第5話 4.都子
帰省の旨を実家に電話で伝えると、受話器の奥の都子は少し驚いた様子だったが、快く歓迎してくれた。
大型連休を過ぎた五月後半。一泊のみの慌ただしい帰省を「もっとゆっくり来ればいいのに」と言ってくれた都子に対し、父和弘の関心は予想通り同行者の方に向いていた。受話器の奥から彼の動揺した叫び声が聞こえ、女だと納得させるまでに少々時間がかかった。
土曜日。早朝の新幹線は、首都圏へと急ぐ客でほぼ満席だった。
駅で待ち合わせをし、自由席の車両へ乗り込み、ようやく見つけた二人掛けに座る。
ストレートの髪を下ろして膝丈のスカート姿の咲は、いつもより女性らしく見える。横に座った時、爽やかな甘い香りがフワリとたちこめた。作ってきてくれたという紙袋の朝食を開けると、バケットのサンドウィッチと使い捨てのカップにカフェオレが入っていた。
「凄い。ありがとう、咲ちゃん」
ガラス窓を伝う細い雨粒を横目に、芙美はサンドウィッチをぼんやりとかじる。レモン風味のアボカドに、少し炙ったハムのスッキリした味が「ほら起きて」と主張してくる。昨夜は、遠足前の小学生かとメグに言われてしまうくらい、なかなか寝付くことができなかったのだ。
修司の言葉に、弘人、薫と、次々と蘇る記憶が、この数日ずっと芙美の頭を支配していた。皆の気持ちは大体わかったつもりで、その上で自分の意思も変わらない。
ただ、仲間はもう一人いる。
「咲ちゃんは、私が魔法使いに戻ったら、どう思う?」
ストレートに聞いてみる。咲に聞くことへの不安はあまりなかった。彼女はきっと嘘はつかないし、たとえ自分と意見が合わなくても、棘のある物言いはしないはずだ。
咲は飲んでいたコーヒーを置いて、身体ごと半分芙美に向いた。
「誰かに何か言われた?」
「――うん」
手に持っていたサンドウィッチをカフェオレに変えて、芙美は少しずつ口に運びながら先日の話をした。驚かれるかと思ったが、咲は大きなリアクションも見せずに聞き終えたところで「そっかぁ」とため息を漏らす。
「みんな芙美が大好きなんだね」
意外な言葉に、芙美が面食らった顔で唇をきゅっと噛みしめると、咲は「うんうん」と頷き、にんまりと笑う。
「だって、みんながアンタの幸せを考えてる。それぞれ方向が違うから良い悪いに聞こえちゃうだけだよ。もうね、みんなの方向は同じ角度には変えられないんだ。だから、自分の答えを出した後に後悔しちゃだめだよ」
「戦うことに、なっても?」
申し訳ないけどね、と言わんばかりに咲は「そう」と赤いフレームの上に飛び出た細い眉をハの字に寄せた。
「難しいね」
芙美の正直な答えだ。少し喉が渇いてカフェオレを流し、パンをかじった。
「それより、そんなことになってたのか、あの二人は。……まぁでもね、最近になって薄々だけど、気付いてたよ。きちんと説明された訳じゃないけど。確かに類も同じだったよね」
「そうなんだ」
「たまに二人には会うこともあったし、戦闘になったこともあるけど、確かに弘人は戦ってなかったね。薫は強いし、私も出しゃばってばかりだから、弘人の事なんか気にもしてなかったよ、全く。男どもはだらしがないね」
咲はサンドウィッチを食べ終え、入っていた袋をくるくる畳むと、「ごちそうさま」と手を合わせる。芙美は後れを取ってしまった気がして、「ゆっくりでいいよ」という彼女の言葉も聞かずに急いで残りを頬張った。
「また作ってあげるからね」
満足そうに微笑む咲。コーヒーのカップを手に、薄く目を細めた。
「私はね、魔翔と戦うことがそんなに嫌いじゃないんだよ。だからもし、五人の仲間の中で戦わなくちゃいけなくなったら、芙美や修司につくよ。弘人には悪いけど、私も大魔女を殺して災いを起こしたくはないからね。」
「咲ちゃん……ありがとう」
芙美は思わず咲の右手を両手で握り締めた。コーヒーを持っていた手が自分のより熱く感じた。彼女が自分の側にいるだけで、百人力な気がしてしまう。
「大袈裟だよ。ねぇ芙美、魔法使いになった日のことは覚えてる? 確かにあそこに大魔女が居た筈なのに、顔とか全然覚えてなくってさ」
「うん――そうなんだよね。覚えてることって言ったら、黒い服着てたって事くらいだよ」
時間のせいか、はたまた大魔女がそうさせているのか、彼女の容姿に関する記憶がぽんと頭から抜け落ちているのだ。思い出そうとして作り上げたイメージが、黒い衣装と絵本か何かの影響で、大きい甕の中をかき混ぜている老婆の姿で固定されてしまい、もはやそこから抜け出すことができなくなっていた。
「でも行方知らずで恨みもあるけど、怖いとか怪しかった記憶はないんだよな」
「うん。魔法使いになれて、本当に楽しかったよね。私は今も騙されたとは思ってないよ」
不安など感じたこともなかった。戦うこと、強くなることに貪欲で、どんどん力を付けた。あの頃はそれでいいと思っていた。
咲は「楽しかったね」と同意して、間を置くように窓の外へ顔を向けた。
「変わったのは町子と類が死んでからだよ。力に比例して、魔翔がやたら強くなることに気付いた。これが更に大きくなって、大魔女みたいな事態になっちゃうのかね」
「強くなりすぎて、大魔女は私たちに力を分け与えたんだもんね」
「そうそう。あの人は一人で戦ってたんだもんね――辛いよな。この力はどんな強い魔翔を倒したって、仲間以外は誰も褒めてくれないからね」
魔法使い以外に魔翔は見えない。たとえ死んでも町子や類のように不審死か事故扱いだ。
「だからさ」とにっこり笑んで、咲は声を弾ませた。
「他の人には見えないし、失敗したって責められないんだから、好きにすればいいと思う」
人差し指を立てて、彼女なりの提案だ。
「戦うことも、恋愛も、遠慮しろなんて言わない。何が何でも弘人が好きで、あんなオッサンでも取り戻したいって言うなら、全力で薫から奪い返せばいいと思うよ」
「それは……そこまでは」
あんな姿を見せられて、彼の意見を聞いても尚、諦めきれていない自分と、名古屋に行こうとする自分が葛藤している。しかしここから引き返す選択を選ぶつもりはない。
「例え戦うことになっても。私はみんなが納得した結果を迎えられるのがいいと思う」
「もぉ、優等生の答えだね。そんな難しく考えない方がいいよ。アンタまで魔翔に取り込まれちゃうよ? もっと肩の力抜いて。ね? じゃあ芙美はまず、杖を取り戻すって決めたんだから、そこから一つずついこうか」
呆れたように手をひらひらさせる咲に、芙美はぐっと米神を抑えた。まだ何もできていないのに、頭がどんどん先へ行こうとする。
落ち着け落ち着けと繰り返して、大きく息を吐き出した。
乗り換えの東京でザッと強まった雨も、名古屋に着いた時にはすっかり上がっていて、眩しいくらいに強い日差しが雲もまばらな真っ青な空から二人を迎えた。
東北暮らしが慣れてきて、構内の人の多さに眩暈を覚える。あっちへこっちへと流れる人の波は、ついこの間まで日常的なものだったのに、自然にそこへ入っていくことができず、芙美は壁沿いを歩いて出口を目指した。
芙美の実家である有村グループの、東京に次ぐ第二の拠点である名古屋は、流石と言わせんばかりにその名を刻んだ看板があちこちに目立った。咲が「やっぱりすごいトコに生まれたよね」と感嘆の声を漏らし、芙美は「……うん」と頬を赤らめた。
そして、咲の声もやっと届くほどのざわめいた人ゴミの中で、彼の声が一本の線を辿るように真っすぐ耳に飛び込んでくる。
「芙美」
よく通る耳慣れた声に、芙美はハッと顔を起こしその方向を探すと、人の波からポンと飛び出た高い位置に彼の顔を見つけて大きく手を振った。
人が集中する金時計のすぐ横。よくこちらを見つけたなと感心してしまう。
彼がここにいるなんて聞いてはいないが、居るかもしれないと心のどこかで思っていた。振り返された手に引き寄せられるように芙美は咲の手を取って走り出す。
「芙美? どうしたの?」
身体を斜めに傾けて、咲は芙美のスピードを追い掛ける。突然の行動に慌てる彼女に、芙美は「お父さんなの」と説明して、進行方向の先で手を上げる和弘を視線で促した。
目の前で急ブレーキをかけた芙美を、和弘は笑顔で飛びつくように抱き寄せた。
「芙美、お帰りぃ」
「こんなトコで恥ずかしいよ、お父さん」
ふわりと香る空の匂いは、都子お気に入りの柔軟剤の香りだ。
ぐうっと身体を引き剥がして、芙美は「もぉ」と怒って見せるが、和弘は「はは」と笑うばかりだ。背が高く、短い黒髪に二重のはっきりした瞳。かつては都子と同じ金髪のヤンキーだった彼も、今はその片鱗すら匂わせない完璧な有村グループの重役で、芙美の大好きな『お父さん』だ。濃いグレーのスーツに都子お気に入りの、青いペイズリー柄のネクタイ姿。少し大きめのボストンバッグは、彼の出張のお供だ。出張が入っていることは聞いていて、今回は会えないだろうと思っていた。
「このまま出張?」
「あぁ。時間があったから待ってたんだ。一目会いたかったからな」
きっちりとポニーテールに結ばれた芙美の頭頂部をぐりぐりと撫で、和弘は後ろの咲に気付くと軽く眉を上げた。女の子だからホッとしたというよりは、少し驚いた表情だ。
「お父さん、友達の粟津咲さんです」
「初めまして。芙美の父です。いつもお世話になってます」
改まって頭を下げる和弘を、咲はボーッと見つめていたが、ハッとして「はっ、はいっ」と我に返った。芙美に身体を寄せて、こっそり「イケメンだね」と耳打ちする。
「友達っていうから、ルームメイトの子かと思ってたけど、お姉さんなら安心だな。これからもよろしく頼みます」
「こちらこそ、楽しませてもらってます」
和弘と都子は、咲や弘人たちと年齢がほとんど変わりない。町子も生きていたらこのぐらいなのだと思うと、不思議な感じがする。
