第6話 5.それぞれの選択

 『奴』に会った不安と恐怖で一睡もできなかったらどうしよう――と。そんな心配は、一瞬で杞憂に終わってしまった。泣き疲れたせいで、安定の七時間睡眠だ。

 定番のラブソングが流れる中、メグに肩を揺すられて芙美はようやく目を開く。

「おはよう……」

 まどろんだ意識に、メグが「頭ぐしゃぐしゃだよ」と慌てる姿が飛び込んでくる。

「早く起きて! 芙美ちゃんにお客さまだって。ミナさんが談話室に来るように、って」

「こんなに早くに誰が――お客様?」

 お客という言葉に眠気が一気に抜けて、芙美はがばっと上半身を起こした。昨日のダムの記憶が目覚めの悪い脳みそを刺激して、弘人と薫の可能性を掻き立てる。

 しかし詳しく話を聞くと、客は一人だという。

「さっき階段から少し見えたけど、メガネ掛けたショートカットの綺麗な女の人だったよ」

 とのこと。しかし、ショートカットの女性に心当たりはない。

「誰だろう」と頭をひねりながら、芙美はゆるゆると制服を着こんだ。「ほら早く」と急かしながら、メグが寝癖だらけの髪をセットしてくれる。彼女渾身の『今日の髪型』は、耳位置のツインテール、赤リボン付きだ。

 足早に階段を下りる。談話室の扉を叩いて返ってきた声に、芙美はあれと眉を寄せた。

「咲ちゃん?」

 彼女の声だと確信してドアを開ける。しかし、中に居たその姿を見て芙美は仰天した。

「ええええっ! どうしたの? その髪!」

 髪がなくなっていた――もとい、昨日まであったストレートロングの髪が、ばっさりとなくなっていたのだ。これは、十六年前町子が生きていたころの咲を彷彿とさせる、赤ブチの眼鏡にショートカットの懐かしい姿だ。

「あの後思い立って、友達の美容室でさ。どう? 似合う?」

「似合うよぉ! ビックリしたけど。昔に戻ったみたいで、可愛いよ」

「良かった。ほら、長いままだと邪魔だし、薫と被るだろ?」

「そんなことないよ。タイプが全然違うし。それより昨日は何もなかった?」

「あぁ。怖いくらい静かだった。逆に心配にもなるけど、お陰で間に合った」

 咲はソファの上に置かれた紙袋に両手を入れて、そっと中身を持ち上げた。ふわふわと現れた大量の白い布とレースに、芙美は「わぁ」と歓声を上げる。

「魔法少女は、このくらい着とかないとね」

 どうぞ、と渡されて芙美は目を輝かせる。真っ白なレースやフリルがたくさん付いた、フリフリのワンピースだ。

「すごい、もしかして咲ちゃんが作ったの?」

「プロじゃないから、見えないトコとか怪しい縫製があるけど、頑丈には縫ってあるから。サイズ合わなかったら直すから、着てみて」

 咲は謙遜してそう言うが、裏返した所の縫製も素人目には全く問題ない。

「こんなの作れるなんて、器用すぎるよ。ありがとう。咲ちゃんの分もあるの?」

「まさかぁ。こんなの着れるのは十代の魔法少女だよ。着せ替え人形の趣味に付き合うと思って着てくれれば、私は満足なんだから」

「今の咲ちゃんだって似合うと思うよ?」

 素直にそう思ったが、咲は手を横に振りながら大声で笑って、「ほら」と服を勧めた。

 芙美はワンピースを目の前に広げて眺めてみる。町子が着ていたのは、確かコスプレ好きの咲の友人が作ったものだった。デザインはその時と少し違うが、色は白のままで、リボンやフリルがふんだんに付けられたお姫様のような服は、それだけで興奮してくる。

「じゃ、着てみるね」と弾む足取りで芙美が部屋中のカーテンを引き、ドアの鍵を閉めると、咲は「どうぞ」と背を向けた。

「昨日は眠れた?」

「うん――たくさん眠れたよ」

 魔翔の話をしようかためらって、けれどすぐに自分の中では『言わない』と結論付けた。

 取引はしない、大丈夫、と自分に言い聞かせながらワンピースの袖に手を通す。

「なら良かった。最善のコンディションで挑みたいからね」

「そろそろ、なのかな」

 いつ始まってもおかしくない。覚悟は決めているつもりだ。

「あぁ、今日だと思う。どうせなら放課後まで待ってほしいけど、そういうわけにはいかないかな。ミナの居場所はバレていないと思うけど、きっと来るよね、あの二人なら」

「そう――だよね」

「昨日二人の力を見て、改めて思った。もう、どこに隠れたって嗅ぎ付けてくるよ。だから、ここで待ってて良いと思う。異次元を作って、私が死なない努力をすればいい――ね?」

