No.18 兄妹は『全て』を共有する
コーヒーの匂いにつられてブランケットの中から現れた顔は、鷹之と瓜二つだった。
細面、高めの鼻、大きな瞳、耳が出る程度に切りそろえられたベリーショートヘアも、似すぎている二人だった。
寝起きの蘭の不機嫌さは、ブラウンシュガーをたっぷり溶かしたカフェオレを差し出せば、すぐに収まるはずだった。
「……苦い。もっと入れて」
「コーヒーが死ぬよ」
「じゃあ甘いブランデー入れて」
「飲酒して仕事したらクビ」
二人は兄妹でありつつ、とあるカフェの店長と副店長という間柄でもあった。
「……そしたら、にーにの甘いの」
蘭が甘えた声で要求する。
物心ついた時から、蘭は鷹之のことを『にーに』と呼ぶ。それは今もずっと変わらない。
困り顔をしつつも、鷹之は蘭の前にひざまづく。
蘭の両腕が鷹之に回り、その唇に鷹之の唇が重なった。
いつからこんなことを始めたのか、お互いに覚えていない。
二つ年下の妹と恋人のように舌を絡ませ合い、体を触り合う。
「……結婚したら、こんなこと出来なくなるよ?」
「意地悪」
蘭の薬指にエンゲージリングとは思えない程、美しい意匠を凝らした指輪が輝いていた。勿論、鷹之が渡した物ではない。
「あ! なんで私のシャツ着てんの!?」
もう一度キスをせがもうとした蘭は、鷹之が着ているシャツが自分が買った物だということに気付いた。
「いいだろ、男が左前着たって。店で指摘されたことないし」
「そういうことじゃなくて!」
蘭が鷹之のズボンをぐいっと掴む。
「そのタイトスウェット私が履く!」
「え? 駄目だって!」
桜に囲まれた川が流れる街に住んで、お洒落なカフェで働きたい。
兄妹で抱いていた夢の一つを叶えて早数年。
人気の駅から徒歩二十分の2DKに住みつつ、寝たきりになってしまった育ての親である祖母の介護費用を支払うのはなかなかに無茶だった。
背格好が似ているという利点を活かした服の共有は、家系に好影響をもたらしていた。
「……二人ともうるさい」
蘭の部屋からもう一枚、ブランケットの塊が這い出てきた。
「イブ、おはよ」
もう一人の同居人の名前はイブ。
健康的な体つきと、小麦色の肌が特徴的な女の子。
明らかに東南アジア系のハーフなのだが、出自は自分でも分からないらしい。
鷹之が高校、蘭が中学に通っている頃、育ての親である祖母が引き取って以来、ずっと一緒にいる家族の一人だ。
「イブ、お風呂すぐ来て! あんた頭臭すぎ!」
「あーい」
イブもまた、同じカフェで働いている。
今でこそ人並みに潤った生活をしているが、少し前までは皆で生活費を折半することで、この生活を成り立たせていた。
「タカユキ!」
「はいはい、コーヒーね」
「タカユキ、アタシ自分で起きれた」
「だから?」
「ぶー!」
褒めてもらえないと、イブは小さな子供のように拗ねる。蘭の一歳年下とは思えない態度は昔からだ。
イブのフケが浮いた頭を撫でる。
腰のあるワンレングスの黒髪はベトベトだった。
「休みの日も風呂入れって言ってるだろ」
「あーい!」
無邪気な返事をしつつ、イブは鷹之抱きついた。
イブの唇が鷹之の唇に深く重なってから、ゆっくりと離れる。
「イブ……風呂は指輪外してから入れよ?」
「あーい!」
蘭の婚約を機に、鷹之はイブに指輪を渡した。イブは快くその指輪を受け取ってくれた。
両親に見放された兄妹を育ててくれた祖母が、介護なしに生活できなくなってから、鷹之は学業を諦めてひたすら働いた。
それは鷹之の後に高校を出た蘭とイブも同じだった。
大好きだった祖母が認知症が進行し、自分達を育ててくれたという記憶が薄れるれば薄れるほど、介護の費用は嵩み続けた。
それでも、三人は祖母のために休む暇もなく働き続け、今の生活を手に入れた。
そして、気がついた時には満たされない心と体を、三人で満たし合うようになっていた。
「ラン、ドリップ十七グラムを二つお願い!」
ホールを担当するイブの威勢の良い声が響く。
