No.14 全きものに宿りしは

 「お待たせしました」


 が現れたとたん、空気が塗り替えられた。

 アシンメトリーに切りそろえられた髪は、まさに漆を塗りこめた艶やかな呂色ろいろ

 優雅に両端を上げているその唇は、どきっとするほどに暗く赤く、朱殷しゅあんという言葉がぴったりだ。

 それらが白い肌と互いに映えるものだから、どんな言葉を並べればいいものか、というような美人。というか、雪のように白く、血潮のように赤い物語に出てくるような美人だ。

 そんなよろうのは、細かなプリーツでボリュームは抑えられているエンパイアラインのロングドレス。

 ドレスの色は微かに紫を帯びた黒――黒紅梅くろべにうめで、上半身を覆うレースの合い間から覗く白い肌が、女の私から見ても――否、が男で、私が女だからこそだろうか――とてもなまめかしい。

 年齢不詳。一見すれば性別も不詳。

 そんなは、新進気鋭の今を時めく芸術家アーティストだ。

 作品は絵画、写真、映像と何でもござれオールマイティというか、マルチな才能。時として、自身をも素材として扱う。

 世に出た当初は性別すら不詳だったが、自身の作品の内でその上半身をさらけ出し、そこで初めて男だった事が白日の元に出た。

 私もの作品が嫌いではない。むしろ、好きだが、流石に偏執的、熱狂的とまではいかないので全部をチェックはしていない。

 なので、全部はチェックできてないけど、流石に局部は出してない、と思うから、清少納言式とある逸話的な性別確認はできてない。というか、そんなことしてたら、ビッグニュースだ、うち以外がすっぱ抜く。

 そう、私は――会社的にも、個人的にも――幸運な事に、の取材ができる事になったのである。

 しかし、まあ、こうして目の前にすると、思ったよりも背が高い。やっぱり男性だからだろうか。

 現れただけで雰囲気を塗り替えたは、私の向かいに優美な動作で座った。


「よろしくお願いします」

「……こ、こちらこそよろしくお願いします」


 にっこりと笑ったのその顔が意外とあどけなくて、拍子抜けした私は、一拍遅れて言葉を返した。

 最初に了承を取ってから、机上に置いておいたレコーダーの録音スイッチを入れる。

 そこからしばらくは、とりとめのない雑談のようなやり取りを繰り返し、そして、その質問に至った。


「チアイさんの、芸術家アーティストとしての名前は何から来てるんでしょうか」


 チアイ。


 芸術家アーティストとして名乗っている名だ。

 チアイは綺麗にアイラインの引かれた目を一度瞬かせて、それから口を開いた。


「そこはね、僕のこだわりなんで、ちょっと長くなりますよ?」

「構いませんよ」


 そう答えると、はその美しく黒いネイルの施された手で、つらつらと紙に字を書き付けて、此方に出した。


 智愛。


 メリハリのあるとめ、はね、はらいのしっかりした綺麗な字で、そう書かれていた。


「こう書くんですよ。ヘルマプロディートスから取りました」


 漢字はわかった。でも今なんて?


「へる……?」

ヘルマプロディートス'Ερμαφροδιτος。ギリシャ神話……といっても、文字として残っている最古のものはローマのオウィディウスの『変身物語メタモルポーセース』ですね」


 ギリシャ神話。どうにもゼウスは浮気者という認識しかない。


「ヘルマプロディートスはさかしき神、ヘルメースと愛と美の女神、アプロディーテーの間に生まれたという人です。その名前自体が、ヘルメースとアプロディーテーを合わせた形ですね」

「〈智〉恵の神ヘルメースと〈愛〉の女神アプロディーテー、と。なるほど」

「ええ」


 でもね、とチアイは続ける。


「ヘルマプロディートスは、それはそれは美しい青年だったそうです。片親が愛と美のアプロディーテー、ローマ神話で言うウェヌスヴィーナスですからね、当然と言えば当然です」


