彩糸

香鳴裕人

1コマ目  糸子先輩



 早くも十一月、私がこの県立晨央しんおう高校に入学して、七ヶ月が過ぎたことになる。

 ふと自分の胸元に目をやる。私の濃紺のブレザーは、まだ初々しさを残す。もっとも、それは二、三年生も同様であるのだけど。

 もともとは私服で通う高校だったのが、今年度より、規準服――制服ではないが着ることが推奨される服――が導入されるに至り、結局、私は毎日それを着ている。となれば、私のブレザーのほうがむしろ着古きふるされているのか。

 ずいぶんと冷えるようになった。うちの部が間借りしている地学室だけ寒気を免れようはずもなく、ペンを走らせる指の動きが悪い。なまじGペンなど使っているばかりに、線の強弱が理想から程遠いと、よくわかる。

 寒さで筆圧が思う通りにならないのが半分、もとから大してうまくないのが半分。防寒に努めてみたところで、手袋をしながら漫画は描けない。

 来週になればストーブが使えるようになるらしく、それまでは原稿を家に持ち帰って描いていたほうが賢明だろう。今ここにいない、他の部員たちのように。

 そもそも、私のように何もかもアナログで漫画制作をするほうが――少なくともこの部では――少数派なのだ。寒さを口実として、むしろ奮って姿を見せなくなった部員もいる。パソコン、ペンタブ、ソフトウェア等々、地学室よりも自室のほうが環境が整っているというわけである。

 私は律儀すぎるのか、放課後になれば自然とここへ足が向いてしまう。損をしていると思わないでもない。寒さだけならまだしも、間断なく作業の邪魔をされるともなれば。

「こういうの、よく見るよね。この線」

 地学室にしかない長い机を挟んだ向かいから、すっと伸びる指があった。私のトレース台の隣、水色の天板の上、インクを乾かすために置いたままにしている原稿、そのうちのひとコマに向けて、それは伸びた。

 手の甲と指のライン、爪の形と艶、あるいは肌の細やかさ、うちに潜む血管のおぼろげに浮かぶところまで、いずれも女性らしい繊細な色気そのものとして映る。羨ましくないと言えば真っ赤な嘘だ。

「集中線です」

 聞かれてもいないのに答えてしまうのは、それも律儀さゆえか。やはり損をしている気がする。こんなやりとりは、もう何度目になるのか。そしてなぜ、何度も何度も繰り返した挙げ句に辿り着くものが、効果線のひとつでしかないのか。

「と、言いますか、今に始まったことじゃないですけど、漫研に入部して一年以上も経つのに、集中線も知らないってどういうことなんですか」

 入学直後に入部したわけではないらしいが、去年、つまりは一年生だった時、秋頃に入ったのだと聞いている。

 そう。私の目の前にいるのは、れっきとした先輩のはずなのだ。今、先輩が着ているジャージは、私のそれとは色が違って、小豆色あずきいろ。今、私が着ているブレザーだって、先輩のそれとは胸元のリボンの色が違うはずだ。

「でも、カケアミは知ってる。ほらここ、髪のハイライトのところ」

 伸びた指は別なひとコマを指す。確かに私はカケアミを用いた。しかし、そんなに堂々と言われても困る。なにせ一昨日までは知らなかったのであるから。

「それ知ってるの、私が昨日教えたからですよね」

 いったいこの人は、漫画の何なら知っているというのだろう。なぜ二年生が一年生から初歩の初歩を教わっているのだろう。ペン先にも複数の種類があると、そんなことさえ、私はこの人に教えたのだ。

 一ヶ月くらい前からか、どうしてか私の向かいが先輩の指定席となり、私は毎日のように、ほとんどは聞かれてもいない疑問に対して、答えを教えてきた。やっと効果線まで行き着いた、そんな感があった。

あやちゃん、そんなにかりかりしてると、せっかくかわいいのに、男子が逃げるよ」

 自分がかわいいなどと思わないうえ、この先輩が言うことじゃない。この人だけは。

 目の前にいる先輩、境谷さかいや糸子いとことは、校内ではずいぶんと名の知れた人であるのだ。

 私が入学してからの、噂話に疎い私が知る限りの範囲でも、浮いた話には事欠かない。誰を手玉に取っただの、何だの。校内の男子連中ではもはや相手にならないだのと。

 その麗姿れいしは、非を探すことが難しい。指だけではない、全身くまなく美しいのだ。端的に言えばもてるということか。男子が逃げるという部分には説得力があるのかもしれないが、顔のつくりも体のつくりも違うわけだし、私に図太い神経の持ち合わせはない。