壁や床に無垢材を使用し、明るく瀟洒なカフェの店内は鷹之を中心に、皆で必死に考え抜いて作り上げた空間だった。
飲食店はブラック職場と言われがちだが、三人が働くカフェは違った。
朝は少々早いが、夜はバーのスタッフと人員が入れ替わるので、遅くとも十九時には家路に就けてしまう。
「あ、ニーサンお帰り!」
「ただいま、イブ!」
その接客は全く違うタイプの店だとイブに注意しなくなったのはいつからか。鷹之も蘭も覚えていない。
イブの人なつっこさが、確実に一見客を常連客に変えていくからだ。
それに、イブが『ニーサン』と呼んだ相手は身内だった。
「ら、蘭さん、その指輪何!?」
ネルドリッパーを持つ蘭の左手を見て、カウンターに陣取る蘭のファンを自称する女子高生達が騒ぎ始めた。
「ウソ!? 蘭さん結婚したの!?」
「うるさい。静かにしないと追い出すぞ」
女性としては背が高く、鷹之と服を共有している内にマニッシュなスタイルに寄ってしまったからか、若い女性客は皆蘭の
「えぇー! 蘭さんが他人の物になっちゃう!」
「いいでしょ、なんちゃらウィンストン。売っ払えばさぞかしいい値段がつくでしょうね」
「あははーニーサンやうぇろよぉー!」
イブの両頬を掴んで遊ぶ、羽振りの良さそうな男がびくりと肩を震わせた。
蘭の結婚相手、
二十代で複数のカフェを経営する若手経営者だ。
「イブ、メイク直して来て。由仁はトイレ掃除。にーには床掃除始めて」
「えー蘭さん鷹之さんのことにーにって呼んでるの!? かっわいい!」
「う、うるさいな!」
しまった。
蘭は心の中で毒づいた。
しかし、普段のサバサバしたイメージとのギャップに弱い女子ファンを更に夢中にさせることに気づいていなかった。
「蘭……トイレきれいにしたら機嫌直してくれる?」
「さぁね」
由仁は器の大きい男だと、鷹之はいつも思う。
身寄りを失いつつあった三人に仕事を与えてくれて、マンションの保証人にもなってくれた。祖母の認知症に対応出来るホームを探してくれた上に、給料前借りという形だが、高額な入居料を負担してくれた。
そしてなにより、ぐうたらな上に態度の悪い蘭を愛してくれている。
「おら未成年共! バータイムになる前に帰れ!」
「蘭! お客様になんてこと言うんだよ!」
「はーいまた明日来まーす!」
「明日は休みだ! 来んな!」
「そうですよねー! 明日はデートですもんねー!」
「うるさい! 帰れ!」
図星を突かれた蘭があからさまに狼狽する。
いい加減女子高生達に
だが、最近の仕事にまるで集中出来ていない蘭には無理な注文だった。
夜のスタッフと交代準備が終わると、鷹之は蘭とイブがいるバックヤードの休憩室のドアの前に立ち、誰も近づいてこないか監視するようになった。
最近の蘭とイブの会話は、今頃バースタッフと引き継ぎをしている由仁に聞かせづらい内容ばかりだからだ。
「ラン、ミルク五本増やしてって言ったのに忘れてた」
イブの少し怒った声が響く。
「あ……ごめん」
「ブラウンが足りないって言ったのに届いたの全部グラニューだったよ?」
蘭が砂糖の注文を間違えたので、先程由仁が買いに走ってくれていたのだ。
「……ケッコンするから頭フワフワしてるの?」
「そんなこと、ないんだけど」
イブの指摘通り、最近の蘭はミスだらけだ。
今日は輪をかけて酷かった。
仕事中に社長を由仁と呼び捨てにし、鷹之をにーにと呼んでしまうくらい気が抜けていた。
「ラン……ケッコンやめてよ」
「ちょっとイブ! だ、駄目」
しばらくの間、声が止んだ。
「ねぇ、ラン……アタシもケッコンやめる。だから……もっとしよ」
「も、もう駄目……き、今日はにーにと一緒に寝るんでしょ?」
「……ランと寝たい」
鷹之の胸に、小さな痛みが走った。
分かりきっていたことなのに。
鷹之と結婚することに同意してくれたイブの本当の想いを、改めて認識するのは辛かった。
「だったらイブ……その指輪、ちょうだいよ。この指輪と変えてよ」
「……いーよ。もっとしてくれるなら、ニーサンとケッコンしても」
沈黙が走る。