 咲の作る異次元が頼りだ。例えここで戦闘になっても、外への被害は防ぐことができる。

「あの二人の目的は、一般人を殺すことでも、町を破壊することでもなくて、ミナを魔翔に捧げることだからね。無理矢理ここに攻撃を掛けてくるわけじゃないよ、きっと」

 「きっと」と繰り返して、咲は肩越しに芙美を振り返り、にっこりと微笑んだ。

「あと、一つ言っとかなきゃな」

 そして、諸連絡でもするかのような軽い口ぶりで、突然咲は告白した。

「私、類が好きだったんだよ」

「へぇ、そうなんだ」

 あまりにも唐突に言われてしまい、きちんと理解しないまま返事してしまった。視線を返して五秒ほど過ぎてから「ええっ」と叫んで、背中のファスナーが開いたまま咲に向く。

「えっ? 修司?」

「修司じゃないよ。あくまでも、類。彼のことがね――って、恥ずかしくなるからあんまり聞かないで」

 咲は照れながら短くなった髪を撫でる。髪を切ったのは、彼のことも関係しているのだろうか。「昨日ね」と呟きながら咲は芙美の後ろに回り、背中のファスナーを上げると、撫でるようにスカートのフリルを整えた。

「薫に聞かれたんだ。芙美や修司に付いてるのは、類のことをまだ好きだからなんじゃないかって。でも違うって答えたし、そうではないんだよ。私はこっちが正しいと思って居る。それだけのことなんだよ」

「う、うん。咲ちゃんがいてくれるのは心強いよ」

 渡されたニーソックスをはくと、咲は「似合う似合う」と手を叩いた。照れ臭いなと思いながら、芙美は壁の鏡で確認する。さっきまで着ていた制服よりスカートの丈が大分短めだ。全体の白に、メグに結んでもらったリボンの赤がよく映えていた。

「ねぇ咲ちゃん、修司はそのこと知ってるの?」

「まさか。ちゃんと告白したわけじゃないし。芙美に似てアイツ鈍感だからね」

 そう言って咲は、芙美の前に回り込んで両肩に手を乗せた。

「だからもし芙美が修司を好きになったら、私に遠慮はしないんだよ?」

 昨日ミナに同じセリフを言ったばかりだった。

「これだけは言っとかなきゃ、って思って」

 遠慮してるのは咲のほうなんじゃないか、と思ってしまう。町子の時から今まで彼女の気持ちに気付いてあげられることができなかった。

「私は――どうなんだろう」

 素直にそうだと思えれば良いのに、と思ってしまう。過去への想いに咲は色々な決断をしたのだと思うのに、自分はまだまだ弘人への気持ちを切り捨てることができない。

「ごめんね、咲ちゃん。私はまだよくわかんないよ」

 修司が嫌いなわけではないのだ。いつも側にいて「守る」と言ってくれた彼の真意は、「仲間だから」なのではないかと解釈してしまう。

「人を好きになるって、そういうもんだよ」

 咲が時計を確認すると、六時四五分を指していた。食堂が開く時間で、ドアの向こうが騒がしくなってくる。

「朝食の時間かい。ごめんね、早く来ちゃって。でも、早い方がいいと思って」

「うん。咲ちゃん、ありがとう」

 この格好のままでは食堂にも行けず、芙美がとりあえず元の制服に戻ろうと首のファスナーに手を掛けたとき、いよいよその時は来てしまう。

 咲と同時に気付くことができた。キンと鳴る耳鳴り。それもいつもの比ではなく、脳天を突き刺すような鋭い音が響きだした。

「ちょっ、何これ。頭が割れそう……」

 芙美は両耳を手で塞ぐが、緩和するどころかそれはだんだんと強まっていく。

 部屋の中に魔翔はいない。咲は「まさか」と飛び付くように窓辺に走り、観音開きの窓を思い切り外に向かって開け、絶句した。

「な……んだい、これは」

 芙美も咲を追い掛けて後ろから覗き込み、目に飛び込んだ光景に低い悲鳴を上げた。

「なんで、こんなことになってるの? 何が起きて……」

 窓の外。寮の周りや学校までの道や空き地に、無数の魔翔の姿があった。目視しただけでも十はいる。空気の音に混じって聞こえるキィキィという奴等の声に、芙美はごくりと息をのんだ。離れていて詳細は分からないが、学校にまで広がっているように見える。