 それは自分も美しいと言いたいのだろうか。いや、確かに美しいけど。

 そんな事をちらと思ったが、チアイは更に続ける。


「ある日、ヘルマプロディートスはサルマキスというナーイアス水の精に出会います。サルマキスはヘルマプロディートスに一目惚れして、言い寄りますが、ヘルマプロディートスはサルマキスをフります」


 で、とチアイはにっこりと笑う。


「サルマキスはどうしたと思いますか」


 ギリシャ神話だから一筋縄ではいかない気がする。

 だってほら、フった顛末というと、エーコーとナルキッソスとかさ。


「えーと、呪いをかけた、とか?」

「うーん、半分正解ですかね……サルマキスは、泉で沐浴しようとしたヘルマプロディートスを襲うんです。アレな意味で」


 アレな意味。なるほど。なるほど?

 ギリシャ神話で女性から行くって珍しくない?

 だって大体ゼウスさんがピー自主規制


「そして、こう願ったんです。このまま、この人から離れたくない、と。その願いは聞き入れられ、結果として、サルマキスはヘルマプロディートスと文字通り、一心同体となりました。そしてヘルマプロディートスは両性具有、男としての身体と女としての身体を伴った存在になったのです。両性具有を意味する英単語はアンドロジニーandrogynyハーマフロダイティズムhermaphroditismとありますけど、後者の語源ですね。前者もギリシャ語からですけど」

「なるほど、チアイさんの、その格好に繋がるのですね」

「ええ、そうです。そこを絡めてつけたんです」


 僕は両性具有ではないですけれど。

 そう言って瞬きするその長い睫毛は自前だろうか。

 ぞっとするほど美しい。それを体現している、と思う。


「ところで、今のお話の感じですと、ヘルマプロディートスと絡める前から、その格好を?」


 そこを絡めた、と、そう彼は言った。その言い方だと先にこの格好があって、それに絡めたといった感がある。


「うーん、そう、なるのかな」

「そのお話も伺ってよいでしょうか」

「勿論」


 彼は優雅にカップの紅茶で口を湿らせてから、口を開いた。


「僕は、幼い頃身体が弱くて、幼稚園に上がるまでは女物を着せられていたんです。男児に女児の格好をさせて育てると丈夫に育つとか、魔が避けるとか。昔の迷信ですね。それが本当の最初です」

「西洋にも日本にも昔からあるお話ですね」


 実は、かのマッカーサー元帥も幼少期は女児の格好をさせられて育てられた、とか。日本で見られるのだと、南総里見八犬伝の犬塚信乃がそうやって育てられてたよな。性別が違うからって、死神が連れて行かないとかなんとか。


「流石に幼稚園に上がってからは、それが難しくて普通に男の子の格好でした。中学卒業までは普通に、男の子の格好でしたね」

「というと、高校生になってから、何か大きなきっかけが?」


 ついっとその黒い眼が私を見た。

 切れ長の目の中の、まあるい黒い瞳孔が、見果てぬ闇が、私を見ていた。


 ‡


 高校生の時に、フランスに行ったんです、家族で。

 そして、ルーヴル美術館で、先に話したヘルマプロディートスの像を見たんです。

 眠れるヘルマプロディートス。プロセルピナの略奪やアポローンとダプネーなど、ギリシャ神話モチーフの彫刻を他にも残したベルニーニの作品です。

 眠れるヘルマプロディートスは、ヘルマプロディートスが寝台でうつ伏せに近い体勢で微睡まどろんでいる様を表した彫刻です。背中側から見れば、裸婦像にも見えますが、回り込めば、そこには、あるんですよ、アレが、股間に。