鷹之の心臓が早鐘を打ち始めた。
「……ごめん、嘘。にーにはイブのだから」
「なら、みんなで寝よ?」
「え……? う、うん」
どうして。
どうして蘭は、指の交換に応じてくれなかったんだろう。
絶対に抱いてはならない疑問が、鷹之の胸を焼いた。
まさか、イブの願いが本当に実行されるとは思わなかった。
三人の体が絡み合っているかのような状態で迎えた朝。
当たり前だが、よくは眠れなかった。
でも、すぐに起きなくてはデートに遅れてしまう。
今日はカフェの定休日で、前から決めていたデートの日でもある。
身体から自分とは違う匂いがする背徳感に少し身を震わせながらシャワーを浴びて、あらかじめ決めていた服に袖を通してから化粧台の前に座った。
目の下のクマは、コンシーラーでは消えない程濃かった。
服とはあまり合わないが、キャスケットでごまかそうと思い直してメイクを続ける。
「……そーゆーモサっとしたの、オトコノコに好かれないよ?」
起き抜けのイブに服装を指摘されてしまった。
グレーのブルゾンに、カーキのロングスカート。どちらも古着屋で衝動買いした物だ。この組み合わせでは年齢も高めに見えてしまうことも分かっている。
でも、身体の線が極力出ないようにしたかった。
コーヒーポットで鍛え上げられた右腕には、しっかりとした力こぶが出来てしまっているし、重たい豆の袋を運ぶからか、ふくらはぎも筋張っていた。
インターホンの音が鳴り、イブが受話器を取る。
「ニーサンだよ! 早く!」
「はーい。じゃあ行ってくる。イブも遅れないでね」
二人を乗せた車は、人気の無い海辺で止まった。
もう海に入れるくらい気温は高かったが、海開きされていない海岸には人っ子一人いなかった。
そんな場所でのデートだというのに、由仁は細身のカジュアルスーツで決めていた。
「昨日、イブにいっぱい怒られちゃった」
「最近たるんでるけど……どうしたんだよ?」
「それはほら、マリッジなんとか、かな」
二人の会話はいつも、色気のない仕事の話ばかりだった。
こんなことがあった、あんなことがあったなんていう話はお互い知っていることばかりだ。
「なぁ、鷹之とイブはいつ入籍するんだ?」
「え? うーん、どうなんだろ?」
由仁は純粋に、鷹之には幸せになって欲しかった。
ゆくゆくは自分の右腕として、より複数の店舗を取り仕切ってもらいたかった。
「……まぁ、そのうちするんじゃないかな」
「他人事みたいに言うなよ」
「うるさいなぁ。なんで今そんな話するんだよ」
「ああ、ごめ……」
謝罪の言葉を言い終わる前に、由仁の唇は塞がれた。
優しく、ゆっくりと舌を絡めとられる。
蘭とは違う、優しいキスだった。
「……嘘。心配してくれてるんだよね?」
「あ、ああ、うん」
由仁は決意をしたかのように一歩後ろへ下がり、ポケットを探って何かを取り出した。
「それ……指輪?」
「うん。お前、指輪付けてくれてないからさ」
「な、なんだよ急に……今の僕は蘭なのに。指輪、小さくて入らないだけだよ」
由仁はスーツの袖を整えてから、鷹之の左手を取り、薬指に指輪を滑り込ませた。
蘭の物と同じデザインのプラチナリングだった。
「あ……ありがとう」
由仁が蘭として振る舞う鷹之の唇を再び塞ぐ。
嫌でも、由仁の本当の想いが伝わって来るキスだった。
由仁はきっとこんなに情熱的なキスを、蘭にはしていない。
今頃どこかで蘭も鷹之として振る舞いながら、今の鷹之と同じように、イブの想いに応えている。
由仁の想いに胸を焦がされながらも、鷹之は代わりたいと強く思う。
イブと代わりたいと。
蘭もまた、由仁と代わりたいと思っているだろう。
一番深く、一番強く愛し合っていても、決して結ばれることのない鷹之と蘭は、こうして共有し続ける。
服も、仕事も、家も、愛してくれる人も。
そして自分自身をも取り替えて、共有する。
決して互いの心が満たされないことを、分かっていても。
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