 バタバタバタと騒がしい足音がして、ドアノブをガチャガチャと回す音が響いた。

「おい、開けろ!」

 修司の声に鍵を掛けていたことを思い出し、芙美は慌てて施錠を外した。バンと開いた扉から、修司とミナが雪崩込むように入ってくる。

「その格好……」

 フリフリのワンピース姿の芙美に一瞬目を奪われて足を止める修司に、芙美は咲の告白を思い出して思わず視線を反らしてしまうが、咲の声がしてすぐに窓辺へ戻った。

「本気だね、弘人も薫も」

「弘人と取引してる魔翔が引き寄せたんだと思う」

 修司が言うと、ミナは「そうね」と答え、窓の外を見回して「うん」と頷いた。

 次第に耳鳴りが止んでくる。耳鳴りは魔翔が出る合図だ。

「出揃ったってとこかしら。だいぶ遠くまで沸いてるわよ。学校の中もこんな感じのはず。三人とも、覚悟はできてる?」

「覚悟なんて、とっくの昔にできてるぜ」

「そうだね――行くしかないしね。それより、ミナは隠れて絶対に出てこないでね」

「そう言って貰えると心強いわ。あの二人も魔翔も、私のことが狙いなんだものね。今沸いてるのは、修司や咲なら十分戦えるレベルよ。芙美に気を付けてあげて」

 修司は杖を取り出して「任せとけ」と勇んだ。ミナは三人に向かって頭を下げる。

「貴方たち五人を選んだのは、誰でも良かったわけじゃない。ちゃんと適合してないと杖を持っても魔法使いにはなれないのよ。だから、自信を持って」

 芙美になって初めて咲の店に行った時、咲の杖を振っても反応がなかった。

「わかってます。じゃあ、行ってきます」

 修司と芙美に目で合図を送り、咲が先陣を切って部屋を出た。すぐ後に修司が続く。「行ってきます」と芙美がその後ろに駆け出そうとするのを、ミナが突然腕を掴んで阻む。

「魔翔の声を聞いたの?」

 気付いていたのか。芙美はミナに身体を向けるが、彼女と目が合わせられずに唇の辺りに目を泳がせる。真っすぐな視線で返事を返すことができない。

「聞いていません」

 そして嘘をついた。ミナが「駄目よ」と咎めるが、芙美は横に首を振った。

「大丈夫。そんな話せる魔翔になんて会ってないし、会ったとしても取引しません」

 そう言って顔を上げると、ミナは心配そうな顔を向けてくる。

「戦ってきます。ミナさんは隠れていて下さいね」

 返事を聞く前に、芙美は急いで部屋を出た。

 食堂へ移動する寮生たちがワンピース姿で駆けていく芙美を見てざわめいた。彼等に魔翔は見えないし、耳鳴りも声も感じ取ることはできない。

 途中に居たメグに「ちょっと行ってくる」とだけ伝え、芙美は全速力で玄関を出た。


 晴れやかな夏色の空の下、外には無数の魔翔がひしめいている。

 先に出た二人が、魔翔を倒したところだった。羽の付いたボール型の魔翔が足元で息絶え、修司の魔法陣が宙に消えていく。少し遅れた芙美に「何かあったかい?」と咲が心配したが、芙美は「ううん、ちょっと手間取っただけ」と首を振った。

「ねぇ芙美、その服、死に装束にだけはしないでね。前の……あん時辛かったんだ。あの服着て血だらけで倒れてたっていうアンタを見てさ」

「うん――気を付けるよ」

 辺りを見回すと、魔翔たちはまだ三人に気付いてはいないようだった。一定の距離で反応し、奴等は敵意を剥き出しにしてくる習性があるようだ。


 咲が先導して芙美を挟むように校舎へ向かい、校門の前に二人を見つける。まだ生徒の姿はなかったが、それに置き換えられたかのように校庭や校舎にまでも魔翔の姿が見えた。

「こんな早くからご苦労様なことだね」と杖の先端を掌に弾ませて咲が皮肉ると、

「朝まで待ってあげただけでも、有難いと思って欲しいわね」

 薫はそう言って、人差し指で瞼の端を掻いた。目が少し充血している。

 横に居る弘人は何も話さない。昨日と同じだ。服こそ着替えているが、もうずっと魔翔に捕らわれているのだろうか。魔翔に怯える彼はもういない。戦いたくないと言っていた彼もどこかに行ってしまった。

 弘人はうつろに魔翔を見渡して杖を握ると、くるりと魔法陣を描いた。

「何した? 弘人」

 しかし青い魔法陣は回転を続けるだけで攻撃を発するものではなかった。三人が警戒して構えると、修司がその変化に気付く。

「集める気か!」

 少しずつ、磁石のように。魔翔たちが魔法陣の光に向けて引き寄せられる。

「厄介なことばっかりしないで欲しいね」

 咲は杖を回した。異次元を作ろうとして、目視で魔翔との距離を測った。

「一番遠くのは、体育館の辺りか。ちょっと範囲が広すぎるね」

 芙美は驚いて校舎を振り返る。体育館は長い校舎の先――つまり、学校の敷地は全滅ということになる。

 バサバサと鳥型の魔翔がこちらに気付き、豹変する。敵意を剥き出しにしてキィと唸り羽ばたいてくるのを、修司は緑の風を起こして向かい撃つ。鋭い音を立てて胴体を切りつけられた魔翔は、力を無くして地面へ落下した。

 どの魔翔も弘人と薫を攻撃目標とはしていなかった。芙美たち三人のみを狙っている。

 咲は「悪いね」と礼を言い、杖でいつもより大きな円を描いた。

「こんなに広範囲で次元を作ると、建物が残るんだよ。けど、私が死なない限りはいくら壊しても元に戻せるから」

 金色の魔法陣が空気に溶けて、その後の光景に芙美は「あれ」と辺りを見回した。今までの風景と変化がない。建物もあって、魔翔もいる。何もかもそのままに見えたが、「一般人は入って来れないから」と、咲が説明してくれた。

「魔翔と魔法使いだけが居るからね。薫――目星は付けてたみたいだね」

「確立を狙っただけよ」

 嬉しそうに笑んで、薫は杖を高く掲げた。

「そういうことか」と修司が表情を険しくする。芙美もようやくその意味を理解して、杖を構えた。魔翔と魔法使いしかこの異次元の中に居ないなら、ミナもきっとこの中に居る魔翔以外にここに居るのは、自分たち五人とミナだ。彼女はおそらくこの中に居る。

