第2話 1.春
いつもより冬が長引いて、ようやく桜が咲いたと思ったら、カレンダーはもう四月に変わっていた。
始発で北上する新幹線はまだ人がまばらで、真新しい制服姿の有村芙美(ありむらふみ)は西側の窓際を陣取って、トンネルを抜けるごとに変わる風景に胸を弾ませていた。
高校の入学式。寮への入所と最終手続き云々も合わせ、大忙しの一日だ。
「楽しそうね」
広げた新聞の記事に大きく欠伸をしていた都子(みやこ)が、隣から芙美を覗き込んで微笑む。着こなされたツイードのスーツ姿が、反対側のシートに座るサラリーマンの目を引いている。まだ二十代前半に見え……なくもない。姉と言われれば誰もが納得しそうな容姿だが、彼女はれっきとした芙美の母親だ。
「そんなに嫌なら読まなきゃいいのに」
「日課だって言ってるでしょ」
毎度のセリフだ。彼女は十六年間、毎日新聞に目を通している。意欲的でありながらも、好きでもない政治云々の記事を真剣に目で追っている姿には、良く頑張るなと感心してしまう。都子のそんな頑固なところは、確実に自分の魂に影響を与えていると芙美はこっそり笑った。再び車窓へと視線を返すと、田舎の風景から再びビルの姿が見え始める。
あと、もう少し――駅を過ぎる毎に心の中でカウントダウンする。芙美の心境を察してか、都子がぱたりと畳んだ新聞を前のシートの網ポケットに突っ込み、
「恋してる顔だな、それは」
と、にやりと笑った。いつもの作られた『若奥様』ではなく、地の『有村都子』の顔だ。
「はあっ?」と仰天して芙美は彼女を振り返り、口をぽっかりと開いたまま赤面する。
「ち、違うよ」と頭に浮かぶ『彼』の顔を必死に振り払い、芙美は都子から逸らした顔を窓に寄せ、動揺を鎮めるように大きく息を吐き出した。
それから三十分程で着いた駅から在来線で二駅戻りタクシーに乗り込むと、数分で校舎が見えた。一度受験で訪れてはいるが、何度来ても懐かしいと思ってしまう。民家は殆ど無く、田んぼと畑と林に囲まれた白い校舎。
「ただいま」と。そう呟いて、芙美は脳裏を駆け巡る記憶に少しだけ目を閉じた。
一日があっという間に過ぎていく。
入学式、入所の手続きをバタバタとこなし、ようやく全ての日程を終えた時には既に都子を送る時間になっていた。校舎から丘を下る階段の下でタクシーを待つ。他に人気もなく、薄暗くなってきた風景に、ぽつりとある自動販売機の光が煌々と光っている。
校舎と道路の間に刺さった低い鉄の柵に腰を預け、都子が階段を見上げた。南に面した校舎の窓は職員室以外既に明かりが消えていて、建物が黒い影のように見える。
「綺麗な学校だったね。パンフレットと一緒」
初めてこの学校に来たいと言った日に渡した資料を、彼女は食い入るように見つめては、「本当にここでいいの?」と繰り返し尋ねてきた。彼女にとってそれは『反対』ではなく『確認』の作業だったのだが、顔をあわせる度に言われたのには流石の芙美もうんざりした。けれど、母親というのはそういう生き物なんだなと改めて実感した。
全国的に有名な学校でも、スポーツで推薦されたわけでもなく、名古屋から数百キロも放れた学校で寮暮らしをしたいなんて突然中学生の娘が爆弾発言したのだ。むしろ都子の反応は世間一般からすると「甘い」と言われてしまうかもしれない。まぁ、母親以外からは大反対を受けたのだが。
ずっとこの日を待ち望んでいた。この学校を受けても良いとようやく父親が折れてから、ここでの生活を思い描いてわくわくしていたのに、いざ独りになるのだと思うと、寂しさを感じてしまうことに自分でも驚いた。
「勝手に家を出ることを決めて、ごめんなさい」
「どうしたの、いきなり。ホームシックかな」
都子は柵から身体を離し、芙美の前に立つ。ヒールを除いても、彼女は背の高い女性だ。
「ずっとお父さんの仕事で振り回してきたんだもの。貴女が本当にそうしたいって思うなら、頑張ってみれば良いわ。でも、それがここだって聞いた時は、少し驚いたのよ。今更だけど、東京でも良かったのよ? お爺様の家から通ってもいいし。貴女の成績なら、有名大学の付属とか、お嬢様が入るトコとか選び放題じゃない」
「ごめんなさい、お母さん……」