「咲ちゃんは、喫茶店のお姉さんなの。チーズケーキが美味しいんだよ」
「そりゃ、お父さんも食べてみたいな。あっ、もう行かないといけないから」
腕時計を確認し、和弘は「送ってやれなくてごめんな」と謝って、もう一回強引に芙美を抱きしめてから、颯爽と人の流れの奥へ吸い込まれて行ってしまった。
「お父さん、飛行機一本ずらして貴女に会いに行ったのよ」
実家に着いて都子がふふっと笑いながら、そんな話をしてくれた。「もう、ギリギリだったんだから」とご機嫌だ。
駅からバスに乗って十分ほどで、芙美の実家のマンションに着いた。コンシェルジュのいる高級マンション。白で纏められた無機質なロビーを抜け、十階までエレベーターで昇ると、一番奥の扉が鍵を出すタイミングで開かれた。
「一目見ないと北海道出張なんて無理だ、って。結局今日までずっと心配してたんだから」
男子を連れてこなくて本当に良かった、と芙美は安堵する。
リビングの横にある和室に通されて荷物を置くと、都子は広げてあった新聞を畳み、スタンバイしていたお茶を淹れてくれた。彼女の好きな近所の和菓子店の羊羹を組み合わせた、都子の定番おもてなしセットだ。小豆餡と抹茶餡を取り分けて、「どうぞ」と勧める。
都子と咲が挨拶程度の自己紹介を交わすと、芙美は一口だけお茶を飲んで、正座した膝の上に両手をぎゅっと握りしめた。
芙美が高校に入ってからまだ二カ月経っていない家は、カレンダーの柄が変わった程度で引っ越した時のままだ。住み慣れた家は本来ならのんびりできるはずなのに、気が張り詰めているせいで、普段濃い目に淹れる都子のお茶の味でさえ良くわからなかった。
「和弘さんは高校生活を何だと思ってるのかしら。そりゃお勉強は大事だけれど、好きな人に夢中になることだって大事なのにね」
和弘の過保護っぷりには、都子も手を焼いている。昔から芙美を溺愛している所があり、これでも最近は落ち着いた方なのだ。
芙美は杖の話をいつ切り出そうかとタイミングを見ていたが、「でもね」と表情を陰らせ先に話し出したのは都子のほうだった。
「和弘さんも色々あって、心配しているのよ――だからある程度は目を瞑ってあげて」
真っすぐ向けられた都子の視線に、芙美は息をのんだ。今回ここに来ることは告げてあったが、杖の話や町子の話は何もしていなかった。だから、彼女が先にその話を口にするとは思っていなかったのだ。
「ダムの話をしにきたんでしょ?」
まさか、という気持ちだけで頭が真っ白になる。咲は何も言わず横で目を丸くしていた。
ダムと聞いて、思い浮かぶのは一つだ。芙美もその話をするためにここに来た。
都子はきつく閉じた瞳を開いて、ややうつむきがちにあの日の話を語り始める。
「間違っていたら、ごめんなさい。あれは、私がまだ若くて、今の貴女くらいの頃よ。まだ東京に住んでて、和弘さんと付き合ってて、二人とも金色の髪だった」
芙美を授かったことをきっかけに、黒髪にして過去をアルバムに封印した和弘と都子。何度も聞いた思い出話にダムという言葉が入ったことはない。
「私がね、雪が見たいってわがまま言って、バイクで連れて行ってもらったの。でも、和弘さんってびっくりするくらい方向音痴でしょ? スキー場がある山の方に行きたかったのに、正反対の方向に行っちゃって。それでも雪があったから結果オーライだったんだけど。人気のない山道を走ってたら――ダムに出たの」
町子の記憶と一致する。全身がガクガクと震え出すのを必死に堪えようとするが、抑え込むことができず、咲へ伸ばした手で掌をぎゅっと握りしめた。振り向いた咲は声を出さずに「うん」と頷いて、もう一つの手をその上に重ねる。
「道路が凍結してて、バイクを降りたの。和弘さんがバイクを押しながら二人で歩いて。そしたらダムの坂を下りた向こうに、人影を見つけて」
「…………」
「何かおかしいって、すぐわかった。遠目に見ても人だって分かるのに全然動かないし、血液の色が見えたから」
「お母さん――」
息が詰まりそうになって芙美は反射的に声を出すが、何を話すことも、自分から名乗り出ることもできず、衝動で前に出た身体を引いて、うつむきがちに視線を反らした。
都子は、はあっと息を吐き出して、両手で自分の頬を抑えた。
「ごめんね。ちゃんと話さなきゃね。雪の中、和弘さんに止められたのを振り切って、がむしゃらに走って行ったら、女の子が倒れていたの。白くて可愛いフリフリの服を着ているのに、全身が血だらけだった。何があったのかはいまだに分からないけど、私が行った時には、まだ息があったのよ。でも――助けてあげることは出来なかった」
――「死ぬな」
今でもはっきり覚えている声。
あれは都子の声だった。彼女の口から焦った時に飛び出す、金髪時代の激しい言葉遣い。
涙が溢れる。ずっと一緒に暮らして来たのに、気付くことができなかった。
咲に差し出されたハンカチで目を覆って、こみ上げる嗚咽を肩へ逃す。
「あの日のことがあるから、和弘さんは貴女が心配なのよ。その子の歳に貴女が近付いてきて、重ねちゃうのね。でも、和弘さんはそれ以上のことに気付いてないわ。ねぇ――芙美、小さい時貴女は、いつも自分が魔法使いだって言ってた。自分は自分じゃない、って。もしかして、それは――」
気付いている。都子の推測は正しい。芙美は強く瞼をこすり、赤くなった目を起こして「そうだよ」と頷くと、都子は「やっぱり」と穏やかに笑った。
「でも、私は有村芙美だよ? お母さんの子供だから」
「そんなの、私が一番よく知ってるわよ。貴女の事は、ずっとそうじゃないかって思ってた。こんなことってあるのね。あんな風に死んでしまったあの子のことが、ずっと気になってた。もう少し早く気付けたら、助けられたのかもしれないのにって思ってたから――今こうして貴女が笑ってくれて、本当に嬉しいよ」
「お母さん――ありがとう」
びしょびしょになった目を拭いて、芙美は咲から手を放し、彼女の言葉に笑顔で答えた。
都子は咲へと視線を移し、
「貴女はあの子の友達だったの?」
「そうです。でも今は、芙美ちゃんの友達です」
「そっか。私ってば、もう、超能力少女みたいね」
自慢げに微笑む都子に、芙美は驚きを通して感心してしまう。
「娘があの高校へ行きたいって言ったとき、ずっとそうじゃないかって思ってたことが確信に変わったの。咲さん、これからも仲良くしてあげてね」
「もちろんです」と強く返事して、咲は「それと……」と言い難そうに切り出した。
「事件のあった日、他にダムで見た人はいますか?」
「他に? いないわ。あの後近くで男の子の遺体も発見されたでしょ? 警察にも聞かれたけど、私たちはあの女の子以外誰にも会ってないのよ」
「そう――ですか」
類は大魔女に会うために、あのダムに行った。けれど結局、誰も彼女に会うことができなかったのかと思うと、あの日の死が全部無駄だった気がして、芙美はうなだれてため息を零すが、都子は「それより」と立ち上がると、リビングへ退室してすぐに戻ってきた。軽い鼻歌混じりに、後ろ手に何かを隠し、意味深な笑みを浮かべている。
「芙美、今日の目的は違うんじゃないの?」
「えっ。何? 目的って……えええっ?」
芙美は咲と目を合わせ、息をのんだ。まさかこんなにすんなりと魔法の杖が出てくるものではないだろうと半信半疑になりつつ、期待が突然高まった。
「咲ちゃん、そんなわけ、ないよね?」
「そんなに人生うまくはいかないと思う」
そんな会話をする二人を前に、都子は「じゃじゃあああん」と効果音を口で奏でながら、二人の前に手を差し出した。
「出ましたぁ! 魔法使いの杖ぇ!!」
「それぇぇえええっ!!」
彼女の手にしっかりと握りしめられた木の棒に、二人は叫び声をあげて立ち上がった。
間違いない。それを探してここまで来たのだ。正真正銘、町子の杖だ。
「な、なんでっ? お母さん!」
ここに来て杖の情報が聞ければ、いよいよ辿り着けそうな期待はあったが、こんなにあっさりと現物が出てくるとは思っていなかった。
激しく動揺してしまう。芙美は身体を震わせながら腫れ物に触るかのように自分の手を杖へ差し出したが、しかし都子は一旦それを自分の胸元に引き戻した。笑顔だったはずなのに、何故か不安と戸惑いの色が滲んでいる。
「本当に、魔法の杖なの? これ……冗談じゃなくて?」
「ダムで死んだ佐倉町子が使っていた魔法使いの杖です。私たちはこれを探していました」
咲が説明すると、都子は唇を小さく噛んで杖を握りしめた。
「この棒は、あの女の子が最後にずっと握っていたのよ。救急隊に運ばれた時に落としたから返そうと思ったんだけど、傍から見たら木の棒でしょ? 警察の人には取り持ってもらえなくて。ずっと持っていたのよ。最初はこれが何だとか全然気にしてなかったんだけど、小さい貴女から『魔法使い』って言葉を聞いて、何か納得しちゃってね」
「そうだったんだ……」
「でも、これを貴女に渡すと、あの子と同じようになってしまう気がして、目につかない場所にしまっておいたの。これを持ったら、貴女も戦うんでしょう? 私には貴女がそんな目に遭うのは辛いのよ。今は私の娘なんだから」
戦わない、絶対に死なないと約束することはできないが、弘人や薫にも止められてまでもここに来た覚悟は変わらない。芙美は都子に頭を下げた。
「ごめんなさい、お母さん。私、強くなるから。それを持って戦わなきゃいけないの」
「――そんなに強くなったら、男の子に嫌われちゃうわよ?」
苦笑して、都子は一瞬躊躇するが、
「貴女は有村芙美なんだから、ちゃんとまたここに帰ってきて、元気な顔見せて。あの時と同じ思いはさせないでね」
都子の目が潤んでいた。そっと渡された杖を受け取ろうとした時、一瞬弘人の顔が頭に浮かんだが、「ごめんね」と声を出さずに謝罪して、芙美はしっかりとそれを掴んだ。待ち焦がれた感触を手で何度も確認する。