「私たちが会えなかったのに貴方たちが会えたのなら、二人の近くに居る人よね、きっと。教師か何か? ここで咲が異次元を張れば、炙り出せると思ったのよ」

「良い考えでしょ?」と加える薫を前に、芙美は絶対にミナが出てきませんように、と祈った。なるべく校舎側へ二人を誘導したい。

「今この中に居なくても、足を踏み込めば魔法使いや魔翔は入ってこれるのよね。中の人を選別できないのは、この次元の盲点ね」

 薫がくるりと振り返り合図すると、弘人はもう一度大きく杖を回した。

 周りに居た魔翔がキィと鳴いて、同時にその視線が芙美たち三人を狙う。狼型が三匹、地面を蹴って飛び掛かってくる。三人がそれぞれ魔法陣を出すが、芙美に突進する魔翔は炎の壁を軽々と超えてきた。

「きゃっ」と芙美が咄嗟に腕を上げて身を庇うと、修司が横から緑の光を飛ばした。一人に一体ずつ向かってきた魔翔。それを修司は二体同時に攻撃する。

「お見事」と舞台見物するかのように称賛する薫。

「修司、ありがとう」

 礼を言って構えるが、やる気と勢いだけではどうにもならなかった。

 地面に叩きつけられてうめく魔翔。それらが息絶えて消えても、すぐに次が襲ってくる。

「ここは任せろ」と修司が芙美の前に出て、肩越しに叫ぶ。

 逃げろということか。従いたくはないのに、そうするほうが正しいと思ってしまう。

 横に振る首を止めると、咲が芙美の腕を掴んで少し後ろまで走った。元の位置では修司が次々と魔翔を相手にしている。

「離れてた方がいいよ。ここは任せて。それに修司が強いのは私が良く知ってるから」

「――でも」

「ミナも隠れてる。あの人はすぐにやられるような人じゃないよ」

 大丈夫だと肩を叩く咲。

「修司は昔と変わんないね。今でもアイツはアンタを見てる。全く、嫉妬しちゃうよ。類はね、ずっと町子が好きだったんだ。でも、町子は弘人ばっかり見てたから、気付かなかったでしょ? ホントうまくいかないね、恋愛って」

 早口に言った咲の言葉に、芙美は「えっ」と修司を振り返る。三体同時に攻撃をする彼の背中がとてつもなく大きく見えた。

「そんなこと、私む知らなかったよ」

「だから余計、修司はアンタに後ろめたいんだよ。修司が弘人みたいに自己主張したら変だろ? 無愛想な奴だけど、アイツのこと信じてみない?」

 確かにそうだと苦笑して、芙美はくるりと踵を返し、校舎を見やった。

「ちゃんと言ってくんなきゃ、わかんないんだけどな。でも、わかったことにしてあげる。私行くよ。だから、二人とも死なないでね」

 校舎まで百メートル。駐輪場を抜けて行けば戦闘は避けられる気がした。

「じゃあ、またね」そう言い残して、芙美は全速力で走った。


 薫たちを遠目に巻き、魔翔を避けて走った。もちろん二人は気付いているだろうが追い掛けてはこない。非力な芙美が向かう方向に大魔女はいないと判断されたらしい。

 どんな理由があるにせよ、その場から遠ざかることが最善だと割り切って、芙美は昇降口の硝子戸にタッチした。校内の死角が戦うには有利かもしれない。既に扉が開いていたのは好都合だ。こちらには見えないが、早番の教師がもう来ているのだろうか。

 芙美は息を整えて、周囲の魔翔を見張った。ざっと視界に入ったのが六匹。どれも見たことのない形だ。芙美が手に負えるレベルではないだろうから、戦闘は避けたい。

 魔翔から逃げることなど町子の頃は考えたこともなかった。校舎内へ土足で踏み込むことを躊躇いつつ、芙美は足音を忍ばせ中へ入る。下駄箱の上に居た大蛇のような魔翔の横をそっと通り抜け南側の校舎へ出ると、視界から魔翔の姿が消えた。

 静まり返った廊下が肝試しの記憶を思い出させる。どこへ向かうか当てもなく、芙美はあの時のルートを辿って階段を上った。警戒しながら進んでいくと、小さな魔翔に出くわした。雀ほどに小さな鳥型の魔翔だ。色が黒いせいでカラスにも見えてしまう。これは自分に沸いたものだ。昔、町子がよく戦っていた魔翔で、スッと肩の力が抜ける気がした。 

「これならいける」

 杖を握り両手で魔法陣を描いた。キィと叫ぶ魔翔は二度三度と忙しなく体当たりを仕掛けてくるが、うまくかわすことができた。対抗した芙美の攻撃が、奴にダメージを与える。

 楽勝だ――黒い羽根を炎に焦がし散り散りになる姿に高揚感を覚えた。たとえ小さくても、魔翔を倒した時のこの感覚は格別だ。

 西側の階段を三階まで上り、遭遇した魔翔を一体二体と順調に倒していく。特にひねりもない炎の攻撃だが、うまいくらいに奴等を灰に変えることができた。

フロアに出て東側の階段を目指す。肝試しの時は真っ黒い闇だったが、朝の光に照らされて見通しが良かった。目の前に伸びる長い廊下。油断しないようにと教室毎に警戒しながら足をそっと滑らせていく。恐怖に逸るが、自分は戦えると言い聞かせながら一番端の教室に差し掛かった時、奴の気配に気付いた。

 遠くに響く仲間の戦闘音をかき消す、キンと鳴る出現音。気合を入れて飛び込んだ教室は、肝試しで魔翔が出たまさにその部屋だった。

 ボンと現れた魔翔に全身が強張った。バスケットボール程の丸い身体に付いた天使のような大きな羽に、あの時の記憶が蘇る。町子の最期。ダムで会った魔翔だ。あの時は二匹で、今は一匹。町子なら一発で倒せる相手だ。

