第3話 2.再会

 入学式を終えて慌しく日は過ぎ、初めての休日。

 早朝、家に帰るというメグを見送り、芙美はクローゼットに昨日用意しておいたコーディネートのハンガーを取り出し、鏡の前でもう一度自分にあててみる。町へ行くという芙美に世話好きのメグが考えてくれた、命名『お嬢様のアクティブな休日』スタイルだ。寮から駅までは自転車の移動になるので膝上のパンツをはき、上はレースの白いシャツにピンクのカーディガンを合わせている。

 今日、弘人に会えるかもしれない――。

 芙美にってから、仲間の手掛かりを求めてパソコンで検索してみた事がある。けれど、フルネームや地域を入力しても、誰一人検索に引っ掛かることはなく、唯一自分の過去の名前だけが『原因不明の殺人事件』として過去の新聞やニュースの記事に残っていた。

 あの日、町子は類と戦って命を落とした。けれど、記事に残るのは町子の名前ばかりで彼の名前はどこにも見当たらなかった。ずっと自分が殺してしまったと思っていたのに、もしかしたら生きているのかもしれない。

 仲間に会えたら、全ての答えが出るだろうか。

 十六年前に何度か行ったことのある弘人の家を尋ねて。そこに彼が居る可能性なんて、ほんの僅かあれば良いのかもしれない。けれど「もし」という思いで衝動が高まる。

「会えますように――」そう願いを囁いて、芙美はそっと胸を押さえた。

 メグのいない部屋は思った以上に静かだった。まだ会ってから一週間と経っていないのに、彼女のお陰でホームシックもなく、いつも笑顔でいることができた。


「お出掛け?」

 準備をして下に下りると、玄関の外で掃き掃除をしていた寮母のミナに声を掛けられる。まだ二十代後半だろうか。料理以外の寮生の管理などを全て住み込みでしている。目鼻立ちのはっきりした綺麗な女性で、寮の女神ともてはやされる、男子たちの憧れの的だ。

「はい。駅前まで行ってきます」

「そう。夕飯は食べるんだよね。時間厳守だよ。気を付けて行ってらっしゃい」

 箒をくるりと肩に担いで手を振るミナに頭を下げ、芙美は校舎脇にある駐輪場へと向かった。最寄りの駅まで自転車で十五分。駅と駅の調度中間に学校はあった。

 昔、学校からすぐ側の線路沿いに新しい駅ができるという噂が立っていたが、十六年経っていまだにそれがない所を見ると、もう望みは薄いのかもしれない。

 なだらかな上り坂の向こうにある小さな駅。昔町子もこの坂に苦労していたことを思い出しながら記憶と殆ど変化のない田園風景を進んでいく。

 口ずさむメロディは九十年代に流行った軽快なラブソング。今ではもう懐メロに分類されてしまうが、歌っている歌手が今も現役で活躍している事が芙美はとても嬉しかった。

 駅に着くと、身体が少し汗ばんでいた。今日の晴天で桜がようやく咲きそうだと、談話室のテレビで見たニュースでアナウンサーが声を弾ませていた。

 すぐに来た一両編成の電車に乗り、一駅隣の駅に着く。受験で冬にも一度来ているが、新幹線からすぐ電車に乗り変えてしまい、芙美として駅前に出るのは初めてだった。

学校周辺の田園風景から一変して、ビルの多い町が広がる。まだ十時前で開いていない店も多かったが、駅構内は慌しい人の数が行き来している。併設されたお洒落なショッピングセンターを横目に外へ出て、芙美は「わぁ」と感嘆の声を漏らす。タクシーのターミナルと小さい商店がある程度だった駅前に、大きなビルがそびえ建っていたのだ。

 「いつの間に?」と声が漏れる。昔ここには何があっただろう。記憶を上書きしてしまうほどの存在感。下層の商業スペースには、都会でも見慣れた店の看板が並ぶ。

 学校の周りは大して変化がなかったのに、市街地は大分雰囲気が違っていた。駅前にあったデパートは建物ごと消え、横には石畳の道路が伸びる。昔小さな店々が活気立っていた雰囲気も一変し、町は町子が知っているより綺麗で静かな町になっていた。

 調べてきたメモを片手にターミナルからバスに乗る。弘人の家を訪れる前に、もう一人会いたい人がいた。そこに彼はいないような気がするけれど。

 駅から五分ほどの国道沿いで下り、少しだけ期待を込めて坂を上った。車一台がやっと通れる細い坂。小さな山の斜面を切り崩した住宅街は、町中でありながらまだ半分の面積に木が生い茂っている。

 坂を上りきって、芙美はその光景に「やっぱり」と肩を落とした。町を見下ろす高台に、記憶とは違う建物が建っていた。町子の家があった場所だ。町子が中学に入ってすぐ、母親が病気でこの世を去り、祖母と弟の三人で暮らしていた家だ。

「夏樹(なつき)……」

 高齢だった祖母は、きっと旅立ってしまっただろう。けれど、五歳下だった弟・夏樹の存在が弘人以上に気掛かりだった。彼が生まれてすぐに両親が離婚してしまい、母も亡くした家で、町子までがこの世を去った。まだ十歳だった夏樹の事を考えると、早くここに帰って来たいと思っていた。

 祖父が建てたという純和風の広い家は、きっと祖母と二人では持て余してしまうだろう。

「仕方ない……よね」

 寂しさを感じつつ、そこに建つ流行の洋風家屋を眺めていると、

「この家に御用ですか?」

 後ろから声を掛けられ、芙美はハッとして振り返る。小さな男の子を抱いた若い女性が立っていた。この家に住んでいるようで、片手に持っていた大きなスーパーの袋を玄関前に「よいしょ」と下ろす。

「す、すみませんっ」

 不審者に見られたかもしれない。弁解の言葉も見つからずうろたえる芙美に、女はふっと微笑んだ。その表情に芙美は眉を上げる。彼女に会うのは初めてでないと――気付いた。

 (加代……?)

 近所に住んでいた、町子の幼馴染だ。昔より少しふくよかになって眼鏡を掛けているが、右目の下の黒子が記憶を蘇らせる。懐かしさが込み上げるが名乗る事はできず、芙美は肩から斜めに提げた鞄の紐を両手でぎゅっと握り締めた。

「佐倉さんの知り合いで」

「夏樹くんの? そうなんだ」

 芙美が頷くと、加代は身体を回して家を仰ぎ見た。

「夏樹君が大学に入る時、引っ越してしまったの。その後にウチがここに来たから」

 加代は神妙な面持ちで視線を返し、「ごめんなさい」と謝る。

「その後の事は、詳しく聞いていないのよ」

 申し訳なさそうにする佳代に、芙美は「気にしないで下さい」と両手を胸の前に広げた。

 大学入学と言えば七年前だろうか。大好きだった町子の家があった場所に、住んでいたのが彼女で良かった。建物は無くなってしまったが、嬉しいとさえ思ってしまう。

「ありがとうございます」

 そう頭を下げ、芙美は坂を下りた。手掛かりはないけれど、望みが消えたわけではない。


 一度駅に戻って、今度こそ弘人の家へ向かう。調べた通りのバス路線。少しずつ変化した町並みをしばらく眺めていると、ふいに記憶が目を覚ます。

 大きな貯水池の脇。バスを下りて、細いカーブに入り込んだ奥に、予想通りの大きな家があった。緩い坂に合わせて並ぶゴツゴツする石垣の溝をなぞった事がある。変わらないなと手を這わせて、芙美は閉められている門の前で、大きく息を吸い込んだ。