「ありがとうございます。私も全力で守るので」
咲が横で頭を下げると、都子は「いいえ」と首を横に振った。
「私には貴女たちがどんな経緯で一緒にいるかはわからないけど、仲間なら貴女も自分を大事にして。二人とも死んじゃ駄目よ」
「はいっ」と腰を垂直に曲げて、咲がもう一度「ありがとうございます」と礼を言った時、そのタイミングを待ち構えていたかのように、奴の声が頭上を走った。
キィキィ。
来た――と。全身が騒いで、芙美は片手を耳に添える。奴等の声に少しだけ頭が痛んだ。
まだ姿は見えないが、部屋のどこかに居るという気配はびんびんに伝わってくる。
突然表情を強張らせる二人に、都子は「え?」と眉をしかめた。
「二人とも、どうかした?」
「お母さん――」
一瞬、都子の存在を忘れていた。芙美は彼女へと駆け寄り、腕を掴む。
「家の外に出て待ってて。敵が、居るの」
「敵? ここに?」
周りを見回して取り乱す都子に、咲がすかさず「大丈夫です」と声を投げた。
「ここで待ってて下さい」
そう伝えて、咲は取り出した杖で魔法陣を描く。
「そうか、異次元! お母さん、すぐ戻るから心配しないで」
「えっ? 芙美……」
音が遠のいて、見慣れた和室が床からみるみると白に飲み込まれていく。目の前にいる都子の不安気な表情もまた空間から分離して消えてしまった。
白にすっぽり包まれた、咲の作る別次元。魔翔はまだ見えない。
「芙美、落ち着いて。今日は見てるだけでいいよ。ブランクがあるんだから、徐々に慣れればいいんだよ」
久しぶりの戦闘を前に、緊張しているのが自分でもよく分かった。今までは見えるだけだった魔翔も、芙美を敵だと認識する。咲と比べて弱い自分は、奴等の格好のターゲットだろう。杖を握った手が汗ばんで、息が荒くなる。
ボンと音がして現れたのは、尾が長く大きな鳥型の魔翔だった。少し離れた位置に浮かび、羽を広げて威嚇する姿は、二人を包み込んでしまいそうな程大きく感じられた。
「私が行く!」
奴は初対面じゃない。敵を前にして芙美は気張るが、「キィ」という声に足がすくんでしまう。けれど杖を回そうとした咲を止め、震える手で杖を握りしめ、前へ出た。
「油断しちゃダメだよ。でも、思いっきり行きな」
「うん。昔戦ったことがある魔翔だから、これは私に沸いてるんだよね。だから、私にも戦える。弱点は――光だ」
手を前に突き出し、杖の先端をぐるぐると何度も回した。流れ出る赤い文字。魔法陣が幾重にも重なり、芙美はその中心に魔翔を捕らえると、気合を込めて高く叫んだ。
「いけぇ」
声を合図に赤い光が魔翔目掛けて放射する。羽ばたいて逃れようとする魔翔の動きが一歩遅かった。全身で光を受け、悲痛な声を何度も叫んだ。
「やるね、芙美」
親指を立てて称賛する咲。
魔翔は立ち上るように高く舞い上がり、呻くような断末魔を残して消えて行った。
「できた……」
ふにゃりと力が抜けて芙美はぺたりと地面に崩れた。ずっと震えていた手が止んでいる。
「お疲れさま」と咲に肩を叩かれ「ありがとう」と答える。魔翔に対する恐怖もいつの間にか消え、戦えるという自信に変わっていた。
「じゃあ、戻るよ」
咲はそう言うと、空間を解いた。白い壁が解け落ちるように足元へ下がり、現れた和室に都子がいた。深い安堵の表情で駆け寄り、芙美をぎゅうっと抱きしめる。
「無事で良かった――」
「大丈夫だよ、一撃だったんだから!」
安心して、と言い掛けて、触れた頬の涙に気付いた。
それ以上何も言えずに、「うん」とだけ頷いて、芙美は都子の背中にそっと手を回した。
夕方、弟のトオルが帰宅して、久しぶりの実家での団らん。和弘はいなかったが、芙美は改めてこの家が好きだと実感する。
外は真夏のように暑かったが、クーラーをきかせて汗をかきながら食べた味噌煮込みうどんの味は、芙美にとって母の味だった。昼間の戦闘も、魔法使いのことも、何事もなかったかのように話題に上ることはなかった。
そして、あっという間に時間が過ぎて、翌日の帰宅時間を迎える。
「気を付けてね」
別れ際も都子は魔法の事には触れなかった。隣にトオルが居たせいだろうか。背が高くて大きく見える彼女が、いつもより小さく見えた。
「お母さん――夏にまた帰ってくるね」
「楽しみにしてる」とそう笑顔で手を振ってくれた都子に、芙美は少しだけ後ろめたさを感じながら、後ろ髪を引かれる想いで背を向けた。
魔法使いに戻ることを後悔なんてしていない。
していない――のに。
名古屋にいる間ずっと晴れていた空が、東北に入った途端、出発時と同じどんよりとした雨模様に変わってしまった。駅に着いて新幹線を降りると、薄いカーディガンの温もりが少々頼りなく感じてしまう。
寮まで送ってくれるという咲に甘えて一緒に改札を潜ると、送迎でごった返す人々の中に二人を待ち構えた修司が立っていた。見送りに来なかった彼には、帰宅時間も伝えてはいなかったのに。
「待っててくれたの?」
問いかけには答えず、「お帰り」と言った修司の顔には疲労の色が浮かんでいる。
「うん、ただいま」
いつものニヒルで不愛想な彼とは少し違って見えて、芙美が様子を伺おうと首を傾げると、咲が「何かあったのかい?」と切り出す。
すぐに返事は返ってこなかった。戸惑うように口を開くが、すぐに唇を結んでしまう。
「修司? 何かあったの?」
芙美が尋ねてようやく修司はかすれたような声を漏らした。
「大魔女が、いたんだ」
日曜の慌ただしい構内に、沈黙が起きた――少なくとも芙美と咲にはそう感じられた。
「――え?」
思わず漏れた芙美と咲の声がぴったりと重なって、徐々に、駅の音が耳に戻ってくる。
「どういうことだい?」
「あ――悪ぃ。とりあえず移動しないか?」
辺りの人の多さに気まずい表情を浮かべ、修司は「貸して」と二人分のボストンバッグを受け取ると、先を急いで出口へと歩き出した。
「ちょっと、修司!」
咲が駆け寄って、彼の腕を鷲掴みにする。
「大魔女が居た、って、会ったってこと?」
振り返る修司の表情は苛立ちさえ見える。芙美も速足で追いついて、返事を待った。
大魔女の存在など、もう現実的でない気がしていた。大魔女が出てこない限り、弘人と戦うこともないだろうとポジティブに考えていたのに、修司の言葉が「そんなに現実は甘くない」と訴えてくる。
「夢を見て思い出した。全部だ。咲、お前は見てないのか?」
咲と芙美が顔を見合わせる。
「夢――? そうだねぇ。昨日何か夢は見た気がするけど、内容まで覚えてないよ」
首を捻る咲。芙美も思い出そうとはしてみるものの、夢を見たかどうかさえ曖昧だ。
修司は「そうか」と呟いて、
「俺の夢がただの妄想だって可能性考えて、お前が思い出せば合致するんだろうけどな」
「私だって、ここんとこ昔のことを思い出そうとはしてるんだよ。でも、誰も思い出せなかったってことは、記憶操作をされているのかもしれないんじゃないかい?」
「そして、今になって戻してきたってことだよな」
「何考えてるんだろうね。でも、どんなだったかな。夢を見たことすら曖昧になるね」
咲は額に手を当てて、とぼとぼと歩き出す。
芙美にも全く思い出すことはできなかった。過去の記憶まで遡ってみるが、杖をもらった日のことは思い出せるのに、肝心の大魔女の顔は思い出せない。
――「魔法使いにしてあげようか」
懐かしい言葉だ。そういえば、ずっと大魔女を老婆だと思い込んできたが、そんな年老いた声ではなかった気がする。
「うーん」と唸りながら運転する咲の後ろで、芙美はそんなことを思っていた。
雨の勢いが弱くなってきて、蒸し暑くなった車内に咲が「暑い」と一言吐いて、エアコンを入れてくれた。芙美になって初めて咲に送ってもらった日の音楽がかけられている。町子の好きだった曲で、薫がセレクトしてくれたものだ。
修司はずっと黙っていた。ニヒルな彼を象徴するツンとした表情で、芙美の隣で腕を組み、その視線はフロントガラスの向こうを睨んでいる。いつもより少し声を掛け辛いと思いながらも、芙美は様子を伺いながら、
「修司は大魔女に会ったことあるの?」
と、聞いてみる。寮まであと少しの所だ。「そうだね、どうなんだい?」と信号で咲が素早く振り返った。
「――あぁ……」と曖昧な返事が返ってきて、咲は不満そうに青信号で車を動かした。
寮の建物が見えてきて、雨の降り注ぐ軒下に仁王立ちで構える一人の姿があった。
「あ、ミナさんだ」
定番の白いTシャツに、短いパンツ姿。相変わらずの放漫ボディだ。
「あれ」と声を漏らした咲に、修司が視線を向けた。駐車場の少し手前。咲が路上の端でブレーキを踏んだ。視線が軒下の彼女に釘打たれている。
「ねぇ修司。私はここで初めて会った時から、思い出していたのかもしれないよ」
咲の声が小さく震える。
「やっぱり、そうだろ」
二人の会話が誰を示すものなのかすぐにわかって、芙美は驚愕する。
「何で、忘れてたんだろうね。こんなにハッキリ思い出せるなんて」
寮の敷地へ少しだけ車を移動させて、咲はエンジンを切った。
「傘は後ろに積んであるよ」
そう伝えた本人は、傘もささずに雨の中を駆けていく。次に下りた修司が傘を下ろそうとするのを「平気だよ」と遠慮して、芙美は水溜りを避けながら軒下へ走った。
三人を前にして、ミナは「おかえりなさい」と笑顔で迎える。
咲はまじまじと彼女の顔を見つめて、大きく頷いた。
「そうだよ、アンタだよね」
返事の代わりに微笑むミナ。修司はその前に出て、眉をひそめる。
「ずっと知ってて、俺たちを見てたのか」
二人がそんな言葉を投げる相手がミナであることが、芙美には不思議でたまらなかった。記憶が戻らない芙美にとって、彼女は寮母のミナでしかない。