「こんなトコでまた会うなんてね」

 机の上でボンボンと弾む身体。細く開いた口は、ずっとこちらを嘲笑うかのような三日月型に開いている。キィキィ鳴く声に眉をひそめ、芙美はくるりと魔法陣を描いた。

 ゴオと音を立てて、炎はうねりながら魔翔を撃つ。衝撃で飛び上がった丸い身体が天井の蛍光管に直撃し、パンと派手な音を立てた。飛び散るガラス片を避けるように芙美は退いて呼吸を整えると、魔翔はダメージを感じさせないスピードで降下しながら攻撃を放つ。

白い光の線が奴の口からピイッと音を立てて吐き出され、芙美目掛けて襲ってきた。

 間一髪、横に跳躍してダメージを避けるが、直後に来た二発目の光に左腕を撃たれる。

「いやぁああ」

 表面をかすめただけで済んだのが幸いだが、咲が作ってくれたワンピースの腕が裂け、真っ白い生地がドロリとした血で滲んだ。一呼吸おいてからビリビリと痛み出した腕を抑え、芙美は指に絡む生温い感触に全身を震わせた。

 奴はまだそこにいる。まだまだ戦う体力は残っている筈だ。けれど町子なら簡単に倒せるはずの魔翔なのに、どうして負傷するミスを犯してしまったのだろうか。

今の自分は、町子にすら及ばない。こんなに弱い自分は戦う意味があるのだろうか。

地面を擦りながら後退って、芙美は廊下へ飛び出た。

「――嫌だよ」

 間違った選択をした覚えはないのに、この戦闘が現実を突き付けてくる。違うと首を振ると、魔翔と目が合い、奴も芙美を追いかけて廊下に出た。

奴に目などないが、真っすぐにこちらを見ているのがわかる。口角が上がって、狙いを定めた次の攻撃が飛んでくる。同時に攻撃する余裕はなく、芙美が必死に防御しようと杖を振り上げた時――芙美の頭上、すぐそこで羽の魔翔がバンと高い音を上げ、一瞬で身体を引き裂かれた。芙美の攻撃ではない。芙美の死角から何者かが攻撃したのだ。

 散り散りになる姿を見届けて、芙美は修司か咲を予測して振り返り、絶句した。

『もう大丈夫よ。さぁ』

 相手が弘人や薫のほうがまだ良かったのにと思ってしまう。身を庇うように杖を持った手で血のにじむ左腕を強く抑えると、視界がふわりと霞み、芙美はその場に崩れるようにぺたりと座り込んだ。

 魔翔から芙美を救ったのは、町子の姿をした黒い身体の魔翔だった。

 取引はしないと決めた筈なのに、自分の弱さを受け入れてしまいそうになる。

『強さをあげるわ。今の貴女には一番必要なものでしょう?』

 その通りだ。強くなれば皆と一緒に戦うことができる。魔翔が大魔女の死を望んでいても、自分に力があればその望みを阻止できるかもしれない。弘人や類のように戦いから逃れたいわけではないのだから。今のこの弱くて負傷した状況よりはましな気がする。

「貴女は大魔女の死の為に、私と取引したいの?」

『そうよ』と即答する。全く可愛げのない女だ。低いその声で自分の邪魔をしてくる。

「じゃあ取引した後、私が大魔女を殺すことを嫌だって言ったら?」

『私が貴女を殺してあげる』

 嬉しそうに笑んで、魔翔はゆっくり芙美に近付いてきた。

 「貴女は強くなるんでしょう?」と目の前に屈んで手を差し出してくる。

『誰にも負けない強い力をあげる。私を殺したいなら、その後に倒せばいいでしょう?』

 心が揺らいだ。気分が悪くなってきて、肩で何度も呼吸を繰り返す。

 遠くで戦闘の音がした。皆が全力で戦っている。弘人もそこにいる。自分も取引すれば、その中に入ることができるだろうか。

 芙美は負傷している腕から手を放した。赤く血で染まった掌が、彼女の手を取れば楽になるよと語りかけてくる気がして。

「私は……戦いたいの……」

 恐る恐る腕を伸ばして、町子を受け入れようとした。指先が触れ合うその寸前に――

「駄目よ!」

 突然響いたその声に、芙美はハッとして伸ばした手を引き戻し、声に振り向く。

「……なんで」

 隠れていて欲しいと伝えた筈なのに。大魔女ミナがそこに立っていた。いつも通りの半袖ショートパンツ姿。大魔女らしからぬ風貌だが、辺りの空気がざわめきだした。

『大魔女か!』と町子の姿をした魔翔は叫んで、素早く身体を彼女へ向けると、スタートを切るようにミナに飛び掛かる。

 ミナは大魔女だが、五人に力を与えたことで、もう戦えないと言っていた。

「駄目」と芙美が慌てて立ち上がる。杖を回すが、足を踏ん張らせると視界がぐらりと揺れて、魔法陣も消えてしまう。

 魔翔もまた杖を出して、かつての町子や芙美と同じように赤い文字列を空間に放ち、赤い炎を立ち上らせた。ミナはショートパンツの後ろポケットに刺さった杖を抜く。

「ミナさん!」

 芙美が叫ぶと同時にミナは杖を回した。ブンと低い音を出しながら白い魔法陣が回転し、ミナの手の動きに合わせて上昇した。彼女より高い位置から魔法陣そのものが魔翔に向けて叩きつけられる。動物を捕らえる網のように光の文字列が魔翔の身体に絡みつくと、痛みがあるのか、『ぎゃあ』と悲痛な声が響いた。床に転がった黒い身体には白い文字列が刻まれ、シュウと全身から煙を立ち上らせて消えて行く。

