まぁ、いっか。

 中野は面白い街だ。



 都営メトロ東西線とJR中央線と総武線が使える。山梨から千葉までアクセスできて、JR中央線快速で新宿まで5分。中央特快も使えて、高尾まで30分。都心にも地方にもアクセスしやすい。



 住んでいる人間は北口と南口で変わる。南口を使う高円寺南や中央などには高級マンションなどが乱立するが、北口側の野方や新井には、トイレ共同、風呂なしの六畳一間35,000円くらいの安アパートがゴロゴロしている。駅の北と南で、街の顔がガラッと変わる印象だ。北口で生きるのはダメなヤツと、夜に生きるヤツ、見世物小屋に遊びに来た風なインバウンドばっかりだ。



 その極端さが気に入って昨年から中野に住み始めた。もちろん北口だ。トイレ風呂別で6畳と4畳の部屋があるが、どんだけ工夫しても網戸に隙間が出来るボロアパート。家賃は6万7000円で水道費込。友達のボウと一部屋ずつシェアをして、光熱費を入れても月4万もあれば釣りが来る。



 しかし、少し困ったことになった。今月の頭に「朗報かもしれませんが、今月末で出ていきます」とボウが切り出したのだ。俺からのストレスに耐えきれないらしい。



 出ていくのは構わないが、毎月の出費が増えるのは手痛い。謝罪して考え直すように頼むのも手だが、性格の不一致が原因なのだ。いずれ歪が再生してしまうだろう。



 しかし、ポジティブに考えれば、8年ぶりに独りを取り返せるわけだ。これは祝っても良いことなんじゃないか? それならば馴染みの店に祝杯を上げに行くかと、仲見世通りに出向くことにした。起こったことは変えられないから、それなら訪れる結果に備えてりゃいい。



「遅かれ早かれだ。 稼ぎを増やすことを考えるか」と、つぶやいて家を出た。



 俺が愛する店は、カウベルが来客を告げるレトロなバー。と言えば聞こえは良いが、中野を体現したような安居酒屋だ。ステンドガラスシェードの照明は8個くらいあるが、半分くらいは点いていない。演出とか言っていたが、ただ単に電球を替えるのがめんどくさいだけだろう。



 10席位しかないカウンター席では、店主お手製のカクテルを真顔で飲んでる女と、ストロングゼロのレモンフレーバーで上機嫌の男がいる。女は知らないが、男は常連のタカハシだ。テーブルに置いてあるコンビニ袋に数本の手付かずの酒がある。タカハシが持ち込んだものだろうな。




 店主は勝手につまみを出して「ストロングゼロ」と、タカハシの伝票を切る。歌舞伎町のぼったくりバーの方がきちんと接客をしていると思うが、そんな店主の適当さ加減が気に入っている。



 いつもの定位置に掛けて、インスタントコーヒーを注文する。これがいい。店主のこだわりが何一つないからだ。客の無言の評価を店主も知っているのだろう。最近冷蔵庫を一回り小さいものに買い替えた。しかし、バーのこだわりは捨てきれないらしく、酒の種類だけは増えている。



「今日もインスタントコーヒー?」

「それが一番美味いからな」

「新作飲んでみない?」

「嫌だよ。モルモットじゃあるまいし」

「ひどいな! じゃあ、タカハシくんにあげよう!」



 店主は、すっかり出来上がっているタカハシの前に置かれたコップを手に取り、適当にシェイカーで混ぜ合わせた液体を注ぐ。隣の女が持っているカクテルと同じ色だ。タカハシはおごりと聞いて喜んで口を付けたが、すぐに吐き出した。



「……なんで茶色いの?」

「コーヒー入ってるからね」

「コーヒー以外には?」

「企業秘密だけど……知りたい?」

「聞きたくもない」

「聞いてよ! ヒントはハーブ!」

「やめろ!」



 毎回こんな感じである。常連は売れない役者や個人商店のダンナとか、うだつの上がらないヤツばかりだ。女が来たとしても、疲れ果てたスナックのチーママとかだ。



 それが今日はどうした?タカハシの隣に女がいる。青のワンピースに白いカーディガンを来た黒髪ロングの女子大生らしき普通の女だ。タカハシが引っ掛けたのだろうか。まぁ、俺には縁がない話だ。