ミナは吸収するように二人の言葉を受け止めて、「そうね」と呟いた。
「本当はまだ隠してるつもりだったんだけど、こんなに早く芙美が復活するなんてね」
うっすらと笑んだ瞳を険しくさせて、ミナは三人を見渡し、
「空気の流れが良くないの。とりあえず話は長くなりそうだから中に入った方がいいわね」
と、戸口へ身体を向けてしまう。
芙美は他の二人と視線で合図し合って、小さく頷いた。ごくりと飲んだ息を苦しく感じる。濡れた髪から水が滴るのを手の甲で拭うと、咲がハンカチを差し出してくれた。
「ありがとう」
「いいんだよ。それより大魔女、一つ聞いてもいいかい? アンタは今何歳なんだ。私たちが魔法使いになったのは、もう十六年も前の事なのに、今の姿は私より幼く見える。人間じゃないのかい?」
「人間じゃない、ってのは語弊があるけど。貴女の言っている人間の定義からは離れていると思うわ」
三人に背を向けたまま、ミナはそう返事すると、「長生きしてるのよ」と加えて、扉の向こうへ入って行った。
荷物を咲の車に積んだまま三人は寮の中に入り、一階の奥にあるミナの部屋へ入った。
日曜日の浅風寮は、雨のせいか人の気配を多く感じる。昼食時を過ぎたばかりのカレーの匂いが漂う中、上階の賑やかさが下まで届いていた。部屋に入ってそれは若干遠のいたが、時折響く足音が、ここは寮の中だよと主張してきた。
初めて入る寮母の部屋は、芙美の部屋とは間取りが大分違っていた。シャワールームの付いた、二間続きの広い部屋だ。ソファの置かれたリビングと、奥の部屋にはベッドが見える。家具の一つ一つが新しいものではなく、落ち着いた木目で纏められていた。
「前の寮母さんが使っていたものを、そのまま使っているのよ」
物珍しそうな顔で部屋を見渡す芙美にミナは説明して、「風邪ひくと大変よ」と籐の引き出しから取り出したタオルを三人に渡し、ソファを勧めた。
咲は頭からタオルを掛けてソファに座ると、うつむいたままボソリと口を開いた。
「そうやって優しくされても困るよ。私は魔法使いになったことを後悔してるわけじゃないから、アンタに恨みはない。けど、どうして今まで記憶を消してたのに、このタイミングで戻したのかを知りたい。アンタは説明が少なすぎるよ」
三人が並ぶソファの向かいに腰を下ろして、ミナは「そうよね」と呟き、掌を軽く組んだ。三人に視線を送り、最後にテーブルに視線を落としたままその話をする。
「記憶を消したのは、貴方たち五人が魔法使いになったら、私なんていらないからよ。私にはもう戦う力が殆どないわ。だから、一緒に戦えるわけじゃないし。私を必要とする時なんて、貴方たちが魔法を放棄したいと思うときじゃないかしら」
「それだけじゃないよ。もっと教えて欲しいことは色々あった。アンタは私たちを魔法使いにして、あとは勝手にしろって捨てたようなものじゃないのかい?」
「そう取られても仕方がないわね。確かにそうよ。私自身、類や今の弘人と一緒。自分の運命を呪って、魔法から逃げたかったから」
ミナは身体を起こし、静かに頭を下げた。修司が強く唇を噛んで、苛立った声を上げる。
「だったら、大魔女が死ぬと災いが起きるっていうのは本当なのか? 自分に力がないから、死を警戒して記憶を消したのか?」
「魔法使いが自らの死を望むことも含めて、私という切り札を遠ざけたかったのよ。力を失くした私でも、この肉は魔翔にとって格別の味らしいわ。私の肉を食べた魔翔は、他とは比べ物にならない力を得る――人間にも害を及ぼすような、ね。私が死ぬってことは、貴方たちの力もなくなるということ。魔翔を倒す人がいなくなれば、奴等の思う壺よ。人間にとっての災いが起きる」
「じゃあ、町子のしたことは正しかったんだね」
横から覗き込んできた咲に、芙美は「う、うん」と頷いた。本当にミナは大魔女なんだなと思いながらも、まだ実感が沸かなかった。自分も早く思い出さねばと焦ってしまう。
「でもね、修司。あの日私はダムに居なかったのよ。確かにあの近くに隠れていたこともあったんだけど、貴方たちに力を託してからは、魔翔も沸かなくなったから山を下りたの」
「あの日の類の衝動は、無駄だったってことか」
「そんなに自分を悲観しないで。力を持っていれば誰にでも起こりうることよ。私は力がない分、感覚だけ敏感になっちゃってね。ここで働くようになったのは本当に偶然だったのよ。まさか転生した貴方達が来るとは思わなかった。それでね、考えたの。類や町子の悲劇をまた生まないためにも、私はもう逃げちゃ駄目だって。それで記憶を戻したのよ」
「そういえば……覚えてるよ、確か」
咲がハッと顔を起こした。開いた口が何か言いたげに動いて、もう一度「そうだよ」とミナに告げた。
「アンタは言ったんだ。私たちに、強くなるな、って」
「そうね」とミナは薄く笑む。
「貴方たちと魔翔がお互いに強くならないように。覚えててくれたのね」
そうだったんだ、と芙美は眉をひそめる。そんな言葉すら覚えていない。
横目に見る修司は、じっとミナを見つめていた。彼は記憶が戻っている。同じ転生したもの同志なのに、と羨ましく思ってしまう。
ミナは立ち上がると、一人で奥の部屋に行ってしまった。視界から消えると、冷蔵庫の開閉音がして、缶ジュースを四本抱えて戻って来た。それらをテーブルの上に配り、再びソファに座る。ミナは自分の分の栓を開けて、ごくごくと一気に半分ほど飲み込んだ。
さぁ行きますよと言わんばかりに改まり、ミナは背筋を伸ばして膝に手をのせた。
「前の五人の話をしましょうか」
そう切り出した彼女が語りだしたのは、町子や類が魔法を得る前に、大魔女によって魔法使いになった、過去の五人の話だった。
力が大きくなりすぎて、大魔女は五人の人間に力を分け与えた。
町子や咲が生まれる十数年前のことだから、そう昔の話ではない。
「あんなに短期間で強くなるとは思っていなかったのよ」
強い力を持っていた大魔女。ずっと一人で戦ってきたせいか、五人もそうあるべきだと思っていた――だから、
「魔法使いとしての使命感を持って強くなってほしい」
そう伝えた。まさか、それが彼等の運命を決める言葉になるとは思っていなかった。
「前の五人は弘人や類と同じ。戦うことに疲弊してしまったの。沸き続ける魔翔はどんどん強くなるのよ」
結果、五人は魔翔と戦って死ぬことさえ望んでしまった。
「彼等は自分たちが死ねばそれで終わりだと思ったのね。死んだら魔法から解放されるって。それで一度、五人全員が自害してしまったの。でも実際はそうじゃない。記憶も魔法も残っていて――彼らは絶望したのよ」
魔翔と戦って死を迎えても、それで終わることはできない。類が修司になったように。
魔法使いが力を放棄できる方法は二つある。一つは大魔女が死ぬこと。しかしそれはこの世の災いの引き金になるから、何の解決にもならない。選択肢は実質一択だ。
「五人は私が殺したの」
芙美はテーブルに置かれたジュースの缶をぼんやりと見つめていたが、その言葉で顔を起こした。ミナは缶を握ったまま手の辺りに視線を泳がせて、淡々と話していく。
「あの子たちがそれを望んで、私が答えたの。大魔女――つまり私に殺されると、魂も消滅する。もうそこですべてが消えて、転生もしないってことよ」
「転生、って。普通しないだろ? この二人だって、何も知らずに生き返ったんだよ?」
荒げた声を挟むのは咲だ。
「そんなこと、私たちは全く知らされていなかった。それに、前の五人が苦しみの末に死を望んで、アンタは、はいそうですかって殺したのかい? 何とも思わずに」
「そんなことないわ。私だってあんなことしたくなかった。でも、他に方法がないのよ。戦いが嫌だって言うのに、それでも戦えなんて言えないでしょ?」
視線を上げて、ミナは叫ぶ。
長生きしているという彼女の見た目が二十代なことへの違和感。若くて美人の寮母で、スタイルも抜群のミナは寮生の憧れの的だ。芙美にとっても姉のような存在だったのに。
「私たちを魔法使いにして、同じような最後になるかもっては思わなかったんですか?」
五人の話を初めて聞いた時、死を想像しなかったわけではない。ただ、そうでないことを祈って、考えないようにしていただけだ。自分たちも前の五人と同じ結末を迎えねばならないのかと予感して、芙美の頭によぎったのは、都子の言葉だった。
――「気を付けてね」
その言葉に胸を締め付けられる。
「ほんとだな」
小さく呟く修司。咲は立ち上がりそうになった身体をソファに沈めて、ミナを睨む。
記憶がないせいだろうと思う。芙美にはそれでもまだミナへの怒りは沸いてこなかった。ポケットから杖を出して、両手で膝の上に握りしめ、口を開いた。
「魔翔は私たちが思ってたよりずっと大きくて危険なものだった。でも、力を持つことが危険な事は最初に聞いてたし、強くならないでっても言われてた。なら、一方的には責められないよ。きっかけは大魔女でも、この道を選んだのは私たちだから」
魔法使いになれたことが嬉しくて、誇らしかった。多分みんながそうだったと思う。
「そうだね」と同意してくれた咲の言葉が頼もしかった。
「ここで過去が善いだの悪いだのの議論しても、何のメリットもないね。大魔女――ミナさんだっけ。私も後悔してないよ。修司、アンタはどうだい?」
「俺は後悔なんてしてないぜ。ただ、もっと説明して欲しかったと思う。類が死んだのは、使いこなせなかった俺自身のせいだよ。けど、それも過去の事だから言えるのかもな。弘人たちの意見は違うと思うぜ」
「私が説明してくるよ。あの二人も思い出してるんだろう?」
「えぇ」とミナが答える。あの二人は今のミナに会っていないはずだから、すぐにここへ辿り着くことはできないだろう。けれど、それも時間の問題だ。
「私も行きたい」