 興奮しているのが良く分かった。あのまま生きていてくれたら、彼は今三十一歳だ。

「こんにちは……じゃなくて、久しぶり! ……違う。えっと……別の人が出て来たら、どうしよう」

 寸劇でもしているかのように一人小声で呟きながら最初の言葉を探すが、テンポの速い心臓の鼓動がそれらをポンと打ち消してしまう。とりあえず会ってから決めようと決意して、門の横にある小さなインターホンを押すが、遠い位置で響いたブザーは住宅街の静かさに掻き消え、シンと静まり返ってしまった。

 何回か試してはみたものの、そこで彼に会うことはできなかった。

 彼に会いたくて訪れたこの家でそれを果たすことはできなかったが、少しだけホッとする自分に気付いて、芙美は呆れて頭を押さえた。


 昼過ぎの駅は思った以上に混雑していた。

 駅ビル内のファーストフード店に入り、お昼を食べる。一応『お嬢様』なのだが、基本自由主義な都子の教育方針と町子のお陰で、こんな場所での一人ランチも御手の物だ。

 特に成果が上げられないまま予定が全て消化されてしまい、八方塞の状態だ。

 窓際のカウンター席。道行く人の流れを見つめながら、ぼんやりとハンバーガーを食べている自分を虚しく感じる。今頃弘人に会えて、懐かしさに浮かれている姿を想像していたのに。この町は、町子が弘人と歩いた場所だ。二人の思い出がありすぎて、ガラス越しに通り過ぎていく恋人たちを妬ましいとさえ思ってしまう。

 急に目頭が熱くなって慌てて鞄を開くがタオルやハンカチはなく、困った果てに芙美は手の甲で涙を拭った。それでも、とめどなく流れる滴がトレーを濡らす。

 通り行く人々が芙美に目を向けるが、足を止める事はない。席の左右に座る客も視線を逸らすように身体を外側に傾けた。同情や優しさを求めたいわけではない。だから早く涙を止めたいのに、我慢しようと思う程、それは意思を反して流れ続ける。

 カーディガンの袖がぐっしょりと濡れてしまい瞳から手を離すと、窓越しに視線がぶつかり芙美は一気に頬を赤く染めた。『ニヒル』なクラスメイト、熊谷修司がこちらを見て立っている。止まらなかった涙が一瞬で引いた。

「ちょっ……」

 何故彼がそこに居るのか。緑チェックのシャツを羽織った私服姿。見てしまった事を後悔する顔だ。しかし、ゆっくりとそこを離れた修司がそのまま見逃してくれたと思ったのも束の間、あろうことか彼は店内に入り、芙美の所にやってきた。

 芙美はひりひりと腫れた瞼をもう一度強く擦り、後ろに立つ修司へくるりと椅子を回す。

「何してるんだ? 一人で」

「お昼ご飯……です」

 始めて交わす言葉。羞恥心に顔を上げる事ができず俯く芙美に、修司は「そうか」と辺りを確認する。

 ストレートな質問に、芙美はこくりと首を振った。

「でも、何でもないから気にしないで。大丈夫だから」

「……そうか。強がれるなら平気だな」

 心がチクリと痛んだ。同じクラスで寮生、けれど声の記憶すらないほどに遠い存在だった彼に助けられた。

「ありがとう」

「別に何もしてないし」

 少しだけ落ち着いて顔を上げると、無愛想な修司がうっすらと笑っているように見えた。

「く、熊谷くんは、買い物か何か?」

「散歩」

「散歩……なんだ」

 一人で町の散歩とは意外だ。

「そういえば、アンタ名前何だっけ?」

 何度も繰り返した自己紹介。彼はずっと外を見ていて聞いていないとは思ったが、それでよく泣いている芙美を見つけられたものだと感心してしまう。

「有村芙美、です」

 もう一度自己紹介。彼を真似て名前だけ言うと、修司は「覚えとくよ」と笑った。

「じゃあ、また寮で。もう泣くなよ?」

 そう言って、修司はさっさと店を出て行ってしまった。あまりクラスの輪に入らず、孤独でニヒルな男子だと思っていたが、他の男子より落ち着きがあると言ったほうがしっくりくるような気がする。どこか大人びていて、何故か父和弘を思わせた。

彼の背中が小さくなっていくのを見送って、芙美は再びテーブルに向き冷めたハンバーガーを頬張る。隣の客が入れ替わって、サラリーマン風のスーツ姿の男がコーヒーを飲んでいた。苦味のある香ばしいその香に、芙美は記憶の風景を垣間見る。

大魔女が力を与えた魔法使いは五人で、芙美と類、弘人以外に女子が二人居た。その一人・粟津咲(あわづさき)の祖父が経営する喫茶店に、何度か皆で集まった事がある。

あそこが仲間への手掛かりになるかもしれない――そう期待を膨らませるが、思い浮かぶのは店内の風景ばかりで場所どころか店の名前すら浮かんでこない。

「どこ……だったかなぁ」

 テーブルに肘を立て、両手で頭を抱える。住宅地の中にある常連客しか来ないような小さな喫茶店だ。コーヒーの匂いが店いっぱいに漂っていて、白髭のマスターがいつも甘いカフェオレを出してくれた。

 高校生の町子は、自転車でそこに行っていた。家から少し離れていて、暗くなると弘人が「女の子一人じゃ危険だから」とやたら心配して家まで送ってくれた。

「どこだったかなぁ」

 頭を捻るが、店から中々抜け出す事ができない――けれど。窓に、小学校の校舎が映る。

「そうだ!」と閃くように蘇る小学校と、その脇の高架線を走る電車の風景。芙美は飛びつくようにスマートフォンを握って地図を開くと、駅からの線路を辿った。

 町子の家とは反対方向。駅から二キロほど南下した線路脇に小学校を見つける。

 まだ時間は二時前。五時過ぎの電車までに駅に戻れば、六時半の夕食に間に合う事ができる。芙美は残りのハンバーガーと手付かずのポテトを頬張り、少し薄くなってしまったコーラを流し込んだ。


 小学校の名前が分かると、そこまでの移動は簡単だった。

ターミナルの案内所で路線を聞き、すぐにやってきたバスに乗ると十五分程で最寄のバス停につく。国道から電車の高架を潜り抜けると、すぐに小学校があった。プール脇に並んだ桜の蕾が少しほころんで白い花を見せている。

この風景をきちんと覚えているわけではないが、足がこっちだよと言わんばかりに芙美をそこに運んでくれる。通り沿いの小さな喫茶店。白い壁に格子窓の扉、建物の周りには、ケーキをデコレーションするように色とりどりの花が植えられている。

