No.31 最後の日に笑顔を添えて
1.
長い長い階段をカツカツ鳴らしながら、東から照りつける八月の太陽のもとに出た。熱帯夜だったからか、まだ早いのに汗が止まらない。
それでも周りの建物が自分より低く見えるのは気分がいい。
誰にも邪魔されることのないような気がするのだ。その点、今日は素晴らしい。空には、惨めに地を這う人間を嘲笑うような雲なんて一つもないんだから。どこまでもスカイブルーの空が広がっているのだから。
――今日こそいいだろう。柵のない屋上から飛び降りてこの世界とおさらばするのには。縁に立ってたった一歩を踏み出すには。
そうして、何度目かの挑戦を始める。
まず、左足を
あとは右足だけだ。分かっている。頭では分かっているとも。
でも、それでも、精一杯上げた右足はへりにたどり着くことはなく、地面にへたり込んでしまった。そのまま頭も上に向ける。吸い込まれるような空の色がなんとなく突き放してくるような気がした。
またこれだ。雲の数と量に差はあるけれど、もう一週間続いてしまっている。この感じに慣れないといけないのか、それともこのままがいいのか。答えは自分の中で出ている。
でもそうできないことで自分が惨めですと言っているような感じがして虚しくなる。
一週間。一週間だ。自分が職を失ってからもう一週間経つ。
あれは、きっと、こちらが悪いのだろう。だって、自分ばっかり怒られて、怒られて、怒られて、怒られて、怒られて、怒られて――
それが嫌になって逃げ出した。ここでダメならどこでもダメだという上司の言葉がずっと頭の中で鳴り響いている。はいそうですかと返した言葉にはきっとどこか諦めも混じっているだろう。
だからこうしてここにいる。その諦めがそうさせる。
だから、きっと、ここにいたら最後の瞬間はやってくる。そういう気がする。なんでここを選んだのかは分からないけど。
ふぅ、という吐息を聞いて、起き上がる。そのときだった。
さっき上がってきた屋上の扉がゆっくりと開いたのは。
2.
そこにいたのは長い黒髪を真っ直ぐ下ろした少女だった。
その顔はとてもよく整っているのにどこか憂いを帯びたような笑みをたたえていて、少し息を切らしているのか少女は何回か深呼吸をしながら身に纏うセーラー服を直した。
「君はこんなところで何をしているの?」
寝ころんだまま、そう質問をする。
彼女は少し驚いたような声をあげて、こちらを見た。
「あなたこそここに何しにきたんですか」
「今はこちらの質問に答えて欲しいかな」
「……おそらく、あなたと同じですよ」
彼女と自分の足が、同じようにぶるぶる震えていた。
「そうか」
横になっていた体を起こす。上下の感覚が正しく戻される。
「人生って、つらいですよね」
「うん」
「たとえどんなに努力したって、結果が出なけりゃ全く同じで」
「うん」
「それを見たみんなは、一斉に私を笑い出して」
「うん」
「いつもどこかで指をさされる生活が続く」
「うん」
「……なら、ならもう! いいじゃないですか」
「うん」
彼女の方を見ると、瞳からこぼれ落ちる涙が筋を作っていた。どうやら相当苦労しているらしい。
そうして彼女はうずくまって声を上げた。
悲痛なそれは見ている方が耐えられなくなりそうだった。
立ち上がって彼女のそばにしゃがむ。そうしたら自分でも驚くような提案が出た。
「ねぇ、どうせ今日死ぬんならさ、せめて最後の日くらい、楽しんでみない?」
3.
