういうことだったのか。


 止めなければと頭の中がそればかりになってクラウスに近づきたいのに、前に進めない。何かが後ろからジゼルを止めている。

 ジゼルが前に進むことを妨げるものを確かめると白い袖の腕で、神官がジゼルを羽交い締めにしていた。


「離して!」


 止めないで。

 腕を外そうと掴み暴れ隙を作ろうと試みても一向に力は緩まず、ジゼルは焦る。早くしなければ、ともがきながらもクラウスの姿を確認する。まだ大丈夫、まだ。


「――――」


 クラウスの声が何事かを紡ぐが前を向いていることもあり内容は聞き取れない。彼の姿が沈み、膝をついた。


 ジゼルの息が一時止まった。

 駄目だ。

 ここで神を降ろしてどうするつもりなのか、そんなことどうでもいい。とにかく今すぐやめてくれればいい、ジゼルの声を聞いてほしい。

 今すぐ立って円から出て。何も言わないで何も願わないで何も、何もしないで。

 それだけは――


「クラウス!」





 まばゆい光がどこからともなく発され、白い世界を限界にまでより眩く白く染め上げた。


 ジゼルは手で目を覆うこともできないので反射的に固く目を瞑った。しかし視界は暗くなること皆無で、目を開けているときと変わらず白く白く塗りつぶされたままだった。もう目を開けているのか閉じているのもすぐに分からなくなったけれど、白以外何も見えなかった。

 クラウスの姿も。



 神様、どうか彼を奪わないでほしい。彼から何も奪わないでほしい。彼をそのまま返してほしい。

 ジゼルは声無くして懇願する。

 心の中で神々に祈る。

 ジゼルの中にあるのはどうか無事でいてほしいという願いだけだった。かつて何を思い考えて祈ったのかは覚えていない。でも今あるのは一つだけ。


 クラウスを連れて行ってしまわないでほしい。



 知らないうちにジゼルは白い光の中にも関わらず目を開いていたのだろう。

 白い世界に一つ違う色が現れはじめた。人の影のみならず壁と地面の境目すらも消し飛ばしてしまっていた白い光が徐々に収まっていくのが目に見えた。

 様々なものが輪郭が取り戻し壁が現れ石とは思えぬ地面が現れ、ジゼルの視界の中心には――クラウスと思われる人影が立っている。

 紛れもない紺碧色にジゼルは微かな息を洩らした。倒れず立っている後ろ姿に目の奥が熱くなり、クラウス、と音なく名前を呟いた。

 クラウスだ。髪は切られたときと変わらず服装も変化はない。形が変わったということもない。


 しかしその姿は淡く光を纏い神のような神々しさを帯びていた。


 ジゼルの脚から力が抜けてその場に落ちる形で座り込む。少しも抵抗がなかったということは、神官も同じようになっているかもしれない。確認はできなかった。目が、前方に引き寄せられている。


