5 やきもち焼きさんの蜜月
新婚旅行は、近所の小さな山に登った。
普通は海外とかに出て連泊するらしいけれど、でも残念ながら私にはそんなお金はない。ごめんね、とお餅の彼に謝ると、でも彼はまったく気にした風もなく、
「私は、あなたといられるのならばどこでも構わない」
なんて言ってくれた。二人で話し合って、新婚旅行は山の上の公園に行くことに決めた。
道のりは少し大変だった。別に登山道なんてほどのものじゃなくて、舗装された遊歩道を歩くだけの小さな山なのだけれど。でも普段の運動不足がたたってか、私にはちょっとした重労働だった。でもその分だけ、晴れ渡る山頂の見晴らしは、とても素敵だった。
ポケットからお餅を取り出して、あづまやのベンチで一休み。「綺麗だね」と言う私に、「まったくです」と感慨深そうなお餅の彼。
「妻よ。私は、君と見たこの景色を、一生忘れないと誓おう」
なんだか大げさなその反応に、私は思わずにっこりと微笑む。膝の上の彼を指先で撫でながら、心地よい山の空気に身を晒す。新婚旅行は、とても楽しくてそして幸せだった。
そして、いよいよ——私たちの新婚生活が始まった。
といっても、別段いままでと変わるところはなかった。私は基本的にいつも家にいるし、そして家族が増えたといっても、でも結局それはお餅なのだ。狭いワンルームでも全然苦にならないし、お餅はごはんも食べないから、生活費とかそういうものも変わらない。
もし変わったことがあるとするならば、それはきっと、一日の充実感だと思う。
お餅の彼は、なにもしない。自分で動くことができないから、いつもお皿の上に乗っている。でもそのかわり、彼はものすごくよくしゃべる。話が上手なだけじゃなくて、いろいろなことを知っている。私はお皿の上の彼を眺めながら、にこにこ笑って相槌を打つ。話をしているときの彼はとても充実しているように見えて、それが私にはとても嬉しい。
もちろん、ただ毎日引き籠もっているわけでもなかった。天気のいい日や気の向いたときには、二人で一緒にデートに出かける。デートの内容は、だいたいがお散歩だ。土手縁のサイクリングロードを歩いてみたり、河川敷のあたりまで降りていったり。一番多いのは近所の公園で、彼はブランコ遊びがお気に入りらしかった。小さな透明のポリ袋に適当な紐を通して、そこに彼を入れたあと、首から提げる。こうすれば、私たちは一緒にブランコに乗ることができた。
私にしてみれば、子供の頃の懐かしい遊具。でも、お餅には少し刺激が強すぎるのか、
「つ、妻よ! いかん、勢いがつきすぎている! も、もう止めてくれ!」
なんて、いつも怯えたような声を出す彼。でも二、三日もするとまた「その、妻よ。そろそろまた、ブランコにでも……」なんて言い出すのだからちょっとおかしい。日中は子供たちが使うから、私たちはいつも深夜の公園で、そして二人っきりでブランコを楽しむ。
勢いよく漕いで満喫したあとには、しばらくゆりかごのようにゆっくりと揺らす。ここら辺はわりと田舎だから、夜空の星はとても綺麗に見えた。まん丸いお月様が出ている日なんかは、私たちは黙ってぼんやりとそれを眺める。そしてそんな日はいつも、彼の言葉がちょっと柔らかくなる。
毎日が充実していて、私はただ、幸せだった。
だから、私は彼に言う。毎晩、二人で一緒に床についてから。眠りに落ちるその前に、いつも欠かさず、告げる一言。
「ありがとう。私、幸せだよ」
彼はいつも「そうか」と言って、そしてしばらくしたあと、ちょっと照れくさそうな小声で返す。
「こちらこそ、ありがとう。幸せなのは、私の方です」
私は彼を優しく撫でて、そしてしばらく、胸元に抱く。おやすみ、と告げてから、彼を枕元へ。私は、およめさん。そして彼は、私の旦那さん。なんてことはないただの夫婦だけど、でもそれだけで、私はとても幸せだ。
色のなかった毎日が、突然、きらきらと輝きだすような感覚。
そんな夢のような『結婚』から、だいたい二ヶ月くらいが過ぎた頃。
それはいつも通り、おやすみ前の「ありがとう」を告げた直後のことだった。
「……妻よ。こんなことを言うのは、卑怯なことだと思っています。でも、聞きたい。君は本当に、幸せですか?」
いつもと違う、彼の一言。私の返事は簡単だった。
「幸せだよ。すごく」
そうですか、と呟く彼。たぶん、なにか悩んでいることがあるのだと思った。私は微笑んだまま、ただ黙って彼の言葉を待つ。
「最近、私は自分を不甲斐ないと感じるのです。私は餅で、そしてそのことには誇りを持っている。だがしかし、私は君に、何一つ夫らしいことをしてやれていない気がする」
そんなことはないよ、と私は答える。でも彼には、まだ言いたいことがあるみたいだ。手にした彼を見つめながら、その言葉に耳を傾ける。
「例えば、もし私が動けたなら、働くこともできたはず。そうすれば、君の生活も少しは楽になるはずです。いや、そうするべきなのです。世の夫はみな、そうしている」
彼の言っていることは、間違いではないのかもしれない。でも私の生活が苦しいのは、単に私が働いていないせいだ。そもそもそれは元々のことで、何年か前に会社を退職して以来、私はずっと生活保護だけで生きている。
「ですが、見るに忍びないのです。最近、あまりいいものを食べていないでしょう。そもそも、食事が一日一回だけというのも無茶な気がする。君にはもっと、豊かに暮らしてもらいたい——だというのに、私は夫として、それをどうしてやることもできない」
大丈夫だよ、と私は答える。でもきっと、それじゃ彼は納得しないだろうこともわかった。彼にしてみたら、私が心配なのだろうと思う。別に彼は全然不甲斐なくもなんともないのに、でも彼は私のことについて、責任を感じてくれている。それは嬉しいけれど、でもただ嬉しいだけじゃだめだと思った。私が彼になにかを気にさせてしまうなら、その原因を取り除きたい。
——いまならきっと、もう大丈夫。
「大丈夫だよ」
もう一度、私は告げる。彼は少し困った様子だった。「おかしなことを言いました。すまない」と謝ったあと。
「愛しています。我が妻よ、おやすみ」
その言葉に私も、「おやすみ」と返す。灯りを落とした夜の室内。ベッドの中で、ぼんやりと明日以降のことを考える。
——大丈夫だよ。
心の中で、そう呟く。今度は、自分に向けて。
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