No.14 全きものに宿りしは
「お待たせしました」
彼が現れたとたん、空気が塗り替えられた。
アシンメトリーに切りそろえられた髪は、まさに漆を塗りこめた艶やかな
優雅に両端を上げているその唇は、どきっとするほどに暗く赤く、
それらが白い肌と互いに映えるものだから、どんな言葉を並べればいいものか、というような美人。というか、
そんな彼が
ドレスの色は微かに紫を帯びた黒――
年齢不詳。一見すれば性別も不詳。
そんな彼は、新進気鋭の今を時めく
作品は絵画、写真、映像と
世に出た当初は性別すら不詳だったが、自身の作品の内でその上半身をさらけ出し、そこで初めて男だった事が白日の元に出た。
私も彼の作品が嫌いではない。むしろ、好きだが、流石に偏執的、熱狂的とまではいかないので全部をチェックはしていない。
なので、全部はチェックできてないけど、流石に局部は出してない、と思うから、
そう、私は――会社的にも、個人的にも――幸運な事に、彼の取材ができる事になったのである。
しかし、まあ、こうして目の前にすると、思ったよりも背が高い。やっぱり男性だからだろうか。
現れただけで雰囲気を塗り替えた彼は、私の向かいに優美な動作で座った。
「よろしくお願いします」
「……こ、こちらこそよろしくお願いします」
にっこりと笑った彼のその顔が意外とあどけなくて、拍子抜けした私は、一拍遅れて言葉を返した。
最初に了承を取ってから、机上に置いておいたレコーダーの録音スイッチを入れる。
そこからしばらくは、とりとめのない雑談のようなやり取りを繰り返し、そして、その質問に至った。
「チアイさんの、
チアイ。
彼が
チアイは綺麗にアイラインの引かれた目を一度瞬かせて、それから口を開いた。
「そこはね、僕のこだわりなんで、ちょっと長くなりますよ?」
「構いませんよ」
そう答えると、彼はその美しく黒いネイルの施された手で、つらつらと紙に字を書き付けて、此方に出した。
智愛。
「こう書くんですよ。ヘルマプロディートスから取りました」
漢字はわかった。でも今なんて?
「へる……?」
「
ギリシャ神話。どうにもゼウスは浮気者という認識しかない。
「ヘルマプロディートスは
「〈智〉恵の神ヘルメースと〈愛〉の女神アプロディーテー、と。なるほど」
「ええ」
でもね、とチアイは続ける。
「ヘルマプロディートスは、それはそれは美しい青年だったそうです。片親が愛と美のアプロディーテー、ローマ神話で言う
それは自分も美しいと言いたいのだろうか。いや、確かに美しいけど。
そんな事をちらと思ったが、チアイは更に続ける。
「ある日、ヘルマプロディートスはサルマキスという
で、とチアイはにっこりと笑う。
「サルマキスはどうしたと思いますか」
ギリシャ神話だから一筋縄ではいかない気がする。
だってほら、フった顛末というと、エーコーとナルキッソスとかさ。
「えーと、呪いをかけた、とか?」
「うーん、半分正解ですかね……サルマキスは、泉で沐浴しようとしたヘルマプロディートスを襲うんです。アレな意味で」
アレな意味。なるほど。なるほど?
ギリシャ神話で女性から行くって珍しくない?
