第七話 そこはどうでも良い事なんだけど

 良人の目には、さっきと変わらない不気味な紫色のうにうにが目に入るだけだ。百とんで五歩譲って紫モズクだろうか。

 ちなみに良人はモズクが嫌いだ。


「それが狂化学者マッドケミストの証、ですか」


 良人の言葉に源蔵が頷く。


「化学の神に認められし者だけがこの液体を創造できるんだよ」

「化学に神様がいる方が驚きです」

「良人君は遅れているなぁ」


 源蔵の顔に浮かぶ、困った子だ、の文字を見た良人は心でごちる。


 ――遅れてるとかの問題じゃないよ……なんで神様とかいるのさ。


「日本神話でもまず天地開闢で神様が生まれだろ?」

「そこからですか? というか日本ですか?」


 他人の心を知ることができるという他心通を持っているわけではない源蔵は良人の胸の内などお構いなしに先を続け


「そこはどうでも良い事なんだけど」

「どうでも良いんですか……」


 そして会話は袋小路に迷い込み


「良くある話だからね」

「ふりだしに戻された!」


 不意に周囲の壁が倒れた。

 ベルリンの壁なんて朝飯前のインシデント扱いにできる程のこんにゃく並に弾力を持った壁だが、源蔵の前には障子紙と同意義でしかなかった。


「西洋だとアダムとイブとかね。ポトンと生み出される行為そのものが化学だよ」

「神話を否定しましたね?」

「物質を変化させて新しいものに変えるのだから化学だろう」

「神代の時代に化学という言葉が存在していたら、その可能性も一億分の一くらいはあったかもしれませんが」


 一点の曇りもない純粋な瞳の源蔵に、ある意味神様だこりゃ、と良人は音をあげ、天を仰ぎ見た。

 掃除が行き届かなくて地層になっている汚れが目にはいった。積もり積もって芸術的に複雑を極めている。

 源蔵の話とどっこいだ。


「そんなわけで、我が一族は」

「【そんな】の説明がありませんが!」


 すかさずツッコんだ良人に対し、源蔵は目をぱちくりさせた。


「せっかちだなぁ」

「えぇ、お前はカップラーメンにお湯を入れても二分半しか待てないくらいせっかちだって言われます」


 だんだん語気が強くなっている自覚がある良人だが、これの原因が源蔵にあるのだから仕方がないんだ、と自分に言い聞かせた。


「カップラーメンは調理方法をきちんと守ればそれなりに美味しいんだ」

「カップラーメンの話題を振ったことは謝りますからそこに突き進まないでください!」


 地下工事をしている道路に突然ぽっかりと口を開いた穴にもぐるよりも深く、涙目の良人は頭を下げた。


「では話を戻そう」


 またもふりだしに戻されたわけだが、良人はもはや苦情を申し立てる気にもならなかった。

 早くこの危険な話題から遠ざかりたいとすら思っていた。


「我が家にある【創造の円文字】の上に変化させたい物質を載せて言葉巧みに誘うんだ。そうすると口車に乗ってしまった物質が変異を始める。そうしてできた努力の結晶が、これだ」


 源蔵が人差し指と親指に挟まれた注射剤アンプルをかるーく振るった。中身の紫のモズクがぐにゃりと揺れる。良人の頭もぐにゃりと歪みそうだ。


「もう、どこから突っ込んで良いのか分らないくらいツッコミどころがあり過ぎて僕の頭がおかしくなりそうです」

「良人君の頭が残念なのは元からだろう」

「えぇ、僕の頭は元から残念ですがそこに突っ込まないでください」


 不退転の決意を持って源蔵に相対する良人は、キャインと尻尾を隠して弱音を吐く勇気の尻にバットを叩きつけて奮い立たせた。


「というわけで、我が一族は神代の時代から続く化学者ケミストという名誉ある仕事を、数千年の時を経て数百年続く由緒ある狂化学者マッドケミストとして継続しているわけだ」

「すみません、数千年続いて数百年続くとか、僕の頭がウニになりそうです」


 良人の頭はプリンに醤油をかけたウニ味プリンと化していた。 

 とろっとろで食べごろだ。


「少し違うな。数千年の時を経て数百年続く、だ」

「……ビッグバンからすれば数千年とか僅かな差なのでもうどうでも良いです」

「大きく出たな」


 源蔵がニヤリと笑う。


 ――なんでこう打てば響くレベルで頓珍漢な答えが返ってくるんだろう……


 良人が乾き悩みを爆発させている間にも、時はズカズカと土足で歩いているのだ。


 気がつけば日付変更線を越え、今はタヒチ辺りでバカンスを楽しんでいるであろう昨日という思い出は過去に飛び去っていた。十二月二十五日になってしまったのだ。

 意識するのを待っていたのか、冬の冷え込みが部室を襲う。独り身でブラックサンタを待ち望む良人には骨の髄まで染み込んでくる寒さだった。

 石油ストーブは燃料切れで音をあげていた。根性とやる気が足りない石油ストーブだった。


 ――あー、暖房器具がない部室は寒いや。


 未成年故に酒を飲めない良人はぶるっと身体を震わせ、背中を丸めた。這い寄る冷気が容赦なく良人の身体を揺する。


「大分冷えてきたな」


 源蔵がそう呟くが、彼の格好は昼間と変わらずにストライプのYシャツに汚いエプロンだ。見るだに寒気しか起こらない。逆に見ている良人が凍りそうだ。


「そうは見えませんけど」


 良人は口を尖らせた。


「このエプロンは、こう見えても体の周りにコンドームよりも薄い極薄の真空の層を創りだして外気温度を遮断して体温調節もできるスグレモノだ」


 源蔵がエプロンを自慢げに叩く。ボフワァっと埃が舞い、あたりにダイヤモンドダストを起こした。


「キラキラして綺麗です」

「触ると死ぬぞ」


 思わず腕を伸ばしかけた良人に死刑執行のブザーが鳴った。良人の体は接着剤でぬたくったように固まった。


「死ぬんですか?」


 良人は顔をギギギと源蔵にむける。


「死ぬ」


 死刑を宣告する源蔵の顔は厳しいものだった。


 ――そんな危険極まりない迷惑至極なエプロンを、さも女子力高いんだぜと見せつけるように着こなしていたなんて、信じられない!


 源蔵はふっと顔を緩めた。


「三秒ルールというものがあってな。直ぐに離れることが

「死なないじゃないですか」

「ま、触れた瞬間に身体が凍って結局はお陀仏だ」


 良人はがっくりと項垂れた。


 ――この人とまともに会話ができると思った僕が間違っていたんだ。宇宙人と交信するくらいの気合で当たらないと、僕は死ぬ。きっと死ぬ。


 改めて認識した未知との遭遇に良人は自らの不幸を思い知る。そんな良人に源蔵がいたわりの声をかけてくる。


「寒いのなら、君にもこの【超薄型夜も安心真空断捨離】機能を付けてあげようか」


 首を垂れていた良人が顔を上げると、そこにはいままでの行いを全て正当化しきった、満足げな笑みを浮かべる源蔵の顔があった。

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