まさかまさかあんなことが言えるなんて思ってもみなかった。
自分の家にあるありったけの金を財布に詰め込んで、家の前で待たせていた彼女と落ち合って、ビル街に二人繰り出しながらそう思う。
彼女はセーラー服のままでいいと言った。もう着替える必要なんてないんだからと、そう言った。
そのときに見せた精一杯の強がりを孕んだ笑顔がなんだか彼女のぼろぼろになった心を表しているような気がして怖かった。
でもこうしてビル街を二人歩いているときにはそんな顔はしなかった。きっとその辺りが彼女を追い込んでしまったのだろう。
そんな彼女が最初に入りたいと言ったのはレディースものの服屋だった。なんだ、やっぱりセーラー服は変えるんじゃないかと言おうとしたら、
「実は、一度、人を自由に着せかえてみたかったんですよね」
そんな言葉を漏らしたので、なんとなくその着せかえる人が誰なのか分かった。
「ポップからスイートまでなんでも着てくださいね?」
そう言われるとはいとしか答えられなかった。まともな食事をしていないことで男にしては線が細かったのが彼女の意欲を刺激したのか、何着も何着も着せられた。
シースルーカットソーだとか、レトロ風だとか、ファッションに詳しいらしい彼女は服をとっかえひっかえ。
途中から楽しくなってしまってカーテンの中で鏡を前にしてポーズをとってしまったのは内緒だ。知らない快楽というものはこの期に及んでも襲ってくるものらしい。
結局、彼女が選んだのは、白のロングワンピースをベースとした清楚感あふれるコーデだった。色々買ったのだけど、名前は知らない。
着るのは当然、決まっている。全額出すのも決まっている。でも悪い気はしなかった。なぜだろう。
4.
ビル街に出ると、どこかおかしくないか途端に心配になってきた。
「ほら、胸を張った方がいいですよ」とか彼女は言っているけれど、ちょっとこの装いで胸を張る勇気はなかった。
ただ、なんとなくだけども、今日はこのまま過ごすことになるような気がした。
「で、これからどうするの?」彼女に問いかける。
「んー……一度やってみたかったことって言えば無いわけじゃないんですけど」
「何? もうなんでもやるよ?」
この装いをしている時点でもう覚悟は決まったようなものだ。なるようになれ。明日以降はどうせしないのだ。
「だったら、映画を見にいきませんか? 見たい映画があるんですけど」
そうして歩き出す彼女についていくだけで精一杯だった。
なんとなくだけどそうすることで胸を張れるようにしてくれている気がした。
☆☆☆☆☆
結局のところ、彼女が求める映画は上映していなかった。
そもそも、何年前の映画だよ、とスタッフがぼやくくらいには古い映画だったらしい。
「いいですよ、ダメでもともとだったんで」
彼女はそう言うけれど、なんだかそれは悲しい気がした。
「でもでも、やっぱり何かしら見たいです」
だよね、そう言おうとして、壁にかかる『今月! 皆さんの背中を押すようなやさしい気持ちが詰まった映画セレクション上映中!』と書いてあるポスターが目に入った。
彼女に対してこう提案する。
「ねぇ、だったら、この中から一つ見てみない?」
彼女の瞳が輝いた。
☆☆☆☆☆
「梶井基次郎、『檸檬』……か」
乾いた笑みがこぼれる。ひねくれた自分と主人公を重ねればよいのだろうか。でも、彼女が見たがったのだから仕方がない。その彼女だが、佐藤くんだくんだと騒いでいたので、内容を知っている訳ではないのだろう。長い間テレビにもネットにも触れていなかったのでその佐藤くんなる人が誰なのかは分からなかった。
映画が始まっても、二人以外誰も来る気配はなかった。内容は言わずもがな。主人公は憂鬱を溜め込みながら街をさまよって、檸檬を購入したら少しずつではあるが憂鬱が消えるといったもの。
自分にも、いたのだろうか。檸檬みたいな存在が。
いいや、居なかったよ。じゃなきゃここでこんな映画を見ていない。
胸の奥から、そんな自問自答が溢れてくる。映画を見ながらぐっとそれをこらえ続けた。
☆☆☆☆☆
「……一度で良いので、公園でご飯を食べてみたかったんです。友達と、そんなバカなことをしたかったんです」
映画館から出たらもう短い針も右に傾いていた。腹も飯が食いたいと音を立てていた。
安いのでいいので、と彼女は言うけれど、そこらのコンビニのもので済ます気にはなれなくて、今まで使ったことのないようなオシャレな店から適当なサンドイッチを買ってきて二人でベンチに座って食べた。無言だった。
公園で一人は女装して、もう一人はセーラー服を着て黙々とサンドイッチを食らう二人組は何も知らない人からしたらどんな感じに見えるだろう、とそんなことを思ったけど、口にする気にはなれなかった。友達に見えると、いいのだけれど。
肝心の味は、よく分からなかったけど、きっと美味しかったのだろう。もったいない、そう思ってしまった。
思えてしまった。
5.