「謝らないの。あのね芙美、お母さんは貴女を早く産んだから、お父さん以外の男の人を知らないのよ。だから、貴女にはもっといっぱい恋をして欲しいの」
大会社の社長の次男であることで、何の不自由もない生活に嫌気がさして家を飛び出た少年と、彼に憧れた少女の恋物語だ。母が十六歳で芙美を授かり、父は親であり有村グループ会長である芙美の祖父に土下座したと言うのは、親戚の中でも有名な話だ。
「お父さんとお母さんの秘密よ」と前置きしつつ、都子が何度も見せてくれた家の本棚にひっそりとしまわれている赤いアルバムには、まだやんちゃだった時代の父・和弘(かずひろ)と都子の写真がいっぱい貼られていた。
太陽のような金色の髪。マニュアル通りの『不良』像に、最初見た時は思わず笑ってしまった。けれどそんな二人はどの写真も楽しそうに笑っていて、見る度に芙美は嫉妬する。
大学も中退し、単車を乗りまわしていたと言う和弘。芙美の知る『父親』の彼は、スーツを着て、真面目でいつも仕事が忙しくて。けれど疲れて遅くに帰ってきても、家族には「ただいま」と笑い掛けるやさしい人だ。
二人とも家族のために頑張ったのだ。和弘は全力で仕事をし、ごく普通のサラリーマンの家で育った都子も慣れない新聞を読んだり、父の横で相応しいと認められるように。
ただ、二人とも時折過去を垣間見せる時があり、普段とのギャップに芙美は吹き出しそうになるのを堪えることも良くあった。
「ねぇお母さん、私ができたってわかった時、嬉しかった? お父さんは喜んでた?」
一度聞いてみたいと思っていたことを尋ねてみる。きっと、こんな時しか聞けないと思ったから。思い立った時に行動しないと、次が来ないかもしれない事を芙美は知っている。
「突然、恥ずかしいこと聞くのね」
都子は「えっ」と動揺の色を見せるが、「そりゃあね」と笑って、
「お父さんは大喜びだったよ。その時は二人で激貧の生活してたから、全然生活力なかったけど、そんなのはどうにでもなるって。トオルの時もそうだったけど、芙美の時は尋常じゃないくらい舞い上がってた」
トオルは芙美の三つ下の弟で、先週名古屋の私立中学に入学したばかりだ。芙美もおとといまで名古屋にいて、昨日は東京の祖父の家に泊まり、今朝新幹線で東北に入った。
「もちろん、私も嬉しかったんだからね」
と、都子は懐かしむように目を細める。二十年近くも一緒にいるのに、今だに仲の良い二人が、芙美は羨ましくてたまらなかった。
この二人の子供になれて良かったと思う。
「和弘さんは芙美が大好きなんだから。ここに来ること説得するの、大変だったのよ」
距離もあったが、高校が共学であることに和弘は激怒した。それを何度も頼み込み、最終的には都子が色気と勢いでたしなめて勝ち取った入学だ。
「ありがとうね、お母さん」
「心配だけど、芙美の事信じる。私の娘なら、弱いわけがないじゃない。それに――」
都子は僅かに躊躇って、けれど、にやりと唇の端を上げる。
「貴女は、魔法少女なんでしょ?」
突然の発言に、芙美は面食らった顔で赤面する。
都子は悪戯っぽく笑って、真っ直ぐに立てた人差し指を自分の唇にあてた。
「だから、頑張って」
俯いたまま黙り込む芙美は、ちらりと顔を上げ、見合った都子の瞳から視線を逸らすように「ありがとう」と頷いた。
彼女に、父親に、本当に感謝している。
十六年前の冬、ダムでの戦いで佐倉町子が死んで、眠りに付いたはずの魂が、有村芙美として蘇った。町子の記憶は、全てある。だから、この人を何度も悲しませてしまった。
――「私は、魔法使いなの! 私のママは貴女じゃない!」
記憶が混同して、小さい芙美は都子に感情をそのまま投げつけた。二人で泣いた日が何度もあったが、都子はいつも芙美を突き離さずに言葉を受け止めてくれた。
「ありがとうね、お母さん」
もう一度感謝を伝えると、都子も「ありがとう」と芙美の頭をグシャグシャに撫でた。
かつて、日本には一人の大魔女がいた。
自らが持つあまりにも大きな力に苦しんだ彼女は、五つの魂にその力を吹き込み、五人の魔法使いが生まれるが、後に五人はその力を放棄し、力を大魔女へ戻す選択をする。
大魔女は窮した。力を一人で抱える苦しみを再び負うことを拒み、別の人間へと託す。