もう一度弘人に会って自分から説明したいと思ったが、咲は「駄目だよ」と宥めた。
「もし何かあった時、アンタじゃ薫とまともに戦えない。戦闘の可能性も考えないとね」
「だったら、とりあえずこっちは俺に任せろ」
「そうだね。私はアンタの実力を知らないけど、芙美を守ってあげて。私一人なら、あの二人も少しは冷静でいられるだろ」
足手まといだと言われた気がして、芙美はそれ以上言葉を返すことができなかった。
「みんな、どうしてそんなお人好しなのよ」
「そんなんじゃない。自分で選んだ結果だからだ」
溜息交じりに視線を逸らす修司に、ミナは表情を緩めた。
「それだけ力に自信があるってことなら、有難く受け止めるわ」
「ミナ、今は貴女が死んでしまうことだけは避けないと。何かあったらすぐに連絡するから、ここに居てくれると助かるよ。二人も、弘人たちから連絡があっても勝手に行っちゃ駄目だからね」
「だな」と修司が念を押す。先日のことが響いて、芙美は「はい」と肩をすくめた。
「心強いわね、貴方たちは。前の五人とは違う気がする」
「仲間同士で戦って、死んでなんかいられないんだよ」
咲と連絡先を交換し合うミナを覗き込んで、芙美は「あの」と小さく尋ねた。
「私はまだ記憶を戻してないんです」
自分だけ戻らないのか、待てば徐々に戻るのか。ミナは「あら」と驚いた顔をしたが、
「ごめんなさい。力が戻ったばかりで記憶まで身体が追いついていないのかも」
そう言って立ち上がりテーブルの横に立つと、芙美を手招きした。促されるまま彼女の前に行くと、ミナはそっと芙美の頭に手を乗せた。ふんわりと漂った優しい匂いに懐かしさを感じる。ミナは穏やかな笑顔を見せて、芙美の顔を覗き込んだ。
「後悔してる顔ね。杖を取りに行って、失敗したと思ってる?」
「そんなこと――ないです」
「まぁ、取りに行かなくてもいずれ力は戻るのよ。杖と魂は運命共同体みたいなものだから、必ずあなたの手元に戻ってくるわ」
「そうなんですか!」
杖さえなければ、ずっと力を戻すことはないと思っていた。
「でもね、私が言える立場じゃないけど、自分の未来を自分で決めることは正しいと思う。これからも、自分を信じて。楽な方に流されちゃダメよ?」
決められる未来があるなら、そうしたいと思う。
少しだけ未来を思い描いて目を閉じると、ミナの手に熱を感じた。
そのまま、意識が遠のいて――。
かの有名なノストラダムスの大予言は、大魔女の死が引き起こす災いなのではないかと、本気で語り合ったことがある。けれど、世紀末を当の昔に過ぎてしまった今、結局何もなかったんだなぁと実感する。
普段夢を見ても内容など殆ど覚えていないのに、忘れていた過去の記憶が走馬灯のように流れていった。
――「力を、頼むわよ」
そう、これは町子の記憶だ。大魔女に会って、魔法使いになり、魔翔と戦っていた。
今まですっと抜けていた大魔女の顔が、鮮明に蘇る。暗いローブの下には確かにミナの顔があった。今と殆ど変わりない容姿で十六年前に生きる彼女を、町子は知っていた。
――「私、もっと強くなるよ」
いつかの戦闘の後、町子は笑顔でそんなことを言っていた。あの日のことはよく覚えている。初めて遭遇した鳥型の魔翔に手こずりつつも勝利した時だ。ミナの忠告も聞かずにもっともっと強くなりたいと、本気で思っていた。
けれど、夢に出てきたそのシーンで町子が笑いかけた相手は、そこに居ないはずの都子だった。本来なら、弘人の筈なのに。
――「気を付けてね」
またこのシーンなのか、と。名古屋から帰ってきて幾度と思い出す母親の言葉に、芙美はハッと目を覚ました。
「あっ、おはよう」
オレンジ色に灯された部屋の風景が視界に飛び込んできて、同時にメグの声が聞こえた。
ベッドの中。横に置いた自分の腕は、見覚えのあるカーディガンを着ている。服のまま眠りについた記憶はないが。
「おはよう、じゃなくて、こんばんはだね。気分はどう?」
言われるままに確認するが、特に不調は感じられない。ただ頭がぼんやりして状況が飲み込めないのと、起き上がると米神の辺りが少しだけ痛んだ。
「大したことないけど、私、寝てたの?」
カーテンが閉められているが、今が朝でないことは分かる。時計を見ると、夜の八時を回ったところだ。メグは私服姿で自分のベッドに座り、
「覚えてないの? 気分が悪くなって倒れたって聞いたよ。びっくりしたんだから」
全く覚えのない話だ。特に吐き気がするというわけでもない。けれど、部屋の隅に置かれたボストンバッグを見つけて、芙美は「あぁ」と我に返った。
「そうか――私、名古屋に行ってたんだよね」
ようやく頭がスッキリする。咲と修司と一緒にミナの部屋で話を聞いた。
――「思い出させてあげる」
そう言って彼女が施した魔法は、彼女が大魔女であるということをはっきりと証明してくれた。それより、寮母室に居た筈なのに、三階の自分の部屋にいることを疑問に思って、思わず修司の顔を思い浮かべてしまったが、芙美を移動させたのは意外な人物だった。
「夏樹先生が、お姫様抱っこで運んでくれたんだよ!」
にやりと意味深な笑みを浮かべて、メグが芙美のベッドの端に移動する。
「ええっ、夏樹?」
想定外の名前に声を大きくしてしまった。
「そんな、呼び捨てにしちゃって。みんなの噂、本気にしちゃうよ」
「違うってば。先生はそんなんじゃないの」
修司との二股疑惑が更に広まりそうな話だ。メグは「わかってるよ」と悪戯っぽく笑う。
「修司くんも居たんだよ。でも男子が女子の部屋に行くのは駄目、って。ちょうど寮に来てた先生が運んでくれたの。ねぇ、夏樹先生ってミナさんの事好きなんじゃないかな」
芙美は更に目を丸くする。まさかそんなことがあるのだろうかと思いつつ、見た目の年齢だけなら何ら可笑しい話ではないなと納得してしまう。けれど――大魔女のミナはそんな年齢じゃないはずだし、一般人の夏樹に興味があるとも思えない。
「確かに、美人だし胸も大きいけど――本当?」
「見てて分かるもん。大体、あんなに器量良しのミナさんに恋人がいないってことの方がおかしいし、放っておかれる訳ないよ。あの二人ならお似合いだし、私応援しちゃうよ!」
「応援……か」
ミナに恋人がいない理由、それは彼女が大魔女だからだろう。夏樹には幸せになってほしいと思うが、想いが叶う可能性は低そうだ。複雑な気持ちに芙美が眉をしかめると、
「え? やっぱり芙美ちゃんも先生が好きだった?」
「ないない! それだけはない!」
疑惑を芙美が声を大きくして否定すると、メグは声を弾ませて、「じゃあ、だいじょぶだね」とガッツポーズを決めた。そして、「忘れてた」とテーブルを指差す。
「さっき、ミナさんが芙美ちゃんにどうぞって持ってきてくれたんだよ」
ベッドから降りると軽い眩暈に襲われた。しかしお腹は正直で、甲高い声で訴えてくる。
ミナからの差し入れは、ラップにくるまれた
二つの大きなおにぎりだった。型が少しいびつなのは、もしかしたら彼女が握ってくれたものなのかもしれない。
「何か、恨めないなぁ」
「え? 何?」
思わず出てしまった声に、メグがすかさず反応してきて、芙美は「何でもないよ」と手を振った。そして旅行バッグの中から金色に光る土産を取り出し、メグに渡した。
「これお土産。ごめんね、時間なくて裸のままなの」
「気にしないで。ありがとう。そうだ、まだ言ってなかった――お帰りなさい!」
掌サイズの、金のシャチホコの置物だ。時間が殆どない中、駅で咲が勧めてくれたもので、寮の部屋には少し眩しく感じられる。メグは「可愛いいよ」と窓辺にそれを飾った。
「御両親は元気だった?」
「うん――そうだね」
元気だったと思う。困らせてしまったけれど。
名古屋に行って、念願の杖を手にして笑顔で戻ってくる予定だった。魔法使いに戻って、あの頃のように戦えたらと思っていたのに、心がスッキリせずモヤモヤしている。
ミナは今回でなくてもいずれ魔法使いに戻ると言っていた。だから運命だと受け入れて、戻るのが少し早かっただけだとどこかで自分を納得させている。
メグは「なら良かった」と微笑むが「あのね」と何か言いたげに切り出して、しかし話し難そうに唇を噛む。芙美が「どうしたの?」と覗き込むと、躊躇いがちに口を開いた。
「明日、陸上部の合同練習があるんだけど、相手の学校がね、篠山実業なの」
「篠山? そうなんだ。何かあるの?」
市の中心部にある高校だ。薫の母校で、茶色のセーラー服が新鮮で羨ましかった。
「話したでしょ? 中学の時フラれた人の話。その人が篠山の陸上部なの。四百メートル」
陸上に詳しくないが、聞き覚えのあるワードに芙美は「あれ?」と首を傾げた。
「それって、野村くんと一緒?」
「うん――そうなの。私もびっくりしちゃって」
メグの好きな男子、野村祐と同じ種目だ。
「じゃあ、メグはどっちを応援するの?」
「決まってるじゃない、そんなの」
変なこと言わないでよとメグは頬を膨らませ、テーブルの皿を取り芙美に渡した。
「結構緊張してる。けど、祐くんが好きだから、心配無用だよ」
メグのこんな所を見習わねばと思う。自分も真っすぐに生きているつもりだったのに、彼女と同じだと胸を張ることができない。
――「後悔してる顔だ」
そう言ったミナが用意してくれたおにぎりは、少し塩辛い鮭と胡麻が入っていて、都子の作るそれと同じ味がした。
☆
翌日。前日までの雨も上がり、放課後には校庭のぬかるみもすっかり乾いていた。
魔法使いに戻った最初の登校で、芙美は一つ忘れていたことを思い出した。滅多にないことだが、授業中にふと魔翔が沸いて、修司が威嚇して追い払ったのだ。魔翔は芙美に沸いた小さいものだったが、咲が居ないのでそこで戦うこともできず、放課後再び襲ってきた魔翔を校舎裏の隅で、修司があっという間に倒した。