「そういえばあなたは何かやりたいこととかはないんですか?」
サンドイッチを食べ終わったあとの公園で彼女からそう言われて驚いた。
「だってこっちから誘ったんだよ? だったら君の自由にして欲しいな」
「だったら私からお願いします。午後はあなたの思うように過ごしてください」
私はそれについていくので、そう言って彼女は寄りかかってきた。だったらそうさせていただこう。そうだそうだ。あの空をもう一度見てみたい。ちょうどお金もほとんど使ってしまった。
「じゃあさ、ついてきてくれないかな?」
彼女の手をとってゆっくり歩き出す。そのときの彼女の顔はどこか不安そうにこちらを見ながらもそれでも笑顔だった。
☆☆☆☆☆
そうして今朝来た屋上に戻ってきた。
「ここ、ですか」
「ここ、ですよ」
長い長い階段を登ってきて二人とも息が上がっている。そのキツさが心地よかった。彼女はどうか分からなかったけれど。
「でも、今は今朝とどこも変わりませんよ?」
「そうだね。だから」
「だから?」
「昼寝するよ」
「……え?」
「まあそのうち起きるだろうしいいでしょ、君も少し寝よう?」
「いやそれはいいんですけど、え?」
「む、やっぱり慣れない服はダメなのかな」
「いや、いいんですけど、え?」
「すぴー」
「えぇ……」
時間が解決することもあると思う。今から見るもののように。
だから今は眠ろう。それを見るために。
☆☆☆☆☆
次に起きたときはもうかなり日が傾いていた。これならいいだろう。
彼女に声をかける。勝手に先に行ってなかったことに嬉しさを感じた。
「ほら、起きて」
「……なんなんですか、突然寝て、そして起きて」
「見たかったもの。それがあるんだよ」
「そんなわけないじゃないですか。第一ここには何も無いんですから」
「そう。だからこそこれが映える」
「これって何のことですか。第一ここには空しか……空」
彼女が日のある方を見る。そこには壮大に色を変えた空があった。パープルとピンクとオレンジ色のグラデーションで飾り立てられた空が真っ直ぐに二人を貫いてきた。
最初にここを選んだ意味。それはきっと、この空だったのだろう。暮れていく空が、どうしようもなく最悪な気分を塗りつぶしてくれるからここを選んだのだろう。
彼女の頬を、涙が筋を作ってつたっていた。きっとそれもこの空によるものなんだろう。
彼女が携帯を取り出す。カメラを起動して空の写真を撮った。
ねぇ、と彼女に声をかける。
「やっぱりさ、これをもう見れないのはなんだか悲しいとは思わない?」
「……思います」
「だよね。……実はさ」
「実は?」
「ずっと考えてたんだよ。あの映画のような、檸檬みたいな存在はいるのか」
「あ……檸檬」
「うん。多分だけど、僕の、僕にとっての檸檬は、この景色と、あと、君だ」
「私、ですか」
「うん。だからさ」
「……だから?」
「今日のところは、ひとまず自殺するのはやめにしようかなって、そう思うんだ」
「……奇遇ですね」
「奇遇って?」
「私も同じことを思ったんです」
そう言って彼女は、今日一番の晴れやかな笑みを浮かべた。
「そういえば、あなたが僕って言うのを初めて聞きましたよ」
あれから彼女は、だいたい月に一回くらい僕のところに来るようになった。なんでか、いつも女装してくださいと言うけれども、理由は聞いていない。たぶん、あの日のことを忘れないようにするためだろうと、僕は推測している。
あと、それから、本当にダメになったら、あの空をもう一度見に行こうと二人で約束した。あの日から、あの空を見るのがなんとなくもったいなくて、あのビルには登っていない。
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