 それを見て、僕は幼い頃の自分の女装の事を思い出したんです。

 男でありながら、女である――外見上は少なくともそうでしたから。

 なので、それから調べたんです。両性具有について。

 両性具有は完全性の象徴です。


 そもそも、聖書においてはアダムの肋骨からエヴァが作られました。であれば、エヴァアダムの半身と言えるでしょう。肋骨エヴァが離れたが故にアダムは不完全なのですから。


 ギリシャではアリストパネースが、アンドロギュノスΑνδρογυνοςという男と女、二人の人間が背中合わせで腰のあたりで結合した存在について、プラトーンの『饗宴』で語っています。このアンドロギュノスは神をも恐れなかったため、ゼウスの怒りにより、二人の人間として引き裂かれました。そして、その半身を求めて人は恋をすると言います。つまり、一人の人間である時点で、アリストパネースが語るところの祖たるアンドロギュノスからすれば、半身が欠けている不完全であるわけです。


 本邦では、伊邪那美いざなみ伊邪那岐いざなぎは互いに「我が身は成り成りて我が身には成り合はぬところ一處ありできていない部分がある」、「我が身は成り成りて我が身には成り餘れるところ一處あり余っている部分がある」と言って、国生みを果たします。

 足りないところを一方の余ったところで埋める。理にかなっていますが、片方だけであれば、結局、不足も余剰も完全には程遠いもの出来損ないにすぎません。


 錬金術では、時に一組の男女や同種雌雄の動物で硫黄と水銀を表し、それこそヘルマプロディートスで硫黄と水銀を結合した物質を指します。そして、この硫黄と水銀の結合物ヘルマプロディートスこそが、錬金術の終着点、賢者の石を、卑金属を金にするとされる物質を生むとされます。両の性を混ぜる事で完全に至る、というのです。


 心理学や精神分析の観点から言っても、男が女との――そういった意味のあるなしにかかわらず――一体化を求めるのは完全を願うからとの言説があります。


 性別は、一番身近で明確な二元性原理の概念です。

 そして、古来より二元性原理は対立する二元の調和こそが至高であり、根源であると考えられていたのは太極図を見れば一目瞭然。

 つまりは、人は完全を目指しているがために自身と対立する異性を求める、という事です。


 けれど、それでは結局、

 比翼の鳥一で成り立たぬようでは、完全ではない不完全極まりない

 僕は、完璧主義者、なんです。


 ‡


 かちり。


 そこで私はレコーダーの再生を切った。

 これを、この熱量を原稿に落としこまねばならないのか。

 そう思って頭を抱えた。

 熱に浮かされたように恍惚とした目で、まくし立てられたのを思い出すだけでも気圧けおされて、くらくらする。

 彼は、私の好きな芸術家アーティストの一人だ。それは変わらない。

 けれど、敬愛は畏怖に変わった。

 特に、あの目。

 ヘルマプロディートスの話をしだした辺りから、がそこに灯った。

 灯ったとしても、それは眼光、ではない。

 逆だ。あれは当たった光を返さぬ黒だ。

 吸い込む、というよりは、触れたものを絡めていましめ、帰さない。それこそ、蝶をただ待つ蜘蛛の巣のような、あるいは境越えれば何人も帰さぬ冥府の堅牢な闇。不帰かえらずうろ

 この世で最も黒いと言われる人工物は、その実際は直立させた大量のカーボンナノチューブ間で当たった光を幾度も幾度も反射させる事で、最終的に熱に変えているという。

 であれば、あの目に当たった光は、彼の創作意欲という熱に変換されているのだろうか。

 一人では到底届かぬはずの頂き完全に手を伸ばす、彼は。


 ――その熱が排出されなくなれば、きっと彼は脆く燃え上がる。

 そしてその様ですら、彼は人を魅了し、そして惹かれた人も共に燃やし尽くす。燃える生命有機物が尽き果てるまで、その火は決して消えやしない。


 そんな、不吉とも言える、不穏な予感を、彼に感じた。

 古くより、完全にすれば其処から崩壊は始まると言う。

 完全には魔が巣食う、とも。

 ――ああ、彼は、れはきっと、魅了と破滅を運ぶ魔性の女ファム・ファタルという言葉こそ相応しい。

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