「すごい。ミナさん」

 静まり返った廊下で芙美が視線を返すと、ミナは「はぁ」と疲労の表情を浮かべて、側の壁に身体を預け、右手の甲で額を覆った。

「戦えないって言ったけど、全然使えないわけじゃないのよ。ただ、この間記憶を戻した時も熱が出たでしょ? 一回使っただけで体力の消耗が酷いから、現実的に戦闘は無理なのよ。だから、いつもはそうならないように身を潜めているの」

 青ざめた顔で息を吐き、ミナは手を下ろした。

「今のは倒したけど、油断したらまた取引しろって出てくるわよ? 魔翔の言いなりになんてなっちゃ駄目。芙美、貴女は自分を弱いと思ってるかもしれないけど、そんなことないわ。すぐ他の仲間に追いつけるから、自信を持って」

「でも、今が一番戦わなきゃいけない時なのに」

「そのことだけど……もし貴女が本当に強くなりたいなら、方法がないわけじゃないの」

 ゆっくりと壁から身体を起こし、ミナは芙美の前に立った。

 芙美はごくりと息をのむ。彼女の真面目な表情を少しだけ怖いと思ってしまうが、自分の気持ちに変わりはない。

「今より少しでもいい。強くなれる方法があるなら、私は何でもやりたいです」

お願いしますと頭を下げる芙美に、ミナは「そう」と表情を緩めた。

「良かった。貴女が――」

「芙美!」

 カツカツと足音が近付いてきて、薫の声がミナの言葉を遮った。それを追って幾つも足音が増え、弘人や修司、咲も加わる。

 芙美はミナを背にして前に出るが、隠しきれるわけはない。バタバタと咲と修司が芙美を挟むように横に立ち、薫たちと対峙した。

咲が「大丈夫かい?」と芙美の負傷した腕をそっと掴んだ。温かい光が滲んでくる。血の跡は残っているが、徐々に痛みは緩和して、芙美は「ありがとう」と礼を言った。

 薫は品定めするようにミナの顔を見つめ、「そのままなのね」と苦笑する。

「やっぱり学校に居た。大魔女は咲の異次元の中に入れてしまうものね」

 修司は薫を睨んで肩越しにミナを一瞥する。

「アンタは隠れてて良かったんだぜ」

「隠れてたら間に合わなかったわよ?」

「はぁ? 何のこと――」

「ナイショ」と小さく笑んで、ミナは芙美にウインクする。薫は前へ一歩踏み出すと、

「覚悟はいい? 大魔女。もう弘人を苦しめないで。何もかも終わりにさせて」

「そうね。分かってるつもりだったけど、本人の辛さなんて他人に分かるわけないわよね」

 薫の横に弘人が居る。彼は大魔女を前にしてもぼんやりと視線を泳がせていた。

 二人は予想以上に冷静だ。不思議がる芙美に気付いて、「もうこうしているのも限界なのよ」と説明する薫の手が、しっかりと弘人の腕を掴んでいる。少し浮いた指の間から、彼女の放つ褐色の光が零れた。

「弘人の中の魔翔を抑えているのも、あと数分で耐えられなくなる。だから大魔女、最後に聞かせて。私が貴女を殺したら、本当に災いが起きるの?」

「起きるわ。私の肉を食らって、魔翔の力が最大になる。人間にも被害を加えるようになるわ。そして、私が死ねば貴方たちの力も消える。つまり魔翔を倒す魔法使いもいなくなって、野放し状態。この世界は壊滅するってことよ」

 薫はぐっと息をのんで、切れ長の瞳でミナを見据えた。

「じゃあ、私と弘人が貴女に殺されれば、全て終わらせることができるのね」

「類や町子のように生まれ変わることができなくなってしまうけどね。それでもいいの?」

「さっきはああ言ったけど、全てを終わらせることが私たち二人の出した答えよ」

 予想外の言葉に、芙美が「えええっ」と声を上げた。

「薫、アンタまで何言ってんだい? アンタは魔翔と取引してないだろう?」

「じゃあ、咲はここで殺し合いすることを望むの? 私は弘人を一人にしない。同じ運命を生きようと思うし、貴女が戦いを望むなら、望み通り殺すわよ」

「何もそこまで弘人の為にしなくても」

 冷静な咲でさえ動揺を隠せない様子だ。

「二人で死ねれば本望だわ。私は最初からずっと弘人の事を見てきたのよ」

 芙美は何も言葉を返すことができなかった。彼女の想いを超える自信はない。弘人のことを好きだと思うのに、薫と同じ未来を選んだところで戦線離脱は目に見えている。

「町子だって私たちと戦うつもりだったんでしょう? 類の時みたいに」

「だって、それは――」

 本気でミナを殺すというなら、戦わなければならないと思ってただけのことだ。

「私だって貴方たちを本気で殺したいなんて思ってないのよ。弘人の為なら戦闘も仕方ないと思って来たけど、昨日私には何もできなかった。だから――」

「だからじゃないよ。だから自分が死ねばいいなんて、間違ってる」

 芙美は杖をポケットにしまった。薫に詰め寄って、声を張り上げる。

「死にたいとか言わないでよ。死ぬのがどれだけ痛いか知ってる? 私は知ってるよ。身体も心もいっぱい痛いんだよ。残された人が辛いことだって、薫が一番知ってるでしょ? だから生きてよ。魂の世界なんてないんだよ?」