「ここだ」

 ふわりと蘇ってきた記憶が一致する。

 店から漂うコーヒーの香。扉に提げられたOPENの文字に心臓が高鳴った。

 カランカラン――扉を開けると、上に付いた鐘が高い音で芙美の入店を店主に伝えた。

「いらっしゃいませ」

 ふいに蘇ったダンディなマスターの声を待つが、聞こえてきたのは女性の声だ。

 十六年前の記憶――粟津咲という少女は、町子より一つ年下で、まだ中学生だった。ショートカットでスポーツが得意で、赤縁の眼鏡が印象的で。魔法を操るのが優秀だった彼女に、町子は色々コツを教えてもらったものだ。

 十六年経って、髪が伸びて大人になって。けれど、赤縁の眼鏡は健在で。

「咲ちゃん……」

 カウンターに立つ女性の顔を確認して、芙美は再び流れ出ようとする涙を必死に抑えた。

 間違いなく本人だった。突然泣き出した客を前に、彼女は慌ててカウンターのボックスからおしぼりを取り出して袋を破ると、バタバタと熱を払って差し出す。

「どうしたの? 大丈夫かい?」

 他に客がいなかったのが幸いだ。芙美はほんのり温かいおしぼりを強く目に当てて、もう一度彼女を見やる。

「咲ちゃん」

「えっと……会った事、あったっけ?」

 咲は眉をひそめて首を捻る。芙美として会ったことがないのだから、記憶にないのは当たり前だ。止めた涙が溢れそうで、芙美は「ごめんなさい」と声に強く力を込めた。

「町子なの! 私……」

 言い切って恐縮する芙美に、咲は「えっ」と組んでいた手を解き、呆然と立ちつくしてしまう。大きく開かれた瞳で何度も瞬きする彼女に芙美は、

「佐倉町子が……生まれ変わったんだよ」

 説明する声が上ずってしまう。全身を掻け巡る衝動を抑えるので精一杯だった。芙美になって初めて、誰かに打ち明ける言葉だ。

「何……だって?」

「ずっと連絡できなくて、ごめんなさい」

「町子が生まれ変わった、って。本当、なのかい?」

 戸惑いを混ぜた問い掛けに「うん」と答えると、次の瞬間芙美は咲の腕に強く抱き締められていた。

「良かった……本当に。町子」

 ふんわりとした甘い匂いと触れた身体の温かさに抑えていたものが弾けて、芙美は少しだけ背の高い彼女の肩をいっぱい濡らしてしまった。


 たくさん泣いてようやく落ち着くと、咲がミルクのいっぱい入った甘いカフェオレを出してくれた。表面に浮かんだ三つのマシュマロがゆったりと熱に溶けていく。

「十年前に爺さんが死んじゃってね、私が継いだの。これでも結構繁盛してるんだよ」

 そう胸を張る咲の横にあるコーヒー豆の棚には、色鉛筆でカラフルに描かれた手書きのポップが貼られていた。テーブルごとに置かれた一輪挿しの花や、レースのカフェカーテン、木の台紙に貼られた手作りのメニュー表。それらの一つ一つが絵本から飛び出してきたようで、昔のシックな店内とは大分印象が変わってしまったが、店全体が咲を表しているようで、泣いていた事も忘れてつい和んでしまう。

 これから三時を迎えようとしているのに、咲は外に立て掛けてあった二つ折りの黒板を中に入れ、さっさとドアの外にCLOSEの札を提げてしまった。

「ごめんね、突然来ちゃったのに」

「いいんだよ。だって、十六年振りだろ? でもまさか死んで生まれ変われるなんて思ってもいなかったね。大魔女は何も言ってなかったよなぁ」

 芙美の向かいで、猫のイラストが入ったマグカップのコーヒーを飲みながら、咲は自分の眉間をグイグイと押した。

「うん。私も自分が町子とは別人に生まれ変わったって理解できたのは、小学校に入ってからだよ。本当はもっと早く来たかったんだけど。私が町子だって、信じてくれる?」

「……そうだね、ただの友人や家族なら多分信じないと思う。でも、違うだろ? 想定外の事が起こるのは、私たちにとっちゃ普通なんだ。だから驚いたけど否定はしない」

「咲ちゃん……」

「鈍くさくて、泣き虫で、でも行動力は人一倍で――ね? 町子そのままだろ?」

 否定はできないが、そんな風に思われていたのが少しショックだ。けれど、力を失って記憶しかない自分をすんなり受け入れてくれた事が嬉しくてたまらない。

「会いにきて良かった。本当に、みんなに会いたかったよ」

 芙美の頭を撫で、咲は「そうか」と苦笑する。

「弘人に会いに来たんだね」

 年下でありながら面倒見の良かった咲には、芙美の気持ちなんてバレバレだ。

 照れ臭さに視線を落とし、芙美は深く頷いた。

「う……ん。みんなは、元気?」

「元気だよ。弘人も薫も。町子と類が死んで、一時はみんな大分落ち込んでたけど」

 芙美は「えっ」と顔を起こす。

「類はやっぱり死んだの?」

「やっぱり、って。知らなかったのかい? っていうか、一緒だったんじゃないのか」

「一緒だったけど……彼の最後を見た訳じゃなかったから」

 もしかしたら生きているかもしれないと期待してしまったのに。

「確かに……そうだね。二人の遺体が発見された場所は少し離れてたんだ。町子は当日に見つかったんだけど、類はダムのもっと奥に居たから三日後まで気付かれなかったんだよ」

「そんな」

 傷を負った姿は覚えている。その身体で移動して、類は大魔女に会ったのだろうか。

「町子の事はニュースになったけど、類の死は御両親の希望で報道されなかったしね。私たち生き残り組はちゃんとした真相を知らないんだ。あの頃の類は「魔法使いを辞めたい」とか言って、少しおかしかっただろう? 何があったんだい?」

「類は力を放棄するために大魔女を殺すんだって祠を目指していたの」

 ダムへ行く前日。大魔女を倒すと言った彼を説得すると、逆に一緒に行こうと誘われた。

――「力なんて、持ってること自体が災いなんだ」

 彼の言葉に、町子は同意する事ができなかった。自分の力を誇らしく思っていたから。だから、はっきりと誘いを断った。でも彼が気になって、翌日後をつけたのだ。

「本当かい? でも、大魔女を倒すと――」

 大魔女を殺すと、この世界に災いが起きると言う。力を与えられた時、最初にその事を教えられた。だから、それはあってはならないことだと意識していたのに、あの日類は町子の説得も空しく大魔女を殺す為にダムを目指した。

 彼を止めようとして、戦いになった。そして――。

「類が本気で攻撃してきて、それで。殺しあうつもりなんてなかったのに……」

 ボタボタと涙がカップに落ちる。咲は水玉のタオルを芙美に差し出した。

「力を放棄したいとか、大魔女を殺すとか、アイツは何をしたかったのかな。どこで仕入れた情報か知らないけど、大魔女を殺そうだなんて。私は考えたこともなかったけど、災いって何が起きるんだろうね。それに、私達の前の五人は、何で力を放棄したんだろう」

 大魔女が最初に力を与えたと言う五人の魔法使い。彼らが放棄した力を町子たちが受け継いだのだ。

「大魔女に会って話ができればいいんだけど。いまだに会えてないんだよね」

「ずっと……なの?」

「あぁ。町子たちが死んでも現れなかったし。弘人が何度かダムへ行って、祠らしき場所には行けたらしいんだけど、毎回空なんだってさ」

「そうなんだ……じゃあ、それこそ町子も類も無駄死にだったね」

「過去を悔やんだって仕方ないよ。町子が止めてくれなかったら、本当に災いが起きたかもしれないし。この十六年は、魔翔は出るけど平和だった。実際力があっても、何かに活用できるものじゃないからね。でも、力があるってことは自信に繋がる。心の強さにね」