 インスタントコーヒーをとカントリーマアム(バニラ)を楽しみながら、店主に今日の出来事を漏らす。



「マスター聞いてよ。 ボウ、出ていくらしいわ」

「あの子? なんで?」

「俺と一緒にいるのが耐えきれないんだって」



 店主は「だろうねー!」と、ツボにはまったように爆笑する。



「ちょっと待て。 アイツが頭おかしいんだ。 どんだけ俺がストレスだったか知ってるだろ?」

「知ってる知ってる」

「悪いとこ指摘して改善するように言っているだけなんだ」

「知ってる? バカにバカって言うとストレス抱えるの」

「改善する努力をしないのが悪い」

「するわけないじゃない。 本人が必要と考えてないんだもん」

「食い物腐らせて羽虫の養殖場にしたり、外したコンタクトレンズを鍋に入れたの忘れててインスタントラーメンと煮込んだり、早朝に発狂してトイレのドアに穴開けたり…… 説教する俺が悪いのか?」

「悪くないね。 でも、サトシくんは人が良すぎるよ。あの子は人の気持ちを考えないから、自分がやっていることにも興味ないんだよ。 怒られたってのとめんどくさいって感情だけしかないんじゃない?」

「そう! そうなんだよ! やることに責任がないんだよアイツは!」

「もうね、何かすると怒られるから何もしないようにしようってなるの。 指示を待っていればいいやって。 責任取りたくないんだね」

「アイツは26の大人だぜ? それなのに想像力も自主性もない。 俺以上のクズだろ」

「サトシくん以上のクズって言ったら、タカハシくん並?ないねー!」



 そんな風に盛り上がっていると、唐突に「黙ってもらえますか?」という女の声がした。タカハシの女だ。



 さっきまで真顔でカクテルを握りしめていたのに、恨みと憤怒が入混じったような眼差しを真っ直ぐに向ける。バカに大事な人を殺されたんだろうかっていうくらいの迫力だ。いや、バカに汚されたのかもしれない。そんな現実逃避をしたくなるくらい凄みがあった。



「若いのにそんな顔すんなよ。一杯奢るからさ、許してくれよ」

「……」

「この店で一番美味しいのはインスタントコーヒーだと思うが……同じカクテルでいいかい?」

「……インスタントコーヒー」



 店主はカクテルを飲んで欲しそうだったが、すでに彼女は店主のカクテルを味わっている。その結論として、インスタントコーヒーを選んだのだ。決定は当然揺るがない。彼女のテーブルに、湯気が昇るインスタントコーヒーとカントリーマアム(チョコ味)が置かれた。



「バニラはないんですか?」

「あるけどサトシくんが好きなんだよね」

「ネェさん。あんたタカハシの女?」



 不思議そうに彼女は「タカハシ?」と聞き返した。



「隣でストロングゼロ片手に寝てるやつだ」

「全く知らない。 うざかったです」



 見かけに反した答えが面白かった。俺はひとしきり笑った後、ブラックメンソールに火をつける。彼女も少し機嫌が治ったのか、タバコを吸おうとピアニッシモのパッケージを開ける。だが空だったようで、バツが悪そうに箱を潰した。



 俺は自分のパッケージを彼女に放り投げてやる。彼女はありがとうと微笑んで、美味そうに煙をくゆらせる。その憂いを帯びた横顔は年に不相応なもんだ。「苦労してんだな」と言いたくなったが、グッと飲み込んだ。始めて会う女なんてどこに導火線があるか分かりやしない。



 バーで仲良くなった奴らに特有なのがある。打ち解けた途端に探り合う空気が流れるというヤツだ。俺は別に嫌いじゃない。いつかは壊れるからな。しかし壊れ方が大事だ。この場合は男が演出しないといけないんだろうな。



「ね、カクテル美味しかった?」



 なんて考えてたら、店主が空気を読まない突破をした。唐突な質問に、彼女は言葉を探している。俺は無粋な奴だなと思いながら苦笑し、2本めのブラックメンソールに火を付ける。店主は手口を変えて何度もカクテルについて質問を繰り返す。嘘でもいいから美味しいという言葉が聞きたいんだろう。



