No.20 先生
繊細に編み込まれ、月光をゆるりと飲み込むレースの天蓋。その中でシーツの海に溺れる。
繭に包まれた蛹のように、穢れ知らぬ赤子のように。
素肌に触れる全ては、知らぬ世界からやって来たものだというのに。
着飾った服も、丁寧に施した化粧も。
乱雑に乱暴に。
脱がされ、吸われ、噛まれて同じ性の筈の者に組み敷かれるだけの己。
ああ、なんと情けない事か。
「痛っ……」
朝は眠りの時間。
少なくとも、この世界では。
それでも寝付けずにいる訳は…
「先生、俺もうこの仕事ヤダ……」
「我儘言いなさんな、ほらさすってやるから」
子供をあやす様に俺の腰を撫でる先生は、眠る時は背丈程もある黒髪を解いている。
幼い頃よく踏んでしまったことを思い出す。
日光を遮断した薄暗い部屋の中。
天井に施された真紅の色と、煌びやかな装飾。
その中で先生は俺の腰を撫で続ける。
「お前も、私の髪を踏まなくなったね。」
「流石に慣れましたよ。」
「……そうかい。」
優しく響くこの声が大好きで。
初めての勉強の時は、痛くて怖くて泣いてばかりで。どうしてこんなことをされるのかまだ分かってなくて。
厳しい指導に毎日怯えていたけど、客を取り始めてある日酷い奴に殴られた時、心配そうな顔で優しく手当してくれる姿に、俺は先生が大好きになった。
「先生」
「ん?なんだい?」
「……ギューって、していい?」
「いいけれど…腰は大丈夫なのかい?」
「、はい。」
こういう事を教えてくれたのは先生なのに。
何故か、先生にそういう事をした後の痛みを指摘されるのを嫌だと感じる。
そっと手を伸ばして、先生の体へ回すとしっかりとくっつく。
安心感に包まれ、眠りへと誘われるがまま目を瞑った。
「君の天鵞絨は、外へ行ってもこの世界の景色を覚えていてくれるのかな」
優しく撫でていた手は、いつしか止まっていた。
「馬子にも衣装、だねぇ」
「どういう意味ですか先生」
先生は、俺の腰まで伸びた髪を丁寧に梳かし、巻いて、編んで飾りを施してゆく。
視界の中に、くるくると巻かれた緋色の髪が見える。
「…まるで、」
花嫁衣装ですね、と言いかけてやめた。
そんなにいいものではない。
自分は、ただ、買われただけなのだとわかっている。
「ほぅら、出来たよ。」
それでも先生に促され姿見に越しで見た己は、純白のドレスに身を包んでいて。
ああ、やっぱりまるで……
ずっと、夢見ていた。
山中のこの娼館から見える街の風景の中で、一番目立つ教会の階段。
顔はわからない。
服だって、ほとんど良く見えなかった。
けれど、夜の闇に映える真っ白なドレス。
頭にも、綺麗なレース。
その横で、手を引いてあげる男の人。
先生、俺、あなたとあんな風に…………
「ほら、そろそろお客様…いや、ご主人様がお待ちだよ。」
優しく背中を押される。
手に繋がれた拘束の意図にしては華奢すぎる金の鎖が音を立てる。
「先生…」
「あまり待たせてはいけないよ。」
「はい、わかり…ました。」
あまりに素っ気なく思える態度。
先生は俺の事、忘れないでいてくれるかな…?
長い長い廊下。閉まったままの分厚いカーテン。いつもはあんなに億劫で、いつまで続くんだと思っていたのに。
もうこれで最後だと、もう歩くことはないと思うと短く感じる。
コツコツと、足音だけが反響する。
繋がれた鎖を先生が持って後ろからついてきてくれる。鎖に等間隔に付けられた、金色のメダルのような装飾が、まるで急げと言うかのように音を立てる。
もうすぐ玄関だ。そこを出ればここへはもう帰れない。
先生が先にドアの横へ立つ。
開ける瞬間、僕へ微笑みかけた。
「ああそれと、
買収おめでとう。今日から君は、リルだ。」
呆気にとられてる間に、扉は開いてしまった。
あれほど懇願した名前は、買い手がつくとあっさりと与えられるものなのか。
扉の先は明るくて、白くて。
中の薄暗い世界に慣れていた目ではなかなか風景を捉えることすらままならない。
それでも、慣れればうっすらぼんやり見えてくる。
先生に促されて、まだ不明瞭な視界で鎖に引かれるまま歩き出す。
「リルさん、そこは段差があります。」
先生の声。
聞きなれない名前に少し思慮した後、そっと足先をやると確かにその先の地面は無く、目を凝らすと3段ほどの階段があった。
「おや?この子は、目が不自由だっかな?」
「いえ、幼少の頃この館に来て以来、殆ど夜の活動と薄暗い館での生活でしたので、この日光の明るさには慣れていないだけでしょう。じきに慣れます。」
「そうかい、それなら良かった。傷物を買わされたんじゃないかと冷や冷やしたよ。」
「ご安心を、そのような点があれば事前に購入前にお伝えするのが私達の規則ですから。」
先生の声、と……きっと、ご主人様の声。
話している内容は、あまり聞きたくないもの。
手に繋がれた鎖の僅かな重みが今はとても重くのしかかる。
わかっている。きっと今の力なら簡単に引きちぎれる。
けれどそれをしないのは、この館で育って外の世界じゃ生きていけないことを知っているからと、先生の期待を裏切りたくないから。
「それでは…お買い上げ、ありがとうございます。」
徐々に見えてくる輪郭の中、先生の手から、未だ金色の糸にも見える鎖が、買主へと渡される。
「いい買い物をしたよ。本当にな。」
チャリ、と小さな音がして、鎖の持ち手は新しい主人へ。
なんて…呆気ない。
所有者は、とても簡単に変わってしまった。
「それじゃあ、元気で。」
「はい、先生……さようなら。」
優しい先生、俺をいつも抱きしめて撫でてくれた。あの暖かなぬくもりとやわらかな胸の心地よさはきっと忘れないだろう。
先生のためなら、きっとこれからも貴方が良い売り手だと思ってもらえるように頑張れる。
でも、でもさ先生…俺、本当はあんたの側にいたかったな。
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