その一人が佐倉町子だ。
偶然大魔女に会い魔法少女になった町子は、他の仲間と出会い、恋をする。
魔法を喰らうという魔翔との戦いは、新しい五人の魔法使いには弱すぎる敵だった。
しかしある日、仲間の一人である少年・桐崎類が「魔法使いを辞めたい」と言い出したことをきっかけに、仲間に亀裂が生じる。
彼はあの雪の日に、ダムの側にあるという大魔女の祠を目指した。彼女を殺して魔法の力を放棄するためだ。けれど、大魔女の死は世界の災いを引き起こすと言われている。
だから。類の行動に気付いた町子が彼を追い――命を落とす。
それが何故、芙美として生まれ変わったのか。あの時どうして類と戦わねばならなかったのか。答えが分からないまま、芙美は町子が死んだ歳まで成長していた。
そして答えを求めて、ここに帰ってきたのだ。
☆
都子を送り、芙美は寮へと戻る。
昇降口側の校門を抜け、道を挟んだ向かいに建てられた三階建ての学生寮は、町子が居た十六年前にはなかったものだ。郡部からの生徒も多く、当時は民間の下宿に入っている生徒が多かったが、建物の老朽化などからの受け入れ側の縮小もあり、保護者会が学校へ要望して建てられたという。
芙美にとってはまさに好都合な話だ。レンガ風に建てられたお洒落な外観は古い洋館を思わせるもので、山の風景によく映えていた。
割り当てられた三階の部屋に行くと、消していったはずの明かりが扉の隙間から漏れていた。二人部屋のルームメイト。同じクラスのはずだが、まだきちんと挨拶をしていない。
芙美は都子に撫でられた髪を手櫛で直し、「よし」とドアをノックした。
「はいっ」と、少し緊張気味の声がしてバタバタと足音が近付いて来る。芙美が名乗るのを待たずに扉が開かれ、中から飛び出してきたのは、くりくりとした大きな瞳が印象的な背の低い少女だった。両耳の下で結ばれた髪が勢い余って胸元で揺れている。淡いピンクのワンピース姿は、小さくまとめられた可愛さに拍車をかけていた。彼女は、芙美をルームメイトと認識してか、「お帰りなさい」と笑顔を見せる。
「ただいま」とぎこちなく返事して、芙美は通されるまま中へ入る。居場所に困って、とりあえず対面に置かれたベッドの一方に腰を下ろした。
窓際に並ぶ机を挟んで、ベッドが左右対称に置かれている。入口側に大きなクローゼットと洗面台、中央には小さな丸いテーブル。どれも初めから備え付けられているものだ。広い部屋ではないが、フローリングの色に合わせた木目調の家具が見た目にも心地良い。
「こっち使って良かったかな?」
「うん、オッケーだよ」
右手の指で丸を作って、もう片方のベッドに座る彼女は、「私、森山恵(もりやまめぐみ)です」と短く自己紹介して、ぺこりと頭を下げた。
「有村芙美です。よろしくお願いします」
挨拶が硬いかなと思うが、これ以上の言葉がパッと浮かんでこなかった。クラスでの自己紹介も明日だと聞いている。名古屋からわざわざ来た理由を聞かれなくとも求められる気がして、その答えを必死に探していると、ふと恵と目が合った。何か言いたそうにうずうずしているのが伝わってきて、尋ねるように首を傾げると、恵はパッと笑顔を広げて両手を胸の前に組んだ。
「芙美ちゃんは、か、彼氏はいるの?」
予想外の質問に、芙美は「えっ」と声を漏らした。
「か、彼氏はいないよ」
ふいに浮かんだ弘人の顔に答えを躊躇うが、彼は町子の恋人だ。しかも十六年前の話で、もう終わった恋なのだと芙美は小さい頃からずっと自分に言い聞かせてきた。けれど、
「じゃ、好きな人は?」
「それは……」
「いるんだ!」
恵が目を輝かせている。勢いに押されるままに、「……いるけど」と小声で答えたが、急に恥ずかしさが込み上げて「違うの!」と慌てて否定した。挨拶してまだ五分と経っていない相手に、何を話しているのだろうか。
「憧れる人、っていうか。かなり年上だし」
涼しいくらいの室温なのに、一気に身体が熱くなる。
「歳なんて関係ないよ」
恵は立ち上がると芙美の隣に座り、満面の笑みでその表情を覗き込んだ。
「芙美ちゃんって、名古屋から来たお嬢様なんだよね。彼も名古屋の人なの? もしかして、家柄で交際できないとか?」