「糸子先輩、本当に、なんでこの部にいるんですか?」

 私としては、ため息の後に、そう尋ねるしかないのだった。もう何度も繰り返した問いではある。

「漫画制作をするためじゃないの」

 私が尋ねる度、決まってこう返される。透き通るような美声で、それを言う。

「だっ、た、ら、漫画描いてください。漫画」

 対して私の声には、怒りすら滲むのだった。私が入部してからずっと、糸子先輩が漫画を、いや、落書きのひとつさえ、描いているのを見たことがない。

 背もたれのない簡素な木の椅子、何を思ったのか、先輩はそこから立ち、ぐるりと回って机のこちら側、私の隣にまで来た。

「先輩? 昨日言ったはずですよね。机のこっち側には来ないでくださいって。忘れたとは言わせませんよ。変なところで腕を引っ張ってきて、インク瓶が倒れた、あの大惨事を――」

 ふっと、先輩の指が伸びる。私にしてみれば、神秘の領域にあるとさえ感じる指。理想に思える指。こんな指を自分で描けたならと、何度思ったかしれない。

 指に気を取られていたら、先輩と私との距離は、驚くほどに詰まっていた。先輩は五、六限の間、体育であったらしく、汗の残り香が、なまめいたものとして私に届く。私自身からこんな匂いを感じたことはなく、汗腺の構造からして違うのかと疑いたくなる。

 先輩の栗色の髪、腰の近くまで続く、細くしなやかな流れが、一時いっとき、私の頬に触れた。

「かりかりしちゃだめだよ」

 そう言いながら先輩が触れるのは、私の胸元にあるリボン。淡いブルーの、先輩とは色が違うそれ。指の動きさえ美を振りまく。緻密な絵画にためらいなく絵筆を走らせるかのよう。

 見とれる間もろくにくれず、ついと離れた指は、やはり美しかった。

「はい。リボン、曲がってたから。勝手に直してごめんね」

 その美しさだけではないのだろうか。糸子先輩に人気が集まる理由は、こういうところにもあるのだと。しかし、先輩が人格者だという話は、いっそ不思議なまでに聞かない。

「糸子先輩、器用ですし、漫画だってうまく描けますよ」

「描かないよ。だって私、原作専門だもん」

 それは何度も聞いていることだった。私が新入部員として入った時も、自己紹介でそう言っていて、その時は言われるままに納得していた。今はそれで良しとできない。

「原作原作って言って、その原作だって、一度も提供したことないじゃないですか」

「人を詐欺師みたいに言わないでほしいなぁ。書いてはいるよ。今のところ、小説って形だけど。いくつも。地学室にはパソコンがないから、ここでは何もしてないだけ」

 どう好意的に解釈しても、詐欺師の言い訳に聞こえる。

「普通に、文芸部に入り直したらいいんじゃないかと思いますよ。文芸部、今は大人気ですしね」

 昨年度の二月だったか、部を引退した後、在学デビューした三年生がいたということで、文芸部は今もなお注目の的だ。何かと張り合う機会の多い漫研と文芸部だが、おおよそ、勢いに押されっぱなし。

 私はとても真っ当なことを言ったはずが、立っているままの先輩から、私に向け、鋭く眼光が落ちてきた。

「それはだめだよ」

 真剣な否定、きっぱりとした断言。思わず気圧けおされるところはあった。しかしここまでは、次はどんな奇天烈きてれつな言い訳が飛び出すのかと、そう思うだけだった。

「私の原作は、彩ちゃんに描いてもらわないと意味がないの」

 言い訳に聞こえなくて、言葉に詰まった。話の矛先がどうして自分に向くのか、まるでわからなかった。

「彩ちゃん、自分の原稿で忙しそうにしてたから、ずっと言い出せなかった。でも、いい機会だよね。ちゃんとお願いする」

 どうしても本気に聞こえる。じつではただの言い逃れなのか、それとも、受ける印象の通り、何もかも本気であるのか、はかりかねて、返す言葉を見つけられない。

「私の原作で、漫画を描いてください。お願いします」

 先輩はおよそ限界と思われるところまで頭を下げる。せっかくの綺麗な髪が、塩化ビニルの床に達してしまう。昨日、必死になってこぼしたインクを拭いたところだ。

 気づかなければよかったものを、私は目をやってしまう。

 先輩の肩がわずか、震えている。

 図太い神経に恵まれた人が、嘘をひとつき通すために恐怖を感じるものだろうか。もう十一月、されど十一月。寒さに震えるような時期でもない。

 それなら、どうして先輩の肩は震えているのか。




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