「ちょっと懐かしいって思っちゃった」
「何呑気なこと言ってんだよ。ほら、祐の応援に行くんだろ?」
杖をズボンのポケットにしまい、修司が校庭へと足を向けた。
陸上部の使っているグラウンドには、既に見慣れない紫色のジャージを着た集団が集まっていた。その中に、懐かしい茶色のセーラー服を着た女子が混じっている。強豪校同士の合同練習のせいか、見学者も多かった。メグの姿もあったが、芙美はあえて少し離れた場所でその様子を見守った。
軽いウォーミングアップの後、それぞれの競技が始まる。
短距離が始まって数人目。あっという間にスタート位置に祐の姿が現れた。隣に並んだ篠山の選手がその人であると、メグの表情を見てすぐに分かった。
相手の彼は背が小さめの筋肉質で、スラリと背の高い祐とは大分タイプが違っていた。
パン、と空に向けられたピストルの音で走り出す二人。
「いけ、祐!」
何も知らない修司は、張り切って声を上げる。
「祐くん! がんばって」
湧き出す声援の中で、目覚まし代わりの彼女の声よろしく、メグの声が一際響いていた。ほぼ真横に並んで走っていた二人だったが、メグの声に答えるようにラストのコーナーで祐が追い抜いてゴールに向かって飛び出た。
「すごい、野村くん!」
芙美まで興奮してきて、修司の腕を鷲掴みにして、ぶんぶんと揺さぶる。
勝者の祐を称えて歓声が高まる中、ふと校庭の隅で別の声がざわめいた。
「何かあったのか?」
声の方に目を向けても答えはハッキリしなかったが、校舎側に居た生徒たちがグラウンドに背を向けた。芙美が視線を止めたのは、その奥――ふと見上げた先に白衣姿の夏樹が寮までのなだらかな坂を全速力で駆け上っていく姿が見えた。
「ミナになんかあった?」
昨日のメグの言葉が蘇った。
――「夏樹先生ってミナさんの事好きなんじゃないかな」
ふと沸いた嫌な予感は、そのまま現実となってしまう。ミナが突然倒れたのだ。
「ミナさん!」
ヤジ馬たちを掻き分けて、芙美と修司は寮母室へ駆け込んだ。
部屋の中にはベッドに横になったミナと白衣姿のままの夏樹がいるだけだ。
「コラお前たち、生徒は勝手に入ってくるなよ」
夏樹は二人を外へ追い出そうとしたが、ミナに「二人はいいんです」と宥められると、不本意な表情をしつつも素直に「そうですか」とベッドサイドの椅子に腰を掛けた。
「二人とも驚かせちゃってごめんなさいね。少し寝れば平気だから」
いつもよりトーンの落ちた声で謝るミナ。上半身を起こそうとするのを夏樹に阻止されて、枕へと頭を誘導された。
「駄目ですよ、寝てて下さい」
「佐倉先生も、すみません。わざわざ来ていただいて」
「俺の事なら気にしないで下さい。保健の、は、原田先生を呼んであるので、すぐに来てもらえると思います」
突然自分にふられて、夏樹は頬を赤らめながら逃げるように洗面所へ行き、用意してあった洗面器の氷水で解熱用のタオルを絞って戻ってきた。ミナに一言「すみません」と断りを入れてから額へ乗せるところが、姉の目には初々しく感じてしまう。彼の気持ちがメグの言う通りなら、どれだけミナに届いているのだろうか。
「ありがとうございます。久しぶりに色々してしまったから、疲れちゃったのかも」
「無理しないで下さいね。私たちにできることがあれば言ってください」
「わかってる。ありがとう、芙美。修司も」
寝たままの状態でうなずくミナの声は、小さいながらにも嬉しそうだ。
そんな時、修司のポケットで着信音が鳴った。古風な黒電話音が静かな部屋に響く。
画面を見て、彼の眉間にぐっと皺が寄る。何となく予感がして芙美が覗き込もうとするが、修司は「すみません」と三人に向けて断り、素早く部屋を出て行ってしまった。彼を追った視線が扉で遮断されてしまい、仕方なく部屋へ戻すとミナがこちらに向いていた。
夏樹がいるせいで話すことはできないが、彼女も同じ予想をしているのだろう。
芙美は、スカートのポケットに入った杖を布の上からそっと確認した。
修司はすぐに部屋へ戻ってきた。入って早々、夏樹を無視した報告をする。
「芙美と二人でダムに行く。他の二人が会いたいって言って来た」
「ダム……」
緊張が走って芙美はぐっと背筋を伸ばした。あの日以来ダムには行っていない。
「ダム?」
そしてそれは、詳細を知らない夏樹の前で触れてはいけないワードなのだ。
「ダムって何だ? ダムに行くのか?」
夏樹は昔、高校生の姉を原因不明の死因で亡くしている。ダムで絶命した町子。みるみるうちに彼が困惑の表情を見せた。
「えっと……違うのよ。これは……」
当の芙美もうまく説明することができずに慌てていると、
「ミナさんはここで静かにしてて下さい」
修司が早口にそう伝えて、「行くぞ」と芙美を促した。
「おい、お前たち」
手で阻もうとする夏樹への手段なのか、ミナは彼の左手をぎゅっと握りしめた。
「ミナさん……」と頬を更に紅潮させた夏樹は、もはや骨抜き状態だ。大魔女ながらにしての、魔性の女である。
「二人とも、無茶しちゃだめよ?」
二人同時に返事する。そして、芙美はそれでも険しい表情を向けてくる夏樹を呼んだ。
「夏樹、ミナさんを守ってあげて!」
芙美の言葉に夏樹は一瞬驚いた表情を見せたが、それを払拭するように声を荒げた。
「わかってるよ!」
ふんっ、と背を向けた夏樹が、小さい時に喧嘩して母親に愚痴を言っていた姿と重なって、芙美は思わず吹き出してしまった。
大魔女は過去に住んだことがあると言っていたが、疑念を抱いてしまう程の山奥だ。
新幹線の駅まで出て、そこからバスに乗ってダムを目指す。あの時と同じだ。川を超えると民家は一気に減り、道路沿いの畑も消え、木が鬱蒼とする緑の風景になってしまう。
十六年前とそう変わりはないのだろうが、昔の記憶はあまりなかった。
咲から連絡があってから、もう一時間以上経っていた。時計は午後五時を過ぎたところだ。季節のおかげでまだ空が昼間のように明るいが、帰りはきっと真っ暗だろう。
修司の話だと、弘人と薫がミナに会いたいと言って、咲がダムを指定したという事だ。もちろんミナは呼んでいないので、そのことで二人を怒らせてしまうかもしれないが、それでもミナが出てくるのは避けたいという咲の判断だ。集合場所が咲の店ではなくわざわざダムだというところも、もしものことを考えての事なのだろう。
もしも――異次元を作り出すことのできる咲に何かあったら。
そんな事が起こりうるのだろうかと半信半疑だが、それよりもダムに行くことへの不安の方が芙美には大きかった。
「無理に連れ出したけど、来たくないなら一緒に引き返してもいいからな」
「ううん、行くよ。ちょっと思い出しちゃうけど、修司がいるから心強いよ」
「――そうか」と苦笑混じりに呟いて、修司もまた窓の奥へ視線をやった。
駅を出た時には満席だったバスも、新興住宅地を抜けると乗客は二人だけになっていた。
フロントガラスの視界が開けて、広い水面が現れる。いよいよだ――と強く息をのむと、修司が「いいか、無茶するなよ」と囁いた。
ダムへ降りる階段の手前で二人はバスを降りた。エンジン音が遠ざかっていくと、静まり返った風景に風の音が響いていた。太陽の光を反射する水面と、水辺の手前に広がる草原は、町子が見た風景とはだいぶ違っていた。白一色で、ただ寒くて仕方がなかったのに。
階段のすぐ横に数台停められる駐車場があって、見覚えのある車が二台エンジンを切って止まっていた。示し合わせたように両方の扉が開き、芙美は息をのむ。中から下りてきた三人がこちらに向かってくるが、弘人と目を合わすことができず、うつむいたまま唇を噛んでいると、咲が「いらっしゃい」と歓迎してくれた。
「こんなトコまで呼んじゃってごめんね」
しかし薫は芙美と修司を見るなり、あからさまに不機嫌な表情をする。
「大魔女はどうしたのよ。咲、二人が連れてくるんじゃなかったの?」
「そんなこと、一言も言ってないよ。いたら殺すんだろ? こっちは世界の終わりなんて真っ平だからね。大魔女には大人しくしててもらうよ」
あっけらかんとする咲に、薫の整った眉が角度を上げる。
「あんまり頑固だと、力ずくでも大魔女を出させるわよ」
「今日は、もう一度みんなで話さなきゃと思ったんだよ。仲間だろ? 私たちが敵同士にならない方法があれば、ってね」
「戦闘を予測してここを指定したんでしょ? 信用してないってことじゃないかしら」
「そうじゃないよ――とは言わないけど。魔翔は出るだろうから、やっぱりここがいいよ」
薫は咲を睨んで、つまらなそうに息を吐き出した。
「大魔女を倒したら災いが起こるなんて、本当かしら。私たちが騙されてるかもとは考えないの? このまま根拠のない話を信じて魔翔と戦っていくつもり?」
「私はそれでもいいと思ってるよ。信じないで失敗するより、信じて失敗した方が後悔しないと思うからね」
「――本当、咲はおりこうさんね。でも、私の気持ちも変わらないわよ?」
うっすらと笑んで、薫は柵の前に並ぶベンチに座り、背後のダムを肩越しに振り向いた。
「行ってもいいのよ、いつでも」
薫は戦いを望んでいるのだろうか。諦めのような音を感じてしまう。
魔法が戻ったことを報告したくて「あの」と芙美が顔を上げると、薫の傍らにいる弘人とぴったり目が合ってしまった。ここに来た意味など全く関係ないかのように優しく笑いかけられて、芙美は慌てて目を反らした。
薫はダムから視線を返して、「どうしたの?」と言葉を待った。
「薫、弘人も……あのね、私、魔法使いに戻ったよ」
ためらいがちに伝えると、薫は「そうみたいね」とだけ答える。
「咲に聞いたよ」
弘人の声は優しかった。先日の夜会った彼とは別人のようだ。どちらが自分の知っている彼なのか考えてみるが、どちらも昔とは違う気がした。