「止めてやんなよ。困ってんじゃん」

「なんで困るの? 美味しいか美味しくないかってだけじゃん」

「美味しかったら即答するだろ」

「表現を探しているかもしれないじゃん。 サトシくんとは違うんだよ」

「だとしたら、フォローの言葉を探してるんだよ。間違いないね」

「感激のあまり、言葉を失ってるかもしれないよ」

「ないない。 マスターの手にかかると冷やしトマトですらマズイ。 ネスレと不二家がなきゃ今頃露頭に迷ってたろうね」

「流石に言い過ぎだよ!」

「れふ亭の大判焼きも出してくんないかな。 あそこのチーズあんこはコーヒーと合うんだよ」

「うちは喫茶店じゃないんだよ! バーなのバー!」



 30歳を超えた2人の男が、不味い、不味くないで言い合いをしている。本当にくだらないが、若い彼女の好みだったようだ。耐えきれないといった感じで、吹き出し、やがて大笑いに変わった。



「あぁおかしい。 久しぶりにこんなに笑いました」

「それは良かった。 で、美味しかった?」

「お世辞抜きに……本当に不味かったです」

「なにおー! まぁいいっか」



 あんなにこだわっていたカクテルの評価を聞いた瞬間に満足する。ある意味、店主も人に興味がないのかもしれないな。自分にしか興味がない、それはボウと似ているのかもしれない。だから、ツッコミやすいのか? まぁどうでもいい。店主のキャラに助けられたのは事実だ。



「ねえさん、いい顔で笑うね」

「おぉ? ありがとうございます!」

「名前、なんて呼べばいい?」

「マイで」

「OK。マイちゃんね。北口っぽくないけど、どっから来たの?」



 彼女は答える前に、インスタントコーヒーで唇を湿らせた。そして「南口からです」と答えた。贔屓目で見ても、北口には南口にあるような品がいい店はない。少なくともブロードウェイの東側には。



 擦れた感じのしない彼女が、なんでこんな場末のバーにいるんだろう?その疑問は物書きとしての好奇心を強く掻き立てる。



「南口の方が良い店多いでしょ? レンガ坂とかさ。 なんでこんな店に?」

「こんな店ってなんだ!……でも、そうだよね。北口にいるような子じゃないよね」



 彼女はコーヒーを一口飲み、辛そうな顔を浮かべた。



「……彼氏の家があったんです」



 さっき言った言葉だが、若い女にはどこに導火線があるか分からない。何気ない会話でも、こんな風に気まずくなっちまう。良かったら参考にしてほしい。



「へぇ」


 俺は最後のカントリーマアムに手を伸ばした。この苦境を切り抜けるアイディアのために、糖分に一縷の望みを掛けてみる。開けたばかりなのに、ほんのり塩辛い気がする。



 飲み下すまでが勝負だ。食いながら話すなんて行儀が悪い。飲み下すまでが勝負だ、それまでに思い付け、俺。



「で、何でここなの? お世辞にも良いとは言えないでしょここ」

「ちょっとサトシくん。 そういうことはツケを払ってからね」

「……人がいなそうだったし、寂しい雰囲気に惹かれて」

「マイちゃんも大概にしなさい。 ここアットホームな店だし!」



 マスターの人柄は得だなと思う。沈んだ女でさえも笑ってしまうくらいなんだから。彼女は、目に涙を浮かべながら笑う。



「こう見えても凹んでるんですよ」

「ムダムダ。 時間のムダよマイちゃん。 名前が泣くよ」

「え? 名前関係あります?」

「あるよ。だって、マイでしょ? じゃあ、大抵のことは”まぁいいっか”って舞い踊ってりゃいいの」



 マスターの渾身のギャグは、彼女には響いていなかったようだ。マイは「滑ってますけど、まぁいいっかで流してあげます」と微笑んでいた。しかし、何かが俺には響いた。



 ”まぁいっか”……そうだよな。 そう言えるのは強いよな。



 冷めたコーヒーを流し込むとき、マイが「まぁいいっか」と噛みしめるようにつぶやいていた。 タカハシが椅子から滑り落ちたが、そのまま眠り続けている。



 こんな夜が北口にはある。

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