 立ち上がり走ると何秒かでたどり着いてしまう距離。声をかけると間違いなく届く距離。

 けれどジゼルだけでなくその場にいる者たち全員がそうできない。動くことも声を出すことも許されない。全てが止まる。

 神のような、なのではない。今クラウスの中には実際に神がいるのだ。

 どのような神が彼の中に降りたかは分からない。身体には人にあらざる力が宿りジゼルの身にぴりつく感覚を与えてくる。ただの人間など姿だけで圧倒される。

 人間ではない存在がすぐ近くにいる証。

 クラウスの身にはそれ以外にも天上の神々の祝福が煌めいている。


 地下で風が入り込んでくる隙間はこの空間自体にはないけれど、確かに前方から生まれ吹きつける風がある。

 ジゼルが身につける衣が風にあおられてはためていているはずが、耳を塞がれたように騒がしい音は聞こえない。

 風が生まれる前方にいるクラウスの服も揺れているのに音が聞こえない。


 クラウスの手がおもむろに動いた。腕がゆったりと持ち上げられる。

 血にまみれた腕が、先まで同じ色に染まる指先が美しく映った。

 その手をひらめかせると強い、それでいて目に衝撃を与えない金色の光が生まれ細長く形を変えてゆく。

 瞬く間に形作られたのは神々しい剣だった。

 国宝にある大きな宝石があしらわれている贅の限りを尽くした剣など霞んでしまう、神が手にするに相応しい輝き。

 悪しきものを滅するに相応しい光と清らかさ、そして力がある。

 形を定めた刹那より肌を刺す感じを与えるそれは荒々しさがちらつくも、乱れ堕ち人間を傷つけようとする神ならざる神のそれではない。

 護るためにときに必要な力を持つ神が彼に応じたのかもしれない。


 神の剣を手にしたクラウスの身体が前に一歩二歩、円を出て前へ進み続ける。



「……いた……っ」


 突如ジゼルは強烈な痛みに襲われて、奪われていたようになっていた声を出した。それほどの痛みで、動きを止めていた両腕で身体を抱え込む。

 痛い。全身が痛い。

 違う。模様がある場所全てが痛い。


 前に広がることをただ見ていた状態から一転、ジゼルは顔を苦痛に歪ませる。


 クラウスが神を宿しその力を手に向かっているのは堕ちた神が封じてある最奥。

 近づく危機を察して堕ちた神が力を有らん限り振り絞り封じを破ろうとしている。

 再び人間の身体に現れ近づく天上の神を威嚇しているのかもしれない、どのみちその力が、堕ちた神と繋がりのあるジゼルに影響を及ぼしている。ジゼルを侵そうとする。


「――――!」


 意識が飛びそうなくらい、痛みではなく得たいの知れない気持ち悪さが襲ってくる。これまで死に誘われる直前でもなかった異変だ。

 目の前がちかちかする。前屈みになり、身体を抱いた腕に力を込めて耐えようとする。


 引きずられてはならない。

 封じを緩めてなるものか。

 今封じを緩めれば堕ちた神に隙を突かれるかもしれない。どのような影響をクラウスに与えてしまうか分からない。彼をかの神に絡めとらせてたまるものか。

 ジゼルは必死で戦う。たった今も堕ちた神の封じを補い続けているのはジゼルだ。

 渾身の力を渦巻かせる堕ちた神に引きずられ万が一封じが解けるようなことがあれば、災厄を振り撒く神が今一度この世に舞い降りる。

 そのとき立ち向かうのはジゼルではなく、クラウスになる。それはあってはならない。


 自分で掴む腕が痛いのか身体の方が痛いのか。視界に黒がちらついた気がして違和感を覚えた。白が圧倒的で、黒に近いそれよりもっと禍々しい存在は下にいるから。

 地面が揺れた。

 耐えようとの気概でいつからか顔は下に向けてはいたが明確に認識していなかった視界を見ると、元々ろくにできていなかった息が詰まった。

 水面のようで透明な石の地面、その中を闇が手を伸ばしてきていた。


 ジゼルはぞっとした。

 まさか封じが。

 堕ちた神は。

 クラウスは。

 ジゼルは伏せていたくなる顔を懸命に上げ閉じたくなる目を凝らした。




 その先に見えた。

 最後の瞬間。




 恐れる様子なく闇が洩れる最奥に立つ姿が、悪しきものを滅する力に満ちた剣を地に突き立てた。



 一息吐く時間を挟まなかった。神が地上に降りたときを凌駕しそうな光が剣より発され、刃から地面に移った。


 瞬間、ジゼルの耳に聞いたことのない恐ろしい音が遠くからのようにけれどはっきりと届く。外からではなく直接届いている。

 ただの音ではなく苦痛の声に思えた。まさか神の悲鳴なのだろうか。


 顔を違った意味でしかめたジゼルは地を侵食しかけていた色が抜けるように消えていく様に気がつき目で追うと、どんどん引いてゆき最後に行き着いたのはまばゆい光の中心だった。

 染みのように見える残りが光とは正反対で、その上でその中心にあるのはあれが神の祝福とは異なる正反対の力の塊だからだ、とジゼルは分かった。

 ずっと神々の祝福に助けられている一方で身にあり続けていたものだったから、分かる。


 それがあっけないくらいに圧倒的に押し潰され、



 ――消えた




 目で見たときと同じくして、微かになっていた声も痛みも何もかもが同時になくなり、身体から魂が抜けてしまったと本気で思ってしまうほど、ジゼルの身体が楽になった。

 さっきまでとの落差に精神は追いつかず、何が起きたのか分かっているのに現実として理解できない。

 その前に自分で自分の身体を抱える腕が弛緩し未だに神秘的な光が満ちる世界に立つ背中が、薄れる。


 揺れる。

 光も薄れていく気がして、目を閉じては駄目だと思うも抵抗に力が足りない。

 せめて手を伸ばしたくて、伸ばせただろうか。名前を呼べただろうか。






 ジゼルは解放され、意識が千切れたようにぷつんと閉じた。









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