「じゃあ、どうしろって言うのよ。ずっと魔翔と取引してろっていうの?」

 弘人を制御していた薫の手が、ガクガクと震え出す。もう彼女には限界らしい。

「全く。また私に殺して欲しいとか、冗談言わないで」

 低くため息をつきながら前に出て、ミナは杖を弘人の胸元に突き立てた。ブンと音を立て、白い魔法陣が彼の白いシャツに重なると、弘人は急に正気を取り戻して顔を上げた。

「一時的なものだけどね」と、ミナは杖を彼から放す。

 状況を飲み込めず辺りを見回す弘人に、薫は今朝からのことを大まかに説明する。

「そう……だった。大魔女、アンタに殺して欲しい」

 そう言って頭を下げる弘人に、芙美は心臓の辺りにチクリと痛みを感じた。

 バサバサと魔法使いを求めた鳥型の魔翔が背後から二体現れ戦を挑んできたが、修司が瞬く間に一掃する。

「流石ね、修司」

 満足そうに微笑んで、ミナは次に修司と芙美に尋ねた。

「強くなりたい? 二人とも」

「昨日言ってたやつ、か?」

 不安を垣間見つつも、力は喉から手が出るほど欲しい。芙美も修司も即答して頷いた。

 ミナは「良かった」と薫たちを振り返る。

「失うものもあるけど、死ぬよりはいいと思う。闇と水の力を、二人へ移します」

 戸惑う五人を前にミナが出した提案は、芙美にとって弘人との別れを意味するものだった。


薫と弘人の力を、芙美と修司が受け継ぐという話だ。

「そんなことできるんですか?」

「前の五人は全員が死を望んでしまったから、できなかったの。ある程度魔法の耐性がついている魔法使いじゃないと、別の力は受け入れられないものだからね。でも、本当に二人に受け入れる覚悟があるなら、修司と芙美にはその資格があると思う」

 前向きに提案しつつも、ミナの表情に迷いの色が見える。

「そんなことできるなら、私だって引き受けるよ」

「ありがとう、咲。でも、一つの力を分けることはできないから、二つの力は二人にしか移動できないのよ」

「二人はそれでいいのかい? 私が変わったっていいんだよ?」

 咲に言われて、芙美は「うん」と頷く。実際にまだピンとこなくて不安な気持ちもある。

「力を受け継ぐってことに抵抗はないよ。使いこなせるかどうかは分からないけど。強くなれるなら、それでいい」

「力を抜かれた二人はどうなる?」

 ずっと黙っていた修司が改まって尋ねた。薫と弘人は最初こそ喜んだが、ずっと困惑した表情を浮かべていた。

 ミナは「そうね」とうつむいて、一人納得したように頷くと、五人に向けて顔を上げた。

「まず、芙美と修司の力は実質的倍になる。だから、沸く魔翔のレベルは段違いに上がるわ。出現頻度も上がるだろうし、使いこなすのも大変だろうけど、これからは私もちゃんとサポートするから。慣れる努力をする、ってことに尽きると思う。あとは、今の芙美が少しみんなより弱いように、咲が気を付ければ問題ない」

「私はマイペースでやらせてもらうよ」

 任せて、と咲は胸を張る。

「そうね。で、弘人と薫。貴方たちの記憶は全部消える。初めて私に会った日から、魔法使いだった記憶を、ね」

 弘人と薫は顔を見合わせ、次に芙美へと視線を向けた。

「私たちのことも? 私の中からも二人のことが消えちゃうんですか?」

「芙美にはその方が好都合だったかしら。でも、あくまで忘れるのは二人だけなのよ。二人が魔法使いで居たことは現実だからね」

「そう――なんですか」

町子が過ごした弘人との記憶が消えてしまうということ。

 芙美は自分の胸元を掴んで、急に沸き上がった衝動を抑えた。

「本当にいいの? 二人とも」

 薫は困惑した表情で二人に尋ねた。その横で、弘人が小さく唇を噛み芙美の前に出る。

「芙美」

 初めて弘人に今の名前を呼ばれた気がした。町子と呼ばれることを望んだのは芙美自身だ。最初はそれでいいと思って居たのに、会う時間が多くなるほど、その呼び方に寂しさを覚えた。

「ごめんな。これは俺の責任だし、死んでもいいと思ってる。けどもし生きられるなら、忘れちまってもいいから、みんなでまた会えたら嬉しいよ」

「弘人……謝るのは私の方だよ。でも、どんな形でもいい。生きて」

 流れ出す涙を止めることができなかった。最後なのに、弘人は昔のように抱きしめてはくれなかった。隣で肩を叩いてくれたのは咲だ。差し出されたハンカチで強く目を拭くと、できる限り精一杯の笑顔を作って、芙美は薫の所へ行く。