だって大体ゼウスさんが
「そして、こう願ったんです。このまま、この人から離れたくない、と。その願いは聞き入れられ、結果として、サルマキスはヘルマプロディートスと文字通り、一心同体となりました。そしてヘルマプロディートスは両性具有、男としての身体と女としての身体を伴った存在になったのです。両性具有を意味する英単語は
「なるほど、チアイさんの、その格好に繋がるのですね」
「ええ、そうです。そこを絡めてつけたんです」
僕は両性具有ではないですけれど。
そう言って瞬きするその長い睫毛は自前だろうか。
ぞっとするほど美しい。それを体現している、と思う。
「ところで、今のお話の感じですと、ヘルマプロディートスと絡める前から、その格好を?」
そこを絡めた、と、そう彼は言った。その言い方だと先にこの格好があって、それに絡めたといった感がある。
「うーん、そう、なるのかな」
「そのお話も伺ってよいでしょうか」
「勿論」
彼は優雅にカップの紅茶で口を湿らせてから、口を開いた。
「僕は、幼い頃身体が弱くて、幼稚園に上がるまでは女物を着せられていたんです。男児に女児の格好をさせて育てると丈夫に育つとか、魔が避けるとか。昔の迷信ですね。それが本当の最初です」
「西洋にも日本にも昔からあるお話ですね」
実は、かのマッカーサー元帥も幼少期は女児の格好をさせられて育てられた、とか。日本で見られるのだと、南総里見八犬伝の犬塚信乃がそうやって育てられてたよな。性別が違うからって、死神が連れて行かないとかなんとか。
「流石に幼稚園に上がってからは、それが難しくて普通に男の子の格好でした。中学卒業までは普通に、男の子の格好でしたね」
「というと、高校生になってから、何か大きなきっかけが?」
ついっとその黒い眼が私を見た。
切れ長の目の中の、まあるい黒い瞳孔が、見果てぬ闇が、私を見ていた。
‡
高校生の時に、フランスに行ったんです、家族で。
そして、ルーヴル美術館で、先に話したヘルマプロディートスの像を見たんです。
眠れるヘルマプロディートス。プロセルピナの略奪やアポローンとダプネーなど、ギリシャ神話モチーフの彫刻を他にも残したベルニーニの作品です。
眠れるヘルマプロディートスは、ヘルマプロディートスが寝台でうつ伏せに近い体勢で
それを見て、僕は幼い頃の自分の女装の事を思い出したんです。
男でありながら、女である――外見上は少なくともそうでしたから。
なので、それから調べたんです。両性具有について。
両性具有は完全性の象徴です。
そもそも、聖書においては
ギリシャではアリストパネースが、
本邦では、
足りないところを一方の余ったところで埋める。理に
錬金術では、時に一組の男女や同種雌雄の動物で硫黄と水銀を表し、それこそヘルマプロディートスで硫黄と水銀を結合した物質を指します。そして、この
心理学や精神分析の観点から言っても、男が女との――そういった意味のあるなしに
性別は、一番身近で明確な二元性原理の概念です。
そして、古来より二元性原理は対立する二元の調和こそが至高であり、根源であると考えられていたのは太極図を見れば一目瞭然。
つまりは、人は完全を目指しているがために自身と対立する異性を求める、という事です。
けれど、それでは結局、二人でしかない。
僕は、完璧主義者、なんです。
‡
かちり。
そこで私はレコーダーの再生を切った。
これを、この熱量を原稿に落としこまねばならないのか。
そう思って頭を抱えた。
熱に浮かされたように恍惚とした目で、まくし立てられたのを思い出すだけでも
彼は、私の好きな
けれど、敬愛は畏怖に変わった。
特に、あの目。
ヘルマプロディートスの話をしだした辺りから、何かがそこに灯った。
灯ったとしても、それは眼光、ではない。
逆だ。あれは当たった光を返さぬ黒だ。
吸い込む、というよりは、触れたものを絡めて
この世で最も黒いと言われる人工物は、その実際は直立させた大量のカーボンナノチューブ間で当たった光を幾度も幾度も反射させる事で、最終的に熱に変えているという。
であれば、あの目に当たった光は、彼の創作意欲という熱に変換されているのだろうか。
一人では到底届かぬはずの
――その熱が排出されなくなれば、きっと彼は脆く燃え上がる。
そしてその様ですら、彼は人を魅了し、そして惹かれた人も共に燃やし尽くす。燃える
そんな、不吉とも言える、不穏な予感を、彼に感じた。
古くより、完全にすれば其処から崩壊は始まると言う。
完全には魔が巣食う、とも。
――ああ、彼は、
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