 それはよく分かる。だから、いまだに類や前の五人が力を放棄しようとした理由が分からない。芙美に生まれ変わって、小さい頃は良く魔法を出そうと、失ってしまった杖の変わりにその辺にある棒を振っていたものだ。今でも力が蘇ればと思ってしまう。

「類も、生まれ変わってるかな?」

「もしかしたら、そうかもしれない。芙美と同じように力がないなら、彼の望みが少しだけ……叶ったことになるのかな」

「うん。でも――魔法を嫌がってたから、記憶があっても名乗り出てはくれないのかな」

「そうだねぇ。元から硬いヤツだったしね」

 リーダー格で明るい弘人とは違い、類はみんなの脇で相槌を打っているような大人しい男の子だった。だから、突然「力を放棄したい」と言い出した時には皆が驚いた。

「でも、それならそれで自由に生きていてくれたら、嬉しいな」

「案外、女の子に生まれ変わってたりしてね」

 ニヤリと笑った咲の表情がサッと陰った。

頭上を睨む視線を追って、芙美は「まさか」と声を漏らす。

 魔翔は気配が先に来る。芙美にそれを感じることはできないが、咲は「うん」と立ち上がり、ズボンのポケットから見覚えのある木の杖を取り出した。

「感じない? あそこだよ」

 咲が目で示すのは、調理器具や食器の並ぶカウンターの向こうだ。

「ごめん、わからない」

 何も感じ取る事はできなかったが、芙美も目を見張りながら立ち上がり、警戒する咲の後ろに避難する。

「もし、ここで私だけがあっちに行ったら、心配しないで待ってて。で、一緒に入り込んじゃったら、やられないように」

「う、うん」と答えて身構える。魔翔は魔法使いの肉体よりも、力そのものを餌とする。だから、力のない芙美の前には一度も現れた事がなかった。

 地の魔法使いである咲は別の次元を作り出し、そこへ魔翔を誘って戦う事ができた。異次元に入り込めるのは、魔法使いと魔翔のみだ。だから多分、ここに一人残されてしまうだろうと予測するが、芙美はその声を耳にしてしまう。

 キーン、と。空気を切り裂く耳障りな高音に、両手で耳を塞いだ。

 魔翔の放つ、独特の声。

「聞こえるのかい? じゃあ、もしかして――」

 言い掛けて、ボンと含みのある重い空気音が弾けた。カウンターの奥へと伸ばした右手と反対、横に伸びた咲の左腕が後ろの芙美を護ろうとする。

「お出ましだよ」

 頭ほどの高さで現れた魔翔は、アクロバットでも決めるように、くるりと宙返りして床に下りた。その姿が、芙美の目にはっきりと見えた。

咲は「来たね」と呟き、腕の幅いっぱいに杖でぐるりと円を描く。空中になぞられた金色の魔法陣。光に当てられた店の風景が、白一色のがらんとした空間に一変する。

 魔翔と咲の戦場。そこに、芙美もいた。

 久々に目にした魔翔は黒い狼のような風貌で、四肢を地面に立てて咲を威嚇する。魔翔は目がない。けれどこの魔翔はそれがあるべき場所が窪んでいて、顔があるように見える。

 怯える芙美を一瞥して、咲は眉をひそめた。

「力はないんだろう? 魂で引っ張られたのか? こいつは飛び掛かってくるから気をつけるんだよ」

 黒い狼と対峙する咲。お互い睨み合っているが、咲は面倒そうに溜息をつくだけで怖がる様子はない。

 魔翔にはいくつかのパターンがあるが、町子はこの狼型に会った事がなかった。しかも、記憶の奴等とは決定的に異なることがある。

「魔翔って、こんなに大きかったっけ?」

「魔法を喰らうからね。こっちの力が大きくなると、こいつらも肥えてくるみたい。最近はこんなのばっかりだよ」

 確かに、町子が初めて魔法少女になって一番最初に倒した魔翔は、蜂のような極々小さな飛行形態だった。

「それだけ私も強くなったんだよ。毎回思うけどさぁ、アンタたち、口だけはでかいよね」

 挑発する咲の声に、魔翔がキィと鳴く。形はそれぞれだが、どれも声は同じだ。

「さぁて、いこうかね」

 もう一度、咲が杖を回す。今度は小さい魔法陣。空中に描かれた、ゆっくりと回転する文字は、地の魔女である彼女特有の金色で、芙美が綺麗だと改めて見惚れてしまうほどだ。

 魔法陣から抜ける金色の矢が魔翔を狙う。後ろ脚で地面を蹴った狼は、光を避けて飛び上がる。裂けるような口角から、白い煙が唾のように散った。

 高揚するように「キィキィ」と何度も叫ばれるその声に、咲は「五月蝿いよ」と吐いて、今度は三辺の穴を描く。彼女の前に浮かんだ黒い正三角形の周りには、金色の文字が並んだ。円以外の魔法陣は、町子が初めて目にするものだ。 

 咲に喰らい掛かる魔翔。「危ない」と叫んだ芙美の声に重なり、バンと大きい衝撃音が鳴る三角形に弾かれて、魔翔の身体が地面に転げた。

 何もできないまま芙美は咲の後ろで安堵し、荒い呼吸を繰り返していた。

 魔翔の姿に恐怖を感じる。こんなこと町子にはなかった。彼女は自分の力に自信を持っていたから。力のない事が、こんなにも怖い事だったのだろうか。身体が戦闘への拒否反応を示している。胸の前で握り締めた拳が、小刻みに震えていた。

