第66話 2人きりのASMR(1)
「あー、雀ちゃん飼い主さんこっちこっちー!」
目的地のスタジオに入ると、見覚えのある女性が立ち上がって手を振る。
ギギギ、と壊れたブリキになって、隣の寧々を見るとまったく動揺した様子はない。
「あの、あそこで手を振ってるの勘違いじゃなかったら猫神様に見えるんだけど……」
「海外旅行でも詳しい現地の人に案内を頼むでしょ?」
「えっと、それはつまり」
「分からないことも多いし、雫ちゃんに頼んだ」
表情を変えずにサムズアップをする寧々。
でもこの顔は悪戯が成功した時の顔だ。
「ダメだった?」
「いえ……」
文句を言おうにも私は結局一介のオタクに過ぎずに、力なく首を振るしかできなかった。
「飼い主さん、雀ちゃん、久しぶりにゃ!」
「お、お久しぶりです」
「雫ちゃん、おひさ」
「雀ちゃんとは結構な頻度で一緒にゲームしてるから久々な感じはしないにゃね」
「そうかな?そうかも」
腕を組んで仲良しな二人の後ろで所在なさげにこちらを見ている女性と目が合う。
猫神様のマネージャーで確か名前は……
「
「あ、名前覚えててくれたんですね。飼い主さん、お久しぶりです」
名刺とか持ってきた方が良かったかな……?
ぺこりとお互いにお辞儀をして、こういう場の正解を探していると栗花落さんが「大丈夫ですよ」と笑った。
「別に堅苦しくならなくて大丈夫ですよ。猫神が暴走しないように見守る要員として派遣されましたけど、私自身は配信を楽しむ1ファンとしてやってきた部分もあるので」
「そ、そうですか……?分かりました」
それでも緊張はしちゃうけど……だって猫神様がいる。
サブスクも3年近く入っているしボイスも買っている身からすると、この状況は非常に心臓が高鳴って落ちつかない。
ドキドキを抑えるように小さく深呼吸をすると、寧々と猫神様が近づいてくる。
「にゃ、飼い主さんは相変わらずかっこいいにゃ」
突然、猫神様に声を掛けられて、肩が跳ねる。
そんな様子を見て、猫神様はからからと笑った。
「そんなに緊張しなくていいにゃ。今日は機材の説明と放送の準備のお手伝いにきただけにゃ」
「は、はい……!」
両手を前に「はい」と返事をすると猫神様が真面目な顔になって、隣の寧々を見る。
「雀ちゃん、緊張してる飼い主さん、可愛いにゃ」
「分かる」
腕を組んで後方幼馴染面をしている寧々と、猫神様の会話に緊張がほぐれたような気がした。
◆◆◆
『飼い雀ASMR配信! ※VG@プラスさんのスタジオをお借りしてます』
時刻は15時。
配信予約をしていた画面から待機画面へと移る。
下切雀ちゃんねるの待機画面は凝っているわけじゃないが、非常に素晴らしい出来だ。
フリーBGMが流れ、外部依頼で描いていただいた下切雀が身体ごと左右に揺れながらリズムに乗っていて、とても可愛らしい。
コメントも続々とついている。
土曜のお昼なのと、VG@プラスさんのネームバリューもあっていつもよりも多くの人が集まってくれている。
始まるまでの1時間と少しの間、猫神様や栗花落さんと機材の確認や注意事項、あとはASMRに使用するかもしれないものを@プラスさんが用意してくれたらしく、それの確認もしていた。
目の前にある100万円を超えるようなダミーヘッドマイクには緊張しているが使い方は分かりやすい。
要はこのダミーヘッドマイクがリスナーさんだと思えばいいわけだ。
ばっちりかどうかは分からないが、不安材料はあんまりないと思う。
そして私たちが用意してきたものの1つ、持ってきたノートPCには2人で考えたやること、やりたいことリストが入っている。
その1発目、ウケるかどうかはまだ分からない。
ただ先制パンチには最高だというお墨付きは猫神様からもらっていた。
待機画面を開けて、配信画面を映す。
揺れる雀と立ち絵の私が映り、『こん雀』のコメントが流れていくのを見ながら、ゆっくりと私は息を吸い込み、声を出した。
「こんばんは」
『ひゅっ』
『耳に飼い主さんの赤ちゃんできた』
『声かっこよすぎる』
「今日は、どうしたのかな?」
いつもより低めで、かっこいいを意識して声を出す。
流石に男性みたいにはならないけど、そこそこかっこいい声にはなっていると思う。
どうだろう?