「でも、ちょっと残念だよ。町子はホント、昔から頑固なんだから」
「残念とか言うなよ」
すかさず前に出たのは、修司だ。
「大魔女の話だと、自分から杖を求めなくてもいずれ魔法使いに戻るらしいぜ」
「そうやってさ」と突然不機嫌に吐く弘人。お互いがいがみ合う様に視線を合わせた。
「そっちの三人は大魔女に会って、俺たちだけ会えないのは不公平じゃないのか?」
「俺たちは会おうとして会ったんじゃない。それに、お前が会ったらどうなるかくらい俺が一番分かってるよ」
一歩、二歩と修司が弘人に詰め寄って、負けじと拳一つ分程高い視線を睨み返すが、本人は臆する様子もなく、ふんと鼻を鳴らした。
「町子を殺したことは今でも恨んでるけど、類は正しかった。今のお前じゃなくてな」
弘人の手がジャケットの内ポケットに滑り込んで、魔法使いの杖を掴んだ。
「どういうつもりだい?」
後ろで見ていた咲が、慌てて自分も杖を構えた。
「アンタが戦おうとするなんて、ただ事じゃないね」
戦うのを嫌悪して、魔法を放棄しようとしていた弘人。彼は魔翔と取引した。
「もう、イカれてやがるってことか」
修司は呟いた。彼と薫もまた杖を出す。芙美も他の四人に習ったが、現状を把握しきれてはいなかった。ただ、キンと耳鳴りが始まったことには気付くことができた。
咲は頭上を仰いで、深い溜息をつく。
「このタイミングでやってくれるよ、あいつら」
素早く回転させた杖の先端に、金色の魔法陣が現れる。
「行くよ」の声に重ねてブンと低い音が弾ける。そこにいた五人を残して風景が消えた。
白い異空間。ここに入るのも何度目だろうか。慣れているはずなのに、ただ一色の視界は白の闇のようで、芙美は少し怖いと思ってしまう。
けれど、ダムの風景よりはマシだ。
魔翔の気配に構えをとると、三呼吸ほどおいて奴が現れる乾いた爆音が響いた。
一発ではない――と芙美は肩を震わせる。
ボンボンボン、と連発する音に続いて、一匹、二匹、三匹と次々に魔翔が姿を現した。
全部同じ形だ。四肢のある獣型のそれはいつも通り黒く、口だけが白く浮かび上がり、白い空間によく映えていた。咲の所で遭遇した狼型だと思っていたが、鬣や足の長さから馬だろうと予測する。芙美にとっては初めての魔翔だ。
「シルエットクイズみたいだね、これは」
咲の口ぶりからすると、彼女も初対面なのだろうか。五人のうちの、誰の強さに対して現れた魔翔なのかと緊張が走る。
「ちょっと多いんじゃないか?」
修司は小声で言うと、先陣を切って魔法陣を発動させた。
魔翔は全部で七体だ。五人の正面を半円で覆うように等間隔で並び、蹴りだすタイミングを計っている。修司が緑色の魔法陣に杖の先を突き刺すと、無数のかまいたちが空間を滑り、鋭い刃となって奴等の胴体を左から順に切りつけていった。
身体をくねらせ、ギィと高い悲鳴を上げる魔翔。次に咲と薫が同時に攻撃をかけると、七体が素早く体勢を立て直し、光も矢もかわして五人に向けて突進してきた。
芙美は必死に杖を構えた。慌てて描いた魔法陣は大きな炎を生み、魔翔との間に壁を作ったが、その防御はあっけなく突破されてしまい、ほぼ無傷で体当たりを掛けられる。
「きゃああっ」
間一髪で避ける仲間の中で、芙美だけが一瞬で跳ね飛ばされてしまった。背中を強打して激痛が走る。しかしそのまま痛いと苦しんでいる暇はない。いくつもの魔翔の気配と声が、すぐそこで次の攻撃に入ろうとしている。
「芙美ちゃんは少し離れていて」
金色に光る咲の攻撃が、レーザービームのように左の魔翔から右へと流れるように横へ走り抜けていく。馬型の魔翔が次々と衝撃に転げるが、致命的なダメージには至らなかった。キィキィと鳴いてすぐに起き上がってくる。
「だいぶ強いけど、倒せない相手じゃないよね」
「そうね」と薫は褐色の魔法陣を描き、七本の矢を一本ずつ発射させた。それらはようやく軌道を確認できる速さで空間を駆け、ミサイルを突き落とす様な重い音を響かせて、きっちり七体の魔翔を射抜いた。流石の攻撃だ。やはり彼女が一番強いのかもしれない。
床に転げる魔翔に、芙美は攻撃を仕掛ける。奴等はおそらく虫の息だ。とどめを刺すべく炎を飛ばすが、しかしそれは瀕死の魔翔へのダメージにもならなかった。
どうしてと戸惑う芙美に、修司が「下がってろ!」と走り出て、七体目掛けて風の輪を吹き付けた。それでようやくキィキィと断末魔を吐きながら、魔翔は空間に消えて行く。
「よっし」とガッツポーズをして、咲が芙美の身体を気遣った。咲が自分の杖の先端で芙美の背中を小突くと、少しだけ痛みが和らいだ。
「ありがとう、咲ちゃん」
「完全に治したわけじゃないけどね」
咲は攻撃もできるが、それ以外の力も色々持っていた。流石、地の魔法使いだと感心してしまう一方、自分の非力さに足がすくんだ。
自分は魔法使いのはずなのに、今ここでできることが何もない。
「もういいかい」と咲が空間を元に戻そうとした時、修司が「おい」と声を上げた。こちらに背を向けた彼の肩越しに弘人の姿が見える。ブンと音が響いて、向かい合う彼の前に青色の魔法陣が現れ、ゆっくりと回転をしていた。
「ちょっと……本気なのかい?」
咲は手を止めて構えをとる。弘人は何も言わないが、何故か嬉しそうに笑っていた。返事のない無反応な態度が、芙美の中にある記憶のシーンと重なった。
あの時の類と同じだ――。
戦いを嫌だと言った彼が、仲間には刃を向けるというのか。正気でないのは確かだ。彼は魔翔に乗っ取られている。
「駄目だよ弘人、目を覚まして」
芙美は大声で訴えるが、全く届いていない様子だ。
「弘人」と薫が呼び掛けながらヒールを鳴らして歩み寄るが、やはり反応はない。弘人の傍らで踵を返し、薫は伸ばした杖の先端を三人に向けて突き出した。
「大魔女を呼びなさい。これが最後よ」
「薫もやめて。最後でも呼ばないよ。大魔女を殺したら、魔翔がその肉を食らって強くなるって言ってた。この世界の危機に私たちの魔法は消えちゃうんだよ?」
「穏便に行こうよ、薫。アンタが弘人をずっと支えてたのは分かってる。コイツの代わりに戦って、一番強くなったしね。さっき沸いたのも、おそらくアンタに沸いたのだよ。私にはちょっと強いなって思ったから。けど仲間同士で戦うための強さじゃないだろう?」
咲は仁王立ちで腕を組んだ。うんうんと頷く芙美に、薫は眉をひそめた。
「芙美、貴女は全然わかってない。町子が死んで、どれだけ弘人が苦しんだかわかる? 魔翔と取引するのは最善ではないかもしれないけど、自ら死を選ぼうとしていた弘人が立ち直れた唯一の手段だったのよ」
「薫……」
「貴女だって弘人が好きだったんでしょう? それなのにどうして弘人じゃなくて大魔女を守ろうとするのよ」
「そうじゃないよ、薫。芙美は一人の魔法使いとして、その役目を果たそうとしてるんだ」
普段あまり話さない薫が、この時とばかりに訴えてくる。咲の言葉には耳も貸そうとせず、憤然とした表情で眉の端を鋭く上げていた。
そんな薫を前に、芙美は何も言い返すことができなかった。弘人が好きだった筈なのに、気持ちが何一つ彼女に勝っていない。それに、ここで修司や咲に背を向けて薫に加勢する気持ちにもなれなかった。ただ、こんな所で悩んでいても、自分の力は全く役に立たない非力なものでしかない現実が芙美には一番辛かった。
視線を下げて虚ろになる芙美に「コラ」と喝を入れて、修司が緑色の魔法陣を描いた。
「そうやって意地張り合ってるのは勝手だけど。このままだと弘人は魔翔に見限られるぜ」
「何それ。類がそうだったってこと? 見限られて……類は魔翔に殺されたの?」
類の死が魔翔によるものだということは知っていたが、そんな理由は知らなかった。一瞬静まり返ったその場所で青い魔法陣が突然強い光を放つ。
「うわあっ」と芙美は、反射的に腕をかざした。水の力を持つ、弘人の魔法陣だ。彼と戦ったとして、火を力とする芙美の攻撃ではダメージを与えることは皆無だろう。
「やめな、弘人! 薫も!」
咲が素早く金色の壁を呼び出して攻撃を防いだが、続けて弘人が撃った青い光の衝撃は防ぎきることができなかった。芙美が両足を踏ん張って堪えると、制服のスカートがバタバタとはためいた。
戦うことを恐れていた弘人が、躊躇いなく攻撃してくる。町子があの日戦った類のように。修司や咲に応戦しなければという覚悟はあるのに、手足がすくんで全く動かない。自分の力を悲観して、前に出ることができなかった。
弘人と仲間の攻防戦。たじろいだ一歩後ろで、『強くしてあげようか――』ふとそんな声が聞こえた。芙美は思わず辺りを見回したが、他の四人には聞こえていないようだ。
それらしき姿もなく、「何?」と小さな声で聞き返すが、返事はない。
女の声だったが、咲や薫の声とは違う気がした。しかし、そんな声に首を傾げているのも束の間、弘人の放った光からの衝撃で現実へ引き戻される。
「やめて、弘人!」
もう一波。攻撃を防いで声を荒げたのは、芙美だった。白を混ぜたような青色の光。さっきダメージを受けた背中を丸めて身を庇った。鋭い衝撃が全身を突き抜け、息を吐いて痛みを逃すが、意識さえままならない。それでも弘人は攻撃の手を緩めようとせず、次々に光を飛ばしてくる。
そんな彼の傍らで、薫は光の弓を手にしたまま芙美たちを見つめていた。ただの傍観者であるかのように攻撃を伺う気配も見せない。弘人の攻撃は芙美たち三人を狙うばかりだ。魔翔と契約していない薫を突別な対象としているのは、弘人の潜在意識なのだろうか。
「こんなの無意味だ。弘人、聞こえるかい? 芙美が傷付いてるんだよ」
咲は声を荒げるが、薄笑いが返って来るばかりだ。諦めたように息を零し、「逃げようか」と、大きく魔法陣を描いた。