「さようなら」

 立ち上がろうとする魔翔に杖を突きつけ、咲は薄く微笑んだ。くるくると細く回る杖の先端から文字を映した光が走り、魔翔の腹を貫いた。

 キィと断末魔を響かせ、横たわった黒い身体が空間へ溶ける。

「もう、雑魚なんだから」

 咲は芙美を振り返り、「大丈夫?」と気遣った。白かった異次元に喫茶店の風景が滲み、二人は元の店内へ帰還した。

 店に戦闘の跡はなく、何事もなかったように窓の外から住宅街の音が流れ込んでくる。

 急に力が抜けて、芙美は床にぺたりとへたり込んだ。硬い床がひんやりと冷たい。

「私は平気だよ。それより強いね、咲ちゃんは」

「どうしたの? 町子だって強かっただろ」

「町子は、そうだったけど……今は、こ、怖かったよ」

 正直な感想に、咲は杖をしまい芙美の前に手を差し伸べた。

 芙美はゆっくりと立ち上がり、促されるまま窓際の席へ戻る。咲は放置されていたカップを引き上げ、カウンターのサイフォンから再びカフェオレを淹れ直してくれた。

「ありがとう」

「気にしないで。久しぶりなんだから仕方ないよ」

 湯気の立つ猫のマグカップを口に運び、咲は「そうだね」と視線を落とす。

「今のは慣れてるから平気だったけど、初めて遭遇する形だとやっぱり焦るよ。危ないと思ったことは何度もある。もし戦闘で命を落としたら――私も生まれ変われるのかな」

「咲ちゃん……」

「でも町子……って、今は芙美か」

 思いたったように咲は芙美に視線を合わせた。真っ直ぐに向けられた赤いフレームの奥の瞳に、芙美は硬く息を飲み込む。

「記憶があって魔翔が見えるなら、何かのきっかけで力が戻る可能性があるかもしれないよ。一応、頭に入れといたほうがいいかも」

「魔法使いに……戻れるのかな」

 魔翔を目の前にして、何もできない自分が悔しくてたまらなかった。ただの人間は、こんなにも弱いものなのだろうか。

「戻りたいの?」

「……うん」と素直に返事して、芙美はカフェオレをすすった。スプーンですくったマシュマロを口に運ぶと、熱でフワフワと溶けていく。

「そっか。じゃあまずは杖が欲しいよね。私もこれがないと何もできないし」

 再び抜かれた杖を芙美は両手に受け取って、久しぶりの感触に緊張を走らせる。ペンより若干太い木製で、先端が細くなっている。町子や他の仲間もみんな同じ形状だ。魔法の杖とは言うが、事情を知らない人が見たらただの棒切れにしか見えないだろう。

「町子や類が発見された場所に行ってみたんだけど、どっちも見つからなかったんだよ」

「探してくれたの? 私、迷惑かけてばっかりだね」

「いいんだよ。それより、振ってみる?」

笑顔で頷く咲の提案に、もしかしてと期待を込める。芙美は「いいの?」と急いで椅子を下り通路に立つと、店の中央に向いて構えた。

昔、戦っていた頃の記憶を頭いっぱいにイメージする。杖の先端で魔法陣を描く事で、魔法を発動できる――筈なのだが。

 ぐるぐる、と。何度回しても手応えはなく、空しく宙を掻くのみだ。

「あれ……えいっ、えいっ」

 気合を込めて振っても、結局何も起きなかった。

「うーん、駄目だねぇ。やっぱり力はないのかな」

 腕組みをして咲は芙美から杖を受け取り、目の前でぐるぐると回してみせる。先端の軌道に合わせて、金色の光がキラキラと円を描いた。

「はぁぁあ。残念。もしかしてと思ったのに」

 がっくりと肩を落とし、芙美は席に戻る。

「私の杖だから駄目なのかもしれないよ?」

 見た目に差異はなかったはずだ。けれど五人とも使える魔法が違うので、何かそれぞれに仕掛けがあるのかもしれない。

「今度、ダムに探しに行ってみようかな」

「あんなトコロで十六年も野晒しにされちゃあ、望みが薄いんじゃないかなぁ」

 再び「はぁ」と溜息をつく芙美の横に手を付いて、咲はその顔を覗き込んだ。

「ところで。弘人達に会って行くかい?」

 名前を聞いただけで、衝動が走った。カップを持つ手が震えて芙美はそこから手を離すと、自分の胸元を強く握り締めた。見上げる咲の表情に困惑の色が滲んだ。

「どうする? 私が言うのもなんだけどさ……辛くなると思うよ」

 彼女の言葉の含みを、何となく予想する事ができた。

「……うん。でも、会いたいの。町子は死んじゃったんだから、仕方ないと思ってる」

 町子のいない十六年は長すぎたのだ。頭に浮かぶ弘人は十五歳のままだが、彼は今三十一歳。だから色々覚悟しなければいけないと、この町へ戻ると決めた時、自分に強く言い聞かせた。

「二人に、会わせて」

「分かった」と答えて、咲はテーブルから放した手を芙美の肩に乗せた。

「別に、強がる必要はないんだからね?」

「うん――ありがとう。あっ、でも……」

 重要な事を思い出して、芙美は慌てて柱に掛けてある鳩時計を見やった。

「帰りの電車、間に合うかなぁ」

 既に時間は三時半になろうとしていた。バスと電車と、自転車での移動時間。四時半にはここを出ないと、寮の夕飯に間に合わない。

「そっか、門限があるのか。高校生だもんね。何なら明日にするかい?」

「ううん。今日会いたい!」

 芙美は「お願い」と懇願する。ここで帰ったら、次会えるとは限らない。第一、気持ちが収まらなかった。

「分かった。じゃあ、私が寮まで送っていってあげる」

「本当? ありかとう、咲ちゃん。寮に電話するね」

 満面の笑みで頭を下げ、芙美は鞄からスマートフォンを取り出した。登録済みのアドレス帳から寮の番号を選ぶ。少し長いコールの後、寮母のミナが返事する。

『はい、浅風寮です』

「えっと……一年の有村芙美です」

 慣れない会話に緊張しつつ用件を伝えると、ミナは「分かりました」と了解する。

『学校の周りは暗いから、気をつけて帰ってくるのよ? とりあえず、送ってくれる方の名前と連絡先だけ聞いとこうか』

 ハッとして芙美は受話器から口を放すと、小声で咲に訴えた。

「連絡先、教えてって」

 慌てる芙美にクスリと笑い、咲はテーブルの隅に立て掛けてある手書きのメニュー表を指差した。お店の名前と住所、その下に電話番号の入ったスタンプが押されている。芙美はその番号を読み「送ってくれるのは、粟津咲さんという方です」とミナに伝えた。

「わかりました。門限は厳守よ。それまでなら――ゆっくりしてくればいいわ」

 夕食の準備はしているだろう時間だから、嫌味の一つも言われるかと思ったが、ミナは寛大にそんな優しい言葉をくれた。

 「ありがとうございます」と電話を切ると、今度は咲が自分のスマートフォンで電話を掛ける。芙美が慌てる間もなく、咲は繋がった相手に、

「町子に会わせてあげるから、二人でおいで」

 空いてる手を腰にあて、命令口調で言い放つ。

「二人……」

 その言葉に芙美の胸が痛んだが、今は深く考えないようにと自分を奮い立たせる。そして、受話器の奥から漏れる声にじっと耳を澄ませた。

『ちょっと待て、咲、お前――』

「いいから。三十分で来るんだよ?」

向こうの了解も待たずに、咲は通話終了ボタンを押し「すぐ来るよ」と親指を立てた。

 小さく聞こえた相手の声に弘人を確信することはできなかったが、通話が途切れた途端、急に身体が震え出す。いよいよ、その時が来るのだ。

「すぐ、って。どうしよう」

「そんな緊張しないで。そりゃ弘人には違いないけど、そんなに期待しちゃったら、夢が壊れるかもしれないよ? もうオッサンなんだから」

 歳が三十一なことは覚悟していたが、ストレートにそう言われると戸惑ってしまう。思わず浮かんだ『オッサン像』に、芙美はぶるぶるっと頭を振った。

 それから弘人が現れるまでの時間が芙美にはやたらと長く感じられたが、一台の車が店の前に停まった時、時計が指していたのはまだ四時前だった。

 窓に写る二つの影に「早いね」と咲が立ち上がり、芙美は心臓を高鳴らせる。嬉しさ半分で、残り半分は緊張と不安が入り混じっていた。十五歳の弘人はいないのだと呪文のように心の中で唱えると、鈴の音が静かな店内に響き渡る。