もう、恵の想像はロミオとジュリエットまで達してしまった。
「そんなんじゃないよ。お嬢様っていうのも……そうなのかもしれないけど、普通だよ?」
極々一般家庭で育った町子の記憶があるせいで、有村の家柄が未だに夢物語のように感じてしまう。不良上がりの和弘と都子が型にはめずに自由に育ててくれたお陰で窮屈な思いを感じたことはないが、やはり東京の本家に行くとやたら緊張してしまうのは事実だ。
ただ、『お嬢様』という肩書きを鬱陶しく感じながらも、そんな家に生まれたからこそ、こうしてここに戻ってくる事ができたのだと感謝する。
恵は謙遜する芙美に不満そうに眉を寄せ、けれど「でも」と表情を緩めた。
「どっちでもいいよ。友達なんだし。ね?」
ルームメイトがどんな人なのか心配したこともあったが、この笑顔が全て杞憂であったと教えてくれる。そして芙美は少しだけ弘人のことを話したくなった。
「うん――相手の人はね、私のことなんて知らないの。一方通行で話したこともないし」
彼の存在は誰にも話すことはなく、ずっと心の中で想ってきただけなのに、いざ口にすると途端に現実味が増してきて心が逸った。彼を想うと、自然に芙美も笑顔になる。
「でも、好き」
「そっかぁ。じゃあ、私が応援する」
両手でガッツポーズを決め、気合を入れる恵。
「ありがとう。で、恵ちゃんはいるの? 好きな人」
きっと彼女も恋してるんだろうと思って尋ねてみると、一瞬恵の表情に陰が差した。けれどすぐに元に戻り、「ううん」と横に首を振る。
「今はいないの。だから、これから見つけるんだ」
聞いてはいけないことだったのだろうか。過去を思わせる台詞は、彼女の記憶をえぐり出してしまったかもしれない。しかしそんな芙美を察して、恵は「大丈夫」と胸を張る。
弘人に初めて会ったのは、町子が高校に入ってすぐのことだ。
大魔女から力を得た後の顔合わせの時。高校は別々だったが、同じ歳だったせいかすぐに打ち解け、一ヶ月も経たないうちに彼から「好きだ」と告白された。
最初は友達の延長線程度の想いだったが、一緒に居る時間が楽しくて、夏になった頃には本当に好きでたまらなくなっていた。
いつもみんなの中心に居て前向きな弘人は、町子の死を知って悲しんでくれただろうか。何も言わずに飛び出してしまったあの朝を申し訳ないと思いつつ、芙美へと生まれ変わった自分があの頃の続きを送れたらと気持ちを膨らませていた。
やっとの思いでここまで来て、まず始めに彼に会いに行こうと思う。現実を受け止める覚悟はまだきっとできていないけれど、それでも彼への気持ちが大きくなりすぎて、遠くでただじっとしているわけにはいかなくなってしまった。
「ねぇ、芙美ちゃん」
夜ベッドに付くと、恵が天井にぼんやりと視線を漂わせながら芙美を呼んだ。消灯時間が過ぎていて部屋は暗かったが、カーテン越しの月明かりが、青暗く中を照らしている。
「どうしたの?」と芙美が彼女の方へ寝返ると、恵は顔だけをこちらに傾ける。
「今日はいっぱい聞いちゃってごめんね」
「いいよ。気にしないで」
恵は言い難そうに口を開く。昼間の明るい元気な彼女ではない。
「私ね、中学時代にめちゃくちゃ好きな人が居て、この間卒業式の後に告白したんだ」
女子の心をくすぐる恋愛話に芙美は答えを求めようとするが、すぐに言葉を飲み込んだ。それが喜ばしい話でないことを知っている。
「一緒に居ることも多かったし、彼も同じ気持ちだと思ってたんだけど。私だけ舞い上がっちゃってたみたい。そういう目では見れないって、ハッキリ断られちゃった」
「そう……なんだ」
「だから、ここでカッコいい彼氏を見つけて、高校生活をエンジョイするから!」
布団の中でくるりと身体を芙美に向け、恵は笑顔で意気込んだ。
彼女の前向きさを羨ましく感じる。是非見習いたいものだ。
「私も頑張りたい」
「一緒に頑張ろうよ」
布団から手を出し、芙美が「うん」と親指を立てると、恵も同じようにサインを返した。
「ねぇ芙美ちゃん、私のことはメグでいいよ」
「了解。よろしくね、メグ」
弘人に会えますように――。
眠りに付く五秒前。芙美は願いを込めて手を組んだが彼は夢に出てきてはくれなかった。
☆