「ねぇ薫、私が芙美になって初めて会った日、車であの曲が聞けて嬉しかったよ。ありがとう」

 咲の車で聞いた、町子の好きだった曲。薫が覚えていてくれて、セレクトしておいてくれた。

「私は町子が嫌いだったけど、芙美のことはそんなに嫌いじゃない」

 晴れやかな表情の薫を見て、芙美はまだ自分が町子だった頃の彼女を思い出していた。いつもの茶色いセーラー服姿で、美人で控え目で、冷静に判断する彼女は、芙美の憧れだった。

「私はずっと好きだったよ、薫ちゃん」

 素直な気持ちを伝えると、薫は面食らった表情をして、やがて穏やかに笑んだ。

 ミナは杖先で左の掌を叩き、講義する教師のようにくるりと五人へ身体を向けた。

「じゃあ、二つの力、二人に受け取ってもらうわよ」

「あの、できたら私が弘人の――」

「芙美。ごめんね、それはできないのよ。貴女の属性は火でしょ? 弘人の水は対極だから、それぞれを打ち消してしまうの。貴女の身体に無理な負担を掛けてしまう。だから、貴女には闇を受け入れてもらう。修司の風と水はうまくいくから」

 弘人の力を受け継ぐことができればと思ったが、冷静に考えると、火と水を一緒にさせることができないなんてわかることだ。そんな事実が自分と弘人を表しているようで、寂しさが込み上げてくる。

「そんなに落ち込まないで。この決断は誰も殺さない。これだけで素晴らしいと思わない? 弘人と薫にだって、また会えるから」

 肩にそっと手を当てて、ミナが芙美を覗き込んでくる。大魔女はこんな人だっただろうか。ここにいるのは、いつもの優しい寮母のミナだ。

「――うん。そうですね」

 サヨナラじゃない。十七年前、雪の中で冷たく死んでいった町子や類の時とは全然違う。これで良いと思える。

「弘人も薫も、また会おうね」

「もちろん」と二人が声を揃えた。

「じゃあやるわよ。だいぶ力を使うから、私は二日くらい寝込んじゃうわね」

「その時はまた、夏樹が看病してくれますよ」

「そうね」とミナは嬉しそうに笑って、辺りをぐるりと見渡した。

「魔翔もだいぶ残ってるけど、三人とも頼むわよ。貴方たちは強い。自信を持って」

 ミナは自分の杖を高く掲げた。

「弘人に薫。貴方たち二人は自分のベッドに送ってあげるから、まずはゆっくり休んで。そして自分が納得できる未来を進みなさい」

 くるりと回された杖の先から、突然強い光が放射した。辺りを白一色に飲み込んでいくが、うっすらと背景の形は風景に残っている。

 その中でミナは、弘人と薫に一人ずつ杖を向けた。まるで手品か何かのように二人の胸元に光の玉が現れる。ソフトボール程の大きさの青い球と黒い球で、二人の魔法と同じ色だ。

「あ……」と零した修司の声に、芙美もその記憶に気付くことができた。懐かしいと思える。

 初めて大魔女に会った時、同じものを見た。

「じゃあ、いくわよ」

 思い出に浸るのも束の間、ミナの声に二人の身体が色を無くしていく。もうこれで会えないような気がして二人に何か声を掛けねばと思ったが、うまく言葉にできず芙美は声を掛けることができなかった。

 唯一咲が、「二人とも、またね」と消え行く先に届くように声を上げる。

薫が手を振ろうと片手を上げたところで、二人は完全に光の中へ飲み込まれてしまった。

「お疲れさま」

 シュッと火が縮むような音がして、ミナが何もなくなった空間に言葉を送った。

 白い光が消えて、背景がはっきりと戻ってくる中、青い球と黒い球はミナの広げた掌の上にボオッと浮かんでいる。

「こんなのだったね」と感慨深い表情で見つめる咲。

「これが魔法使いの力になる。二人とも覚悟はいい?」

 そう言ってミナが手を横に滑らせると、芙美の前には黒、修司の前には青の光がスウッと飛んできた。

「闇の力なのに、あったかいね」

 ふんわりと感じる温度。球体の中で光が揺れていて、まるで生きているように見える。

「そうね。じゃあ、あとは頼むわよ。私はもう役に立たないから、撤退するわ」

 少しずつ光の温度が上がってきて、芙美と修司は目を閉じた。温かくて優しい光に包まれて、次に目を開いたとき、目の前には光もミナの姿もなかった。

「行っちゃったよ。大魔女の力だと、この空間から出れるとはね」

 そう咲が呆気にとられた顔で説明する。異次元を出させて彼女を誘き出すという薫たちの計画も、結局ミナに踊らされていただけだったのかもしれない。

 ミナが消えて、そこには黒い魔翔の姿があった。人間の形だ。きっとこれは、弘人と取引した奴だ。けれど、奴の声を言葉として理解することはできなかった。

「いける」と修司は自信満々に杖を振りかざす。緑の光を操る風の魔法使いだった彼の杖から、水色の光が現れた。

 芙美は自分の杖を確認した。ボオッと赤く光るいつもと同じ自分の杖だ。けれど、それだけではないよと何かが自分に語り掛けてくるのが分かった。

「うん、大丈夫」

 赤と絡んで伸びる紫色の光を確認して、芙美も魔翔に向けて手を伸ばした。

 負ける気はしなかった。


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