 先に現れた青年が店内を探し、芙美の視線と繋がった。

 (オッサン……)

「じゃ、ないよ……」

 ぽろりと零れた声に、咲が「え?」と振り返る。

「どうした? 弘人だよ」

 彼と視線を合わせたまま、芙美は「うん」と頷く。咲は嘘つきだ、と思った。一目で彼が弘人だと分かる。十六年も経っているのに、あまり変わっていなかった。髪が少し短くなって、少年らしさは抜けてしまったが、くっきりとした二重も尖った顎のラインも、十五歳の弘人のままだ。

 そして、彼の後ろから現れた女性も、町子の知る伊勢薫(いせかおる)そのままだった。思いより懐かしさに涙腺が緩んで、芙美は目尻を濡らした涙を指でぬぐった。

 芙美を見る弘人の表情が、困惑の色を滲ませる。こいつは誰だ、と言わんばかりに咲を振り向いた。

「この子が町子だよ。どういう経緯かなんてのは聞かないでくれよ? この子は十五歳。町子が死んだ後に産まれて、彼女の記憶がある。それだけで十分だろう?」

「生まれ変わった、っていうのか?」

咲の説明に弘人が視線を返す。その表情に笑顔が浮かんで、芙美は嬉しさと照れ臭さを覚えながら、「有村芙美です」と名乗り頭を下げた。

「町子……なのか」

 弘人は早足で町子の前まで移動して、その身体を足元からゆっくりと見上げていく。

 再び合った視線に芙美は「ただいま」とぎこちなく呟いた。

「おかえりなさい」

 弘人の横から声を掛けたのは薫だった。昔と変わらず目鼻立ちのハッキリした美人で、今考えると弘人がどうして町子を選んだのか不思議に思ってしまうほどである。

「ありがとう、薫」

「ほら、弘人も何か言ってあげなさいよ」

 咲に急かされて、弘人は「あ、あぁ」と人差し指で頭を掻いた。

「ごめん。突然すぎて驚いた、っていうか」

 突然訪れた町子の帰還を受け入れきれず、戸惑いを隠せない様子だ。けれど「本当なんだな」と念を押して、弘人は静かに深呼吸した。

「本当なら、嬉しいよ。お帰り」

「うん、ただいま」

 はにかんだ弘人にホッと息を吐き、芙美はテーブルにつくと、力がない事と今まで東京や名古屋で暮らしていたこと、今は町子と同じこちらの高校に居ることを説明する。

 目の前に座る弘人の顔をずっと見つめることができないまま、咲に補足を入れてもらいながら一通り話すと、彼が突然「なぁ」と切り出した。

「俺、彼女と二人で話してきてもいいか?」

「二人で、って。芙美はどうする?」

咲にいきなり振られて、芙美は「うん」と即答してしまう。二人きりになれることは、この上なく喜ばしい事なのに、心の隅にくすぶった感情がそれを「ダメだよ」と拒絶する。

 けれど。嫌だと言いだす事はできなかった。彼の横に座る薫は、笑うことも嫌がる事もなく、ぼんやりとテーブルの端を見つめていたが、

「薫も、いいね」と咲に同意を求められ、「ええ」と素直に頷いた。

「よし、じゃあいいよ。この店使って。私は薫と夕飯の買出しに行って来るから」

「私も?」

 これにはあからさまに嫌がる姿勢を見せる薫に、咲は「いいから行くよ」と外を促す。

「芙美、夕飯食べないって寮に連絡しちゃったから、みんなでごはんにしよう」

「えっ、悪いよ。私は何とかなるから」

 帰り道にコンビニにでも寄ってもらえれば、と思っていた。送ってもらう上に夕飯など申し訳ないと遠慮すると、咲が「もう」と頬を膨らませる。

「高校生は、こういう時「ありがとう」でいいんだよ。それに、芙美が帰ってきたお祝いに、弘人が奮発してスキヤキにしようって言ってくれたから」

「はぁっ?」

もちろん、そんな会話は展開されていない。驚く弘人に咲は「ねぇ?」と不敵な笑みを浮かべる。弱肉強食の世界ではないが、この場に置いて頂点に立っているのは咲のようだ。

「そ、そっ、そうだな。よし、俺の大人を見せてやる!」

 不本意ながらも胸をどんと叩き、弘人はズボンのポケットからサイフを抜いて、二万円を取り出した。「ごちそうさま」と咲が受け取り、「あっ」と突然声を上げた。

「忘れてた。この子力はないけど魔翔が見えるから、戦闘になったら守ってあげるんだよ?」

「見えるのか?」

「さっき魔翔が出てさ。オオカミだったから大したことなかったけど」

「さっき、って。ここでか?」

「そうだよ。だから、また出てもウチの店壊さないでよ? 類だって居ないんだから」

異次元を使っての戦闘は、地の魔法使いである咲特有の技だ。対してもう一人の仲間だった桐崎類は、魔法で破壊されたものを修正する技を持っていた。それ以外の魔法使いは基本、普段人の住んでいるこの次元で戦う事になる。一般人には魔翔や魔法は見ることができない為、何もない場所へ向かって杖を振る姿は「一人で何してるんだろう?」という感じになってしまうのに、魔法によって壊れる物は、そのまま壊れてしまうのだ。

「だったら尚更、外で話してくるよ」

 ただでさえ、ここは皿やグラスなどが多い場所だ。弘人の操る水の魔法で、全部床に流れ落ちてしまう可能性も高い。面倒そうに顔をしかめ、弘人はテーブルに乗せておいた車の鍵を掴もうとするが、咲の手がそれを制した。

「魔翔を倒すより、この店の状態を維持するほうが難しい」と豪語する弘人を、咲がぴしゃりと否定する。

「このご時勢、こんな可愛い女子高生が三十過ぎのオッサンと散歩やドライブなんて、ありえないんだからね?」

「まだオッサンじゃねぇよ。そんな他人の目なんて気にすることないだろ」

 弘人の漫然とした態度に、咲は負けじと眉を吊り上げる。

「困るんだよ。近所の人に、この店が援助交際を斡旋してるなんて思われたらどうするんだい? いいから、この中で。皿なら二枚くらい割ってもいいから!」

 半ば押し付けるように「じゃあ」と言い捨て、笑いを堪える薫を連れて咲は店を出て行ってしまった。けれど裏でエンジン音が鳴ってすぐ、咲は再び入口から顔を覗かせた。

「冷蔵庫にアップルパイ入ってるから食べていいよ。コーヒーも自由にどうぞ」

 それだけ伝えて、咲は今度こそ本当に買出しへと出て行った。


 二人を乗せた乗用車のエンジン音が遠ざかっていくと、台風が過ぎ去ったように店はシンと静まり返った。

「全く、アイツは」

 疲れた、と言わんばかりに肩の力を抜いて、弘人はカウンターに入り、銀色の冷蔵庫を開けた。手馴れた様子で切り分けられたアップルパイは、フランス料理よろしく大きなパスタ皿に乗せられていて、添えられたフォークも同じくパスタ用の大振りのものだった。おまけに切り口がガタガタといびつで、芙美はぷっと吹き出してしまう。けれど、弘人は至って真面目に「何笑ってるんだ?」と不思議そうに首を傾げた。