清蘭(せいらん)学園学生寮・浅風(あさかぜ)寮の朝は、六時調度に流れるピアノで始まる。音大へ進んだ卒業生が残した音源らしいが、あまりにも静かな曲調のせいで目覚めへの促進効果が乏しい。
芙美が起きかけのまどろんだ意識の中布団の温もりを堪能していると、洗顔を終えた恵ことメグがタオルを首に掛けて「遅刻しちゃうよ」と急かす。
芙美は朝が苦手だった。いくら睡眠をとっても、目覚めだけはスッキリしない。
流れるピアノが二曲目に入るが、これも睡眠を助長する緩さだ。いっそのことベートーベンの運命でもかけてもらったほうがパッと起きる事ができるかもしれない。
「ほら、あと三十分だよ!」
朝食は六時四十五分。下のフロアに男子がいるせいで、一階の共有フロアはパジャマ厳禁だ。『平日の朝食は制服で』と、入所時に渡されたプリントに書いてあった。
「三十分なら、まだ余裕だよ」
顔を洗って、歯を磨いて、髪を整えて制服に着替える。食堂までの移動を考えると、ざっと見積もって十五分あれば余裕だ。
「そんなの、駄目ぇ!!」
のんびりと起き上がる芙美に、メグは腰に手を当てて主張した。芙美がびくりと身体を震わせ怒り気味の彼女を見上げると、メグは既に制服姿でヘアブラシを手にしていた。
「今日はクラスで自己紹介があるんだよ? 最初が肝心なんだから!」
気合充分に髪を両サイドに縛り上げるメグに触発され、芙美はようやくベッドを下りた。
そういえばあまり覚えていないけれど、町子である頃の夢を見た。あれは、大魔女に初めて会った時の事だ。黒いローブを身に纏った、絵本に出てくる『魔女』そのものだ。魔法少女になりたての頃に数回しか会ったことがないのと、黒い姿のインパクトが強すぎて、顔の記憶が全くない。そんな黒い魔女と対面するだけの夢だった。
部屋の隅にある小さな洗面台で顔を洗うとようやく目が覚めてきて、鏡に写る顔に自分が芙美であることを思い出す。昔の夢を見ると記憶が混乱してしまう事があるが、最近は区別が付くようになってきた。
芙美は大きな目が都子と良く似ていた。町子がコンプレックスに思っていた低くて丸い鼻も、彫りの深い和弘のお陰で、ちゃんと筋が通っているし、トーンの低かった声も気にならなくなった。ただ、うねうねと癖のある髪はストレートだった町子を羨ましく思うが、総合的に見れば合格点だ。
『神様有難うございます』と、和弘と都子の元に産まれた幸運に感謝しながら、芙美はいつもより二割増の気合で身支度を整えた。
「有村芙美です。名古屋から来ました」
今日一日で、何回このセリフを口にしただろう。朝、寮母の若い女性から始まり、寮長、クラス、それに授業毎の担当教師への挨拶。最初は『有村』の肩書きにざわめいていたクラスメイトも、父親の仕事が忙しく転勤が多い事、その為に寮のある学校を選んだ事を説明すると、予想以上に皆が納得してくれて、後半はもう誰も騒がなくなっていた。
メグは持ち前の可愛さと早朝から励んだ百二十パーセント増しの気合で、男子の注目を浴びていた。教師陣は流石私立と言わんばかりに芙美の見知った顔ぶれが多い。十六年の時は過ぎているが、少し老けた程度であまり変わりなく、懐かしさに芙美は心を躍らせた。
同じクラスから寮に入ったのは、芙美とメグ以外に男子が二人だ。全部で五十人程度の寮で、この人数は多いほうだと言う。一人は陸上競技の推薦で県外から来たと言う背の高い人で、もう一人は少し癖のありそうな人だった。
「熊谷修司(くまがいしゅうじ)です」
面倒そうにそれだけ言って、すぐに腰を下ろしてしまう。後ろから三番目の窓際の席で、自分の挨拶以外はずっと外をぼんやり眺めていた。
放課後、寮に帰る彼を見つけてメグがこっそり耳打ちしてくる。
「ちょっと変わってるね。でも、ニヒルな感じがカッコいいかも」
芙美は驚いて、「えっ」と聞き返してしまった。彼女の倍の時間この世に生きているつもりだが、ニヒルなんて言葉を口にしたことはない。メグは実はもっと古い時代に生きた人の生まれ変わりなのではないかと疑いつつ、芙美は建物へ入って行く修司の背を見送った。
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