御曹司と縁談





 クラウスは、首都のシモンズ家の屋敷の自分の部屋を出た。

 服装は、彼にしてみれば珍しく連日「きちんとした格好」。

 紺碧色の髪も整えられている……が、部屋を出た瞬間に小さく欠伸をしてぐしゃりとやりかけた。否、若干乱した。

 それでも気にする素振りはなく、廊下を行く歩みを進めていると、彼の前から来る人影があった。父親だ。

 ここにいるのは……と少し考えるだけで、自分の部屋があることから用があるとしか考えられない。

 案の定、すれ違う前に、父親は足を止めた。


「クラウス、帰って来ていたんだな。最近頻繁に出かけているようだが……まあいい少し来なさい」

「俺はすぐ出ていくぞ」

「大事な話がある」

「俺の用事以上に俺にとって大事なことなんてない」

「いいからとりあえず来なさい」


 雑に会話を成立させながら、行動的には無視して出ていこうとクラウスは足を止めることはなかった。父親の横を通りすぎ、すたすたと廊下を行き玄関を目指してい……たのだが。

 軍人もかくやという素早さで、襟を掴まれ前に行くことを阻まれた。

 クラウスは時間が惜しかったがごねるとより長くなりそうなので、逃亡経路としてすぐさま窓を確認はしたものの、渋々従うことにする。

 さしあたり襟を離せと要求し、首の自由を取り戻す。


「ここでいいだろう? ここで聞く」


 父親に向き直ったクラウスは「なんだよ」と話を促す。用向きはなんだ、と。息子に有らざる横柄さである。

 しかしながらデレックとしては他の者ならまだしも息子であるし慣れたものなので引っかかる様子なく、雑に話を済ませようとする言にだけ呆れたようになる。


「クラウス、大事な話だと言っただろう」

「言われたな」


 認めはするものの、要求を曲げることはなさそうなクラウスに、軽く周りに目をやり確認したデレックが折れた証拠を口から溢す。


「まあいいか」

「それで?」


 押し通す気しかなかったクラウスがまた早々に早急に話をするようにと要求する。


「見合い話が……まだ正式には来ていないが、来ている」

「見合い?」


 クラウスの反芻ははじめて聞いた語句を口にしたかのようだった。


「見合いだ」


 肯定するデレックは重々しく頷いた。


「相手はジュリア・ノークレス、ノークレス家の令嬢だ。お前も知っているだろう」

「当然みたいに言うな知らない。……それより見合いってどういうことだよ」

「お前は自分の歳を分かっているのか、そろそろ身を固めろというのに。これまでだって縁談は来ていたがそれをことごとくすっぽかしたのは――」

「今回もそうなるだろうよ」


 つっけんどんにクラウスは父親の言葉を遮った。

 見合いだと? 冗談だろう。するはずがない。

 なぜならクラウスにはたった一人恋い焦がれて止まない人がいるのだから。

 縁談なんて時間の無駄だ。やはり大人しく話を聞いてみるべきではない、時間の無駄だった。


「そうもいかん」

「俺がそうするならそうなるんだよ」

「差出人は」

「差出人が何だよ。ノークレス家のおっさんしかいないだろう」

「差出人は、ジゼル・ノース」


 ジゼル・ノース。

 名前がクラウスの耳に滑り込んできた。



「………………は?」


 身を翻しかけていたクラウスは、一拍遅れで足が止まり、間抜けな声をあげた。

 足を止めたまま、父親の方を向いているわけでもなく行こうとしていた方に完全に向いたわけでもなく中途半端に壁を見て、


「……ジゼル?」


 その名前を呟いた。

 音を真似ただけの発音。

 呆気にとられたようだった。

 それきりしばらく、その場から声は消えた。


 クラウスは話の流れが急に変わったふうに受け止められ、よく理解できていなかった。

 ただ途中から、というか、さっきいきなり重要案件に変わったことは頭のどこかで明確に感じていた。

 それゆえに、進めようとしていた足は無意識に止まるべきだと反応し、勝手に止まったのだ。


 冷静に思い出す、思い返す、やり取りを。


 お見合い。

 相手はノークレス家。ここまではさっき聞いたばかりだからまだ覚えているが、個人の名前は忘れた。それを聞き返すつもりはない。

 問題はその先だ。

 何だ。

 いくつか雑に会話をした。

 何だと。

 聞くだけ聞いた、もう用はないだろうと。

 ノークレス家の当主ではない。

 何と言った父親は。

 誰だと。




 誰が、自分に、見合いの話を寄越したと。




 ――「差出人は、ジゼル・ノース」


「……ジゼル?」


 今度は低く、低くその名を呟いた。

 意識したわけではなかった。こんなに低く彼女の名前を呼ぶことはこれまでになかった。そうするべきときなんてなかった。


 ジゼル・ノース。その名前を理解できないはずはない。

 彼女こそが――


 そのジゼルが見合い話を自分に寄越した?

 ようやく、父親との会話の倍の時間をかけて事態を理解したクラウスの中に、沸々と彼女ジゼルに抱いたことのない感情がわき起こる。


「ジゼルが、俺に、見合いの話を……?」


 それもノークレス家の、彼女の親族。

 冷めさせていた思考は限界を越えた。


「ふ、ざけんなよ!!」

「おいクラウスどこに行く!」

「親父! その話絶対受けるなよ!」

「だから、それよりどこに行くと聞いているんだ!」

「ジゼルのところに決まってるだろ!」


 言い切られたときには廊下にクラウスの姿はもうなかった。恐るべき速さで姿を消した。

 残された父親は素早い身のこなしで息子を掴もうとして掴めなかった手をしばらく伸ばした状態で、怒鳴り声を残していった息子の消えた廊下の先を半ば呆然と見ていた。



 そののち、ぽつんと一人だけとなった廊下で伸ばしっぱなしだった手を実にゆっくり引いていく。

 そして息子の声だけでなく口調も荒々しい言葉を思い出して――天井を仰いだ。


「……やっぱりさすがにまだこれはまずかったか。ジゼルすまん、行った」


 デレックは届くはずもないのに謝り、次いで小さく神々に祈りを呟く。

 何のために? 

 もちろん他ならぬジゼルのためにだ。


「あいつは……何をしているかは知らんが、ジゼルを困らせてやるな」


 息子はかなり怒っていたが、果たして。





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