「ううん、何でもないよ」

「そうか。咲の料理は何でもうまいぜ。男勝りなのに、こういうトコ女らしいよな」

 サイフォンからガラスの容器を抜いて、弘人はふと手を止める。

「そういえば、苦いの飲めるようになったか?」

 町子はいつもカフェオレを飲んでいたから。彼がそれを覚えていてくれたことが嬉しくてたまらない。

「……まだ苦手だよ」と答えると、弘人は少しだけコーヒーを注いでから牛乳を足し、「どうぞ」と芙美の前に差し出してくれた。礼を言って受け取ったカップは牛乳のせいですっかり冷たくなっている。

 「俺は肉を待つ」と、お冷だけを持って向かいに座った弘人を眺めて、芙美は「いただきます」と、表面の網目がツヤツヤと光るアップルパイを口にした。

「本当だ、美味しい」

「だろ?」と弘人は目を細め、パイが半分ほど減った所で突然「なぁ」と切り出した。

「芙美ちゃん……だっけ」

「ちゃん、はいいよ。弘人に言われると変な感じがする」

 まるで自分以外の名前を呼ばれている気分だった。

 彼に会って、年月分の壁を感じた。「ふみちゃん」は芙美にとってどうしても壁を厚くする要因にしかならない。本当なら『町子』と呼んで欲しかった。けれど彼にとっての町子は、もうこの世にはいないのだ。

「じゃあ、町子にするかな」

 しかし弘人は突拍子もなくそんなことを口にする。

「そ、それでもいいよ」

 気不味さを覚えつつ、嬉しいと思ってしまう。

「わかった。町子、あのな……」

 言葉を躊躇って、弘人は人差し指で顎を掻く。

話辛さこの上ない内容を待ち構えて、芙美は大皿にフォークを置いた。

 直撃弾はすぐに飛んでは来なかった。その沈黙に押し潰されそうになって、芙美は、

「弘人、薫ちゃんと――」

「芙美」

 先に切り出そうとした言葉を、弘人は早口に遮った。

「あぁ。薫と付き合ってる」

 自分が芙美として生まれ変わったと悟った時から、この恋の結末は予測していた。

 町子として彼の恋人だった時から、薫の気持ちは知っていた。弘人に向けられた視線に込めた想いに気付きながら、見ないふりをしていた。

「……うん。謝らないでね。だって、町子は死んだんだよ? 私に町子の記憶はあるけど、芙美として生きてる。だから、気にしないで」

 自分のことで困惑する彼の表情を見たくなかった。

 三十一歳の弘人が目の前にいるのに、視界の中で十五歳の彼が重なって見えてしまう。

「……ごめんな」

 その言葉は、いらないのに。彼が悪いわけではないのだから。

「いいの。でもね、少しだけ淋しい。ずっと、弘人に会いたかったから」

 この言葉が言えただけで、芙美は満足だった。自分ができる、精一杯の抵抗だ。

 弘人は当惑の表情を見せるが、

「本当に、町子なんだな」

 失恋シーンの筈なのに、彼がそこから滲ませた穏やかな笑みに、芙美は面食らう。

「顔なんて全然違うのに、昔のまんまだ」

 急に涙腺が緩みそうになって、芙美は必死に堪えた。

 優しさなんていらないのに、弘人は立ち上がって芙美の横に移動した。

「強がるくらいなら、泣けばいいよ」

 大分、自分勝手なことを言ってくれる。もう俺のことは諦めろと突き放して欲しいのに。

「諦めさせてよ。その為に、来たんだから」

 自分の気持ちを終わらせたかった。彼に会いたいという感情と同じくらい、それを覚悟してここまで来たのだ。

「悪い男って言うんだよ、そういうの」

「それでも、いいから」

 急に手を掴まれて、引かれるままに芙美は立ち上がる。

「もう泣いてるでしょ?」

 どれだけ涙が出るんだろう。駅で泣いて、咲の前で泣いて、涙なんかすっからかんになった筈なのに、じわりと溢れた滴が頬を伝って床に落ちた。

 薫の顔が脳裏をよぎる。彼の胸を濡らすことは、彼女を悲しませることになる。

「薫の事、今は気にしなくていいよ」

「だから、それは悪い男のセリフだよ」

 うわぁん、と。それ以上抑えることができずに、抱き寄せられた胸で、芙美は彼の最後の温もりを感じながら、子供のように泣きじゃくった。


 気持ちを全部吐き出すように泣いて、芙美は「もう大丈夫」と彼を逃れて椅子に座った。弘人は「分かった」と頷いて向かいの席に戻ると、ぐっしょりと濡れたシャツのボタンを開きながら、「一つ聞いてもいいか?」と、目を細めた。

「ダムに行ったあの日、お前は大魔女を見たのか?」

 唐突な質問だった。芙美は腫れた瞼を指で確認しながら横に首を振る。

「そうか――類は会ったのかな」

「災いらしきものが起きてないなら、少なくとも倒せなかったって事だよね。咲ちゃんから聞いたよ、弘人が大魔女を探しにダムへ行ったって」

「あぁ。でも会えなかった」

「弘人も、大魔女を倒そうとしたの?」

「違うよ。俺はただ、町子や類が死んだ理由を知りたかったんだ。二人がいっぺんに死んで、深層に近付けるのは大魔女だけだと思ったから」

 申し訳ない気持ちになって、芙美は頭を下げる。

「勝手なことして、ごめんなさい」

「正義感が強いのは分かるけど、一人で無茶するなよ」

 誰にも相談せずに行動し、結局最悪な結果を招いてしまった。

「うん――ごめんなさい」

「二回も謝らなくていいから。折角生まれ変われたんだから、大事にしろよ?」

 頭だけ縦に振ってうつむく芙美を横目に、弘人は窓の外へ視線を逸らした。

「類も生まれ変わってるなら、会いたいな」

 ぼんやりと呟かれた言葉に、芙美は「えっ」と顔を上げる。魔法を放棄したいと言い出して輪を乱そうとする類を、弘人は嫌悪していたから。皆の前でぶつかり合う様子さえ目にしてきた町子にとっては、そのセリフに違和感さえ覚える。

 しかし、これが大人になるということなのだろうか。

 「そうだね」と返して、芙美は生温いカフェオレをすすった。

「そういえば、魔翔現れないね」

 そろそろ二人が買い物から帰ってくる時間だ。咲の心配も杞憂として終わりそうである。

「出ても、俺がどーんと退治してやるから、大船に乗ったつもりでいてくれればいいぜ」

 咲の危惧をよそに「皿の五枚や十枚、どうにかなるだろ」と、弘人は開き直っている。

 しかし、そんな心配も束の間、外にエンジン音が響いて、スーパーの袋を両手に抱えた咲と薫が「ただいまぁ」と戻って来た。

 早々に薫が弘人の濡れたシャツを見て、思い立ったように無言で芙美に詰め寄る。

 芙美は、弘人の胸で泣いた事を彼女に謝らなければならないと思っていたが、「町子、ごめんなさい」と先に薫が頭を下げた。町子の知る彼女は、冷静で控えめで、何でもやりこなしてしまう、芙美にとって憧れの女性だった。けれどプライドも高く、他人に頭を下げるなど屈辱的な行為なのではないかと思ってしまう。