『婚姻届けにサイン貰いにきました』
『音の鳴らないちいちゃい拍手してる』
『しゅき・・・』
コメント欄の様子はややおかしいけど、好評なようだ。
笑みを浮かべながら、次は寧々の番だと視線を向けた。
「そんなのわざわざ聞かなくても、分かるでしょ……?」
『ピッッッッッッッ』
『えっ、これ雀ちゃん???』
『えちだ』
私の言葉への返答は雀よりも寧々の声に近い。
先日、バズった『邪魔するな』
高評価お気に入りにして定期的に聴いているそれの反応が良かった通り、普段出さない声というのはウケる。
だからこの台本を作る際に、寧々が自ら敢えて語尾を封印してあの時の『邪魔するな』に近づけることを選んだ。
耳が赤くなってるからやっぱり恥ずかしいみたいだけど。
「言ってくれなきゃ、わかんない」
焦らすように問いかけると、寧々の口から小さく声が漏れる。
やがて、寧々は恥ずかしそうに「寂しいから……ぎゅって、して?」と呟いた。
『やばすぎ……』
『こんなんお昼からいいんですか???』
『飼い雀すこだ……』
「えっ、かわい」
『飼い主さんの本音漏れてて草』
『飼い主さん崩れてるw』
『草』
「ということで下切雀チュン。今日はこんな感じでいちゃいちゃASMRやっていくチュン」
「飼い主です。いちゃいちゃはしませんが今日はよろしくお願いします」
『わ、いつもの二人だ』
『嬉しいような悲しいような』
『雀ちゃんの声が直に脳に届く……』
『いちゃいちゃして♡』
『もういちゃいちゃしてるんだよなぁ……』
「今日のテーマは仲良し、ということでスライムだのオイルマッサージだの色々案はあったチュンけど、今日は仲良しだからこそできる質感のASMRをやっていくチュン。改めて、スタジオを貸してくれたVirtualGamers@プラスさんにはとても感謝チュン!」
「本当にありがとうございました」
ぺこり、とスタジオの外にいて配信を見ている猫神様たちに改めて頭を下げる。
『オイルマッサージ……』
『感謝してるけどそれはそれとしてオイルマッサージは気になる』
「ふふっ、変態さんチュンね」
コメント欄を見ての言葉にコメント欄がさらにざわつく。
今のをこのマイクを通したらどんな感じで聞こえてるんだろう……あとでチェックしとかないと……!
「次はこれチュン」
寧々が袋からお菓子を取り出した。
『がさがさ』
『何の音?』
「お菓子チュン」
寧々が袋から取り出したのは、パッキー。
チョコの掛かった細長い棒状のお菓子だ。
ストロベリーや抹茶、色々な味が入っている。
「ここに一本のパッキーがあるチュン。パッキーを互いに咥えて先に折ったり、口を離したほうが負け、そんないちゃいちゃチキンレースがこの日の本にはあるチュン」
「え」
お菓子は食べるって聞いてたけど、それは聞いてない。
驚きの声をもらした私とは別に、コメント欄は一気に加速しだした。
『うおおおおお』
『パッキーゲーム!』
『いちゃいちゃしやがって・・・いいぞもっとやってくれさい』
『なんか飼い主さんの驚いた声が聞こえてきたけどまあ、聞かなかったことにしよう』
「お菓子買ってるなとは思ってたけど、まさかパッキーゲームするなんて」
「……いや、チュンか?」
「うぐっ」
上目遣いで首を傾げる寧々。
そんな顔されたら断れるわけがない。
『飼い主さん、雀ちゃんに弱すぎるから最初から負けてるw
『おとなしくパッキーゲームして♡』
『恥ずかしそうな飼い主さんすこ』
「やる、やるよ」
差し出されたパッキーを口に含む。
寧々もゆっくりとその口に含むと、ダミーヘッドの直ぐ前で私たちは見つめ合う形になった。
「じゃ、いくよ」
はむはむしながらなんとか声を出して、かりっ、と一齧りする。
寧々も真顔でかりかり食べてて、そんな顔を見つめ続けるのが無理で目を瞑った。
___かりっ、かりっ
これ、目を瞑ったら多少羞恥心は薄れるけどどこまで食べたかわからなくて怖いな。
息が当たったぐらいで離せばいいだろうか……?
でもちょっと怖いから確認して……
目を開けると、なぜか真顔でこちらを見ながらまったく食べていない寧々と目が合った。
無性に恥ずかしくなって、口を離す。
すると寧々は残念そうに声をもらした。
「雀、食べてなかったでしょ」
「飼い主さんが目を瞑ってかりかりするからキス待ちみたいで目が離せなかったチュン」
「だって恥ずかしかったんだもん」
『キス待ち草』
『飼い主さんかわいい』
『飼い主さん、かっこいいのに言動がかわいいよりなの好き』
「うぅ~~~」
抗議の声をもらすと寧々は小さく笑って、こちらへ寄ってくる。
「じゃあ、飼い主さんにはお詫びとしてチュンを膝の上に乗せる権利をあげるチュン」
「よいしょ」
寧々が声を出して、私の膝に乗る。
いつも通り、膝に収まった寧々はそのまま甘い声で「ごめんちゅん」と囁いた。
それはしっかりとマイクにも乗ったようで、コメントがまた加速していく。
____ASMR配信はまだ始まったばかりだ。
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