身代わりと先輩
最近、毎朝身支度をするとき、決まってポケットに入れるようにしているものがある。
以前、野球のファウルボールを受けた際、医務室で出会った森園環奈に借りたっきりのハンカチだ。
彼女は三年生で、教室は異なる階にあり、関わる機会は全くない。
わざわざ会いに行くのも目立つため、偶然会う機会でもないものかと廊下を歩いているとき、注意して見ているのだが、すれ違いさえしない。
「寮も別だろうし……」
どうも、最上位貴族は複数ある建物の別々の最上階にそれぞれ部屋割りされている。分けるために複数寮が作られているのでは、と思える。
「湊様、出られますか。……どうしました?」
「このハンカチ、返さないとと思って」
ポケットにしまう直前だったハンカチを、ちょっと見せた。
「もう、届けてしまいますか?」
「いや、出来れば直接返したいと思って」
何となく。
「でも、そうだね……」
あまりに会えないようなら、寮に届ける手もあるか。
そう思い始めた頃だから、会えたのだろうか。
授業が終わり、昼休み。食堂の三階へ上がる階段を歩いていると、前に、女子生徒がいた。
三階は特別室のみの階だ。ゆえに、立ち入る生徒は最上位貴族とその関係者くらい。
女子生徒で心当たりがあるのは、一人だ。
もしかして、と思った。
「環奈さん?」
前を行く彼女はビクッ、とした。
彼女の隣にいる生徒が、先に機敏に反応した。男子生徒だ。
彼は、鋭い目付きをこちらに向け、森園環奈を背後に庇うようにした。
森園環奈の従者か。前回は見なかった。
「水鳥様ですか。環奈様にご用ですか」
「湊、君?」
後ろに庇われ見えなくなっていた森園環奈が、おずおずといった様子で顔を覗かせた。
従者と思われる男子生徒の背が高めで、体格が良く大きな印象を受けるからか、森園環奈は小さく見えた。それから、華奢に。
従者が硬く彼女の前に立ちはだかって警戒しているようなので、わたしは従者を見て、言う。
「この前借りたハンカチを返したい」
「ハンカチ?」
ポケットから、薄いピンク色の布を取り出した。
従者はハンカチを目にして、背後の主人を見た。
「試験の前の辺り、に、医務室で」
「私がいなかった間ですか」
「ご、ごめんなさい」
やっぱり前回は従者は見なかったから、いなかったのだ。おまけに知らなかったようで、従者の反応に、森園環奈が身を縮めた。
その反応に申し訳ない気持ちが生じる。ここは早く用事を終わらせるべきか。
「環奈さん、これ、ありがとうございました」
進み出て、森園環奈にハンカチを差し出す。
従者を窺うが、彼は何も言わなかった。しかし、かなりの警戒具合だ……。
「わざわざ、ありがとう……」
森園環奈は控えめに手を伸ばし、わたしの手からハンカチを受け取った。
「じゃあ、これで──」
「あれ?」
声は、下から。
声が聞こえた瞬間、森園環奈の体が、わたしが声をかけたときとは比べ物にならないくらい、大きく跳ねた。
彼女が最初に誰だと理解したのだろうか。
でも、わたしが前にいるから姿は見えなかったはずだ。
誰が一番、見るのが早かったか。位置関係的に、わたしと謙弥は振り向くことになる。
「やあ、湊君」
「……悠さん」
階段の一番下、白羽悠が朗らかな笑顔を浮かべて、こちらを見上げていた。カーディガンに隠れかけている手をゆらりと振る。
「何だか、会うのは久しぶりだし、ここで会うのは意外と初めてだね。あ、僕が生徒会長室で食べてるからか」
意外と初めて会うというのには、同感だ。
聡士とは会うが、それは彼が来るからだ。
今日まで、偶然会うことさえなかった。
しかし、今日、森園環奈に会い、さらに白羽悠とも会うとは。確率の偏りがすごい。
白羽悠の緩やかな口調に対し、心なしか場の空気が固くなった。
わたしと謙弥に関しては、襲撃の経験から。命じたのが白羽であるという高い可能性からの、若干の身構え。
そして、背後からも固い空気が伝わってきた。
白羽悠が、下から階段を登ってくる。一人だ。
「偶々来た日に会うなんて、運命だね。どう? 今日一緒に食べない?」
「誘いは嬉しいんですが、先約があるので」
「聡士君?
同じ段、同じくらいの視線の高さで、にこりと微笑まれた。
「同級生で、体育で一緒になったりと関わる機会があるからか、自然と」
どうにか、昼食を共にすることは避けなければならない。
にこやかなだけではない笑顔を前に、襲撃以来、初めて危機感を感じた。
何を考えているのか分からない。今、ここで会ったことが偶然かどうか。
「そうだね。そういうことって珍しいし、互いに同じ位同士だと、他の子より喋り易いかもね」
「はい」
「そっかぁ、残念」
残念、残念、と言った白羽悠がわたしの横を通りすぎる。上へ、上の段へ。
そして、初めて気がついたように、「あれ?」と言った。
「湊君だけかと思ったら、環奈さんまでいたんだね」
白羽悠を追い、視線を上へ移したわたしは、目を見開いた。
森園環奈の顔の不自然な白さ、強張り──彼女は、怯えた様子だった。
「環奈さんは、僕が入学してから学校では数えるくらいしか会ってないよね。昼食、一緒に食べない?」
「…………っ」
森園環奈は、指が白くなるほど従者の服をすがり、握っていた。
「申し訳ございませんが、環奈様は──」
「いつ、僕が君に話しかけた? たかが従者は黙ってなよ」
やはり笑顔で、白羽悠は森園環奈の従者を辛辣に黙らせた。
ああ、白羽悠は、この場で『従者』という存在を目に入れていなかったのだ。
──「湊君だけかと思ったら」と、彼はさっき言った。
「……悠さん」
「何? 湊君」
わたしは、微笑み直した。
この場で、彼とまともに会話出来るのは二人しかいなかった。わたしと、森園環奈だ。
けれど、森園環奈は話せない。だからこそ、わたしが口を開かなければならないと感じた。
「環奈さん、少し具合が悪そうなので、昼食を摂るより先に医務室の方が先かもしれません」
昼食を一緒に食べる約束をしている、という口実が最初に浮かんだが、聡士だと認めてしまっている。
正直に指摘する他なかった。
「そう? 本当だ、よく見ると顔色が悪いね。ごめんね、気がつかなくて。僕が見るとき、いつもそんな様子だった気がして、違いが分からなかったよ」
言葉の端々に、悪意に満ちていた。
白羽悠は、にこにこと笑い、階段を上がっていった。
「湊君、仲良くするのもほどほどにね」
そんな言葉を残して。
「環奈さん……、大丈夫ですか?」
白羽悠の背中が見えなくなってから、俯く森園環奈にそっと声をかけた。
「……ご、ごめんなさい、ごめんなさい。何でも、ないわ」
「何でもないこと、ないじゃないですか」
身を竦ませているのに。
この怯えようは、尋常ではない。白羽悠が現れた瞬間からだった。
「どうして、そんなに……」
声が零れると、彼女は一瞬、わたしを見た。
確かにそのとき、哀しそうに、微笑んだ。
「……わたしは、彼を前にすると怖くて仕方がなくなる。次は、何を失うのか。あの、何ともない笑顔を見ていると、怖くなるの」
彼女は小刻みに震え続け、従者に寄り添われてその場を後にした。
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