「薫は悪くないよ。だって、町子は死んだんだから。謝るのは私の方だ」

 芙美がごめんなさいと頭を下げると、

「あぁ、もう。湿っぽい事しないの! それより弘人、手伝って」

 咲はその場を一蹴して店の奥に弘人を呼ぶと、カセットコンロや鍋を運ばせた。

「大丈夫だよ、私は」

 芙美の言葉に、薫は瞬くように頷いた。

 そして可愛らしい喫茶店の店内は、あっという間に甘辛いタレの匂いで充満してしまう。

 テーブルに並べられた肉のパックは種類ごと小分けになっていて、スーパーの物とは思えない衝撃価格が貼られているものもあった。そのせいか二万円分にしては少なく見える。

 そういえば昔、この店で鍋パーティをしたことがあった。類や咲のお爺さんもいたあの時より人数は減ってしまったが、この時間、この空間が、芙美が望んだ十六年振りの団欒だった。


   ☆

 すっかり暗くなってしまった帰り道。

 昼間の暑さが急に冷え込んで、オートエアコンが温かい空気を車内に送り出している。

 どんどん減っていく町の明かりを眺めていた芙美に、咲が「ねぇ」と口を開いた。

「あの二人を責めないでやってね」

 芙美はゆっくりと彼女に顔を向けた。対向車のライトが映し出すその表情は、さっきまで大騒ぎしていた事を忘れてしまいそうなほどに物悲しさにふけっている。

「町子と類が死んで、私たちにも色々あったんだよ」

「……うん。町子は薫の気持ち知ってたから、きっとそうなってるんだろうって分かってた。それに、あの日ダムに行く類を追ったけど、いつでも逃げられたんだよ。強情を張って最後まで戦ったのは、私だから」

「でも、それが世界を救ったのかもしれない」

「分からないけど。今日は、咲ちゃんが居てくれて、本当に良かったよ。ありがとう」

 あの二人だけだったら、きっと今こうして落ち着いてなんていられなかった。

「私はマイペースなだけだよ。元々は私の方が年下なのに、何かおかしいね」

 咲は安堵したように微笑み、オーディオのスイッチを入れた。小さめのボリュームで流れてきた音楽は、ボーカルなしにアレンジされた町子が好きだった女性歌手の曲だった。

「最近聞いてなかったんだけど。懐かしいだろ? さっき買い物行った時、町子の好きな歌だからって、薫が入れといたんだよ」

「薫……知ってたんだ」

 これは、苦いコーヒーが飲めないことを覚えていてくれた弘人への衝撃の十倍に値する。

 「びっくり」と呟いて、芙美は咲と目を見合わせ、けらけらと笑った。

「それより、今のご両親はいい人かい? 名古屋からわざわざこんなところまで来ちゃって、怪しまれてたりしてない?」

「うん。とってもいい人だよ。でね、実は凄い家に生まれちゃって」

 咲の驚く顔が浮かんで、芙美は少しばかり恐縮して両手を膝の上に置いた。

「どうしたの?」と一瞥する咲に、

「咲ちゃん、有村興産って知ってる?」と、ストレートに質問してみた。

「有村? ……あぁ。テレビでやってるやつ? ええと、海の白波を~」

 と、CDに被せて咲が歌い出したのは、日曜日の夕方に放送されている視聴率の高い国民的娯楽番組の合間に流れる、会社紹介のイメージソングだ。社歌をアレンジした物らしく、芙美の祖父がよく風呂に入りながら若干演歌調で陽気に歌っている。

 咲はそのまま一フレーズ歌いきって、会社のキャッチフレーズである、

「世界を繋ぐ橋でありたい、私たち有村グループ……って。え? 有村?」

 ようやく気付いて、咲は言葉をごっくんと飲み込んだ。一度冷静に運転に戻り、再び芙美をチラリと見る。

「有村……芙美、ちゃん?」

「……うん。うちのお爺ちゃんが、会長なの、有村グループの」

「まーじーかぁぁあああ!」

 男勝りの低い声で、咲は悲鳴に近い叫びを上げた。一瞬ハンドルから手が放れ、慌てて前を向く。旧道の田舎道、少ない交通量に感謝する。

「す、す、すごい人になってるねぇ? え? こういうのって、玉の輿? 嫌、違うか。結婚じゃないもんね」

「でもね、普通だよ。ウチのお父さん次男だし」

 祖父が会長である時点で、そのぐらいでは説得力に欠けるが。咲はうんうんと頷いて、

「生まれ変わるって、そういう問題も出て来るんだねぇ。私も覚悟しないと」

 息を荒げて興奮する咲に、「死んじゃダメだよ?」と芙美は注意する。

「分かってるよ。でも、こんな事言っちゃうと町子に失礼だけど、前より可愛くなったね」

「本当? 有難う」

 芙美もそれは少なからず感じていて、素直に「ありがとう」と礼を言った。

「咲ちゃんも髪が伸びて綺麗になったね」

 ショートカットでボーイッシュだった昔の記憶と比べると、大分女らしくなっている。

「周りがあんまり「男みたい」だって言うから、ずっと伸ばしてるんだ。褒めてもらえると有り難いね」

「今はもう着てないの? 戦闘服」

 魔法少女と言えば! と、咲がコスプレ好きの従兄弟に作らせた、レースフリフリのワンピースだ。男子にはローブだけだったが、町子も類も最後のダムでそれを着ていた。

「流石に今は……ねぇ。魔翔が現れるのも突然だし。芙美が着たいなら、用意しようか?」

「い、いいよ。可愛いけど、力もないし」

「どうなんだろうね。さっきの感じだと、杖があればもしかしたら――」

 食事の後、咲が弘人と薫に提案して、それぞれの杖を交換して力を試した。けれど結局、自分以外の杖では誰も力を発動できなかった。やはり杖も五本それぞれが違うようだ。

「どっかからひょいっと出てくるといいんだけど」

 何の飾りもない木の棒が、十六年振りに出てくる確率など、どれだけ低いのだろうか。

 あまりにも望みが薄く感じられて、芙美は大きく溜息をこぼした。


 寮に着くと、入口の外でミナが待って居てくれた。橙色の街灯がその姿を照らしている。

 時間を過ぎてしまって待ち構えられたのかと芙美は慌てて腕時計を確認するが、九時の門限まではまだ三十分ほど余裕があった。

 入口につけた咲の車を下りて「帰りました」と頭を下げると、ふわふわと香水の匂いを漂わせるミナが「おかえりなさい」と笑んだ。そして、車の中を覗き込んで咲に会釈する。

 咲は助手席側の窓を開けると、シート越しにミナを覗いて、「あれ」と突然言葉を零した。

「どうしました?」と言うミナの顔を見入って、ぎこちなく首を傾げる。

「いや。初対面の気がしなかったので。会った事……ありましたっけ?」

「良く言われるので、多分気のせいですよ」

 確かにミナは美人だが、強い個性もなく大勢の中に居たら埋もれてしまうかもしれない。

 咲が「すみません」と頭を下げると、ミナは「いいえ」と微笑んだ。

「じゃあ、もう行くね」

 咲は芙美に「いつでも連絡して」とお店の詳細が入ったカードを渡し、顔の横で小さく手を振った。

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