白いカーテンが溶け落ちるように地面へ下がって、元の風景が現れた。まだ明るかったダムに夜の色が入り混じっている。
「あっ――」と芙美がハッと気付いて声を出す。そこに、弘人と薫の姿はなかった。
「二人は向こうに閉じ込めたよ。ほんの少しの時間だけどね。あとで出てくるから大丈夫。もう、こんなんじゃ戦えないよ。今日は一旦逃げるんだ。芙美は歩けるかい?」
再度施された術に痛みが緩和して、芙美は「ごめんね」と唇を噛んだ。
「いいんだよ。あの二人も、これくらいじゃ諦めないだろうしね」
脱力する咲に「そうだな」と同意し、修司は車へと二人を促した。
「魔翔だって、まだ弘人を始末しようとはとないだろうしな。心配するなよ」
二人の消えた方向を何度も振り向く芙美を気遣って修司が言う。類だった彼の言葉は強い。芙美は「分かった」と素直に従った。
そして最後に芙美が車に乗り込もうとした時だった。
『次は、きっと――』
再び聞こえた女の声に芙美はダムを振り向くが、やはりそこには誰もいなかった。
寮に戻ると既に辺りは暗くなっていたが、食堂の明かりもまだ煌々とついている時間だ。
「大魔女に説明できる?」
咲は助手席の窓を開けて身体を乗り出し、外に降りた二人に声を掛けた。
「あぁ。あとは何かあったらすぐ報告する」
「そうだね、頼んだよ。あの二人も疲れてると思うから、夜中に何かしてくるってことはないと思うけどね。芙美も修司も眠れないかもしれないけど、今日は休んだ方がいいよ。私は明日の朝また来るから、一旦帰るね」
何かあったら夜中でも連絡して――と念を押して、咲は暗い夜道を帰って行った。
芙美は修司と寮へ入り、その足で寮母室へ向かう。建物に漂う温かい食事の匂いと、いつもと変わらないにぎやかな声に、芙美はホッと安堵した。
寮母室に夏樹の姿はなかった。パジャマ姿のミナは二人の顔を見ると、ベッドから上半身だけ起こして「お疲れさま」と温くなった額のタオルを外した。少し疲れた顔をしているが、ミナは思ったより元気そうだ。
ダムでのことを修司が説明するのを、芙美は彼の後ろでじっと聞いていた。薫と弘人が大魔女を倒そうとする意志は変わらないこと。弘人が魔翔に乗っ取られているということ。
ミナは相槌を打ちながら最後まで聞くと、「わかりました。ありがとう」と礼を言って、今度は「うーん」と唸った。
「予想通りと言えば予想通り、だけど。どうしましょうか……」
小首を三往復ほど捻らせてから、ミナは視界に飛び込んだ時計が示す時間に眉を上げた。
「とりあえず一晩考えてみるから、二人はきちんと食事をとって。夜はきちんと寝て体力を戻しておいてね」
食堂が閉まるまであと十分。一分でも遅れると夕飯を食べ損ねてしまう。山の中にポツリと建つ寮からは、コンビニや商店も遥か彼方の距離にしかないのだ。
けれど夏樹の事が気になって、芙美は時計を確認してぺこりと頭を下げた。
「夏樹……佐倉先生が、すみません」
どう見ても夏樹が付き纏っている気がして一言謝らねばと思っていたが、ミナは「謝らなくていいのよ」と手を振った。
「佐倉先生も別に悪いことしてるわけじゃないし。でも、町子の弟だもんね。貴女が悩んでしまうのも無理ないけど――気にしてないから」
「はい。ありがとうございます」
礼を言いつつも下を向いたままの芙美を、ミナは覗き込んだ。
「でも気になる? 私が大魔女だから」
「そっ、そんなことは……少しだけ」
正直に答えて、芙美はミナから目を反らす。
彼女は大魔女だ。外見は周りに溶け込んでいるが、十六年間彼女の身体が時を刻まないことが表すように、普通の人間とは少し違う。だから、二人が恋愛関係になるんてありえないと思っていた。けれど、それは絶対ではないと感じる。
「芙美になって、ここに戻ってきて――幸せの定義が人それぞれ違うってことを知らされた、って言うか。芙美はずっと魔法使いに戻って戦うこと、強い自分になれることが幸せだと思ってきたんです。でも、弘人は戦うことなんて全然望んでいなかった。だから、私が誰かの幸せを決めつけることなんてできないって思って」
「んもう、頭の中が飛躍しすぎよ。青春漫画の読みすぎじゃない?」
思わず頬を紅潮させるミナを、可愛いと思ってしまう。
「でも、幸せの定義が人それぞれってのは、正しいと思うわ」
下げていた首をぐいっと上げて、芙美は「そうですよね」と目を輝かせた。
「だから夏樹の事、私には遠慮しなくて良いですからね!」
ミナはふふっと声を出して笑い、「ありがとう」と目を細めた。
「じゃあ、幸せの定義ついでに、一つ聞いてもいいかしら」
ミナは二人を交互に見つめ、「ねぇ?」と尋ねる。
「二人はまだ、魔翔と戦いたいと思う? もっと強くなりたいと思う?」
「強く、って。今以上に――ですか?」
芙美は修司と顔を見合わせて、確認し合うように頷いた。
「もちろんです。そんなこと、できるんですか?」
「聞いてみただけ。強くなるのは大変なのよ? 貴方たちが魔法使いになったようにね」
悪戯っぽく笑って、ミナは「時間よ」と二人を部屋の外へ送り出した。
「まだ眠れないの?」
そうメグに聞かれてから、既に一時間以上経ってしまった。
疲れているはずなのに、布団の中で目を閉じても全然眠気が下りてこなかった。眠ろうとすればする程、意識がはっきりしてきて、芙美はベッドから下りて机のライトを点けた。
メグが可愛らしい寝息を立てているのを横目に、芙美はベッドに座り、枕元に置いた魔法使いの杖を両手に握りしめた。
次の戦闘で、今度こそ前に出ることはできるだうか。足手まといからの脱却――自分の行動のせいで悪い結果を招くことは避けたい。
『だから、私が強くしてあげるよ』
突然耳に入ってきた声に、芙美は「えっ」と耳を疑った。部屋には自分とメグ以外、誰もいないはずだ。けれど確かにその声は聞こえた。知らない女の声。
恐怖に声が出ず、うつむいたまま芙美は口をパクパクさせる。すぐそこに何者かの気配を感じるのに、顔を上げることができなかった。
一瞬幽霊の存在に怯えて、そんなわけはないと自分を奮い立たせる。
「――誰?」
メグを起こさないように小さな声で尋ね、返事を待った。魔翔ならいつものようにキィキィ鳴いて出てくるのだろうか。いや、沸いてから時間が経過していれば、声も出現時の爆音も聞こえなくて不思議はないし、何より魔翔は言葉を話さない。
けれど、これにも例外はある。
――「魔法使いは意識が弱まると、魔翔の声が聞こえるんだ」
その言葉を思い出した途端、身体がガクガクと震え出す。
「どうして――」
その時が来たというのか。疲れのせいで聞き間違えたのかもしれないと、そう自分を宥めようとすると、タイミング悪く声が返ってきた。
『怯えなくていいよ。私が守ってあげるから』
弱みに付け込んで、『奴』は優しい言葉を掛けてくる。けれどそれよりも、芙美はその声にハッと目を見開いた。深い位置に沈んだ記憶の断片がフワリと浮かび上がった気がした。
知ってる声――恐らく、間違いない。
何故? と問い掛けるより早く、顔を起こして『彼女』を確認していた。
黒い魔翔――目がなく白い口。いつも出て来る魔翔の定義に当てはまるのに、それは獣ではなく人型で、芙美の知っている形を模している。
『大丈夫、怖くないから』
中学校の合唱祭、問答無用でアルトにさせられたコンプレックスの低い声。横から見える丸い鼻、そして羨ましいほどのサラサラストレートロングの髪。
「町子――なの?」
戦う事に何のためらいもなく、自分に素直だった佐倉町子だ。
「どうしてそんな身体をしているの? 町子は私。町子は死んだんだよ?」
彼女はもう死んでいる。肉体は焼かれ、魂は芙美として生まれ変わっているのだ。
『貴女はもう町子じゃない。有村芙美でしょう? 私は貴女を助けたくてここに来たの』
それが彼女である訳はないのに。平然と言い放って、町子の姿をした魔翔は、『さぁ』と白い唇の端を上げて手を差し出してくる。この手を取ったら、楽かもしれない。心に響く心地よい言葉だ。類も弘人も、この言葉を聞いたのだろうか。
「その手は取らない。町子にそっくりだけど、町子は私だから。貴女じゃない」
手を取るまいと、芙美は隠すように両手を腰の後ろへ回した。
『強がることないよ。どうせ戦ったって、貴女にとって邪魔になるだけなんだから』
「そんなの、わかってるよ。でも……」
『言うこと聞けば、薫より強くなれるよ』
なんて魅力的な言葉だろう。誰よりも強くなりたいとずっと思っていた。けれど、まだ自分は正気だ。強い視線で魔翔を睨むと、
『弘人も喜んでくれるよ?』
奴は巧みな返事を返してくる。弘人の名前は少しだけ自分を弱くする。けれど――。
――「気を付けてね」
これは都子を泣かせてまで選んだ道だ。
「嫌だ。私は取引なんてしない!」
挑むように声を荒げた。すると、
「ん? 芙美ちゃん……?」
寝ぼけた声のメグが少しだけ起き上がり、芙美はすかさず「ごめん、何でもないよ」と謝って、彼女に見えないように無言で魔翔に構えた。右手の杖は、いつでも発動可能だ。
精一杯の強さを表す。弱みを見せなければ魔翔の声は聞こえないはずだ。
頑固とした意思を前に、魔翔は白い口をにやりと曲げて、霧散してしまった。
良かったと安堵して、芙美はその場にぺたりと座り込んでしまう。
本当にこんなことがあるのか――と、自分の弱さに涙が出てくる。強くならなければ、すぐにでも彼女に飲み込まれてしまいそうだ。
「ダメだな。こんなトコで泣いたら、また町子が来ちゃうよ」
再び目を閉じたメグを一瞥して、芙美は枕元に置いてあったタオルを強く目に押し当てて、「強くなれ」と呪文のように何度も唱えた。
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