第11話

 うーん……、開きたくない……。

 僕はさっき届いたばかりの新着メッセージを、開かずに眺めていた。

 トークのリスト画面に書かれている途中までの文面にはこう書かれている。

『忍さんお疲れ様ですっ! この前の件どうなりましたか?? 詩穂ちゃ...』

 言うまでもなく、詩穂には電車で高橋くん「たち」と遭遇したことは伝えてない。三月も、仕事のピークとともにいつの間にか過ぎてしまっていた。

 その間に詩穂と交わすメッセージも、一日に数度の短い会話から、なんとなく益体のない会話がつらつらと断続的に話すようになったのだが。

 相変わらず詩穂の顔を見ていないし、普段のしょうもない話をしているだけでは出かけようという話もさっぱり出ることもなく。

 たまに「観光地で桜が見ごろらしい」とか、「あそこの名産品がおいしいらしい」なんて話をきっかけに、こういうところに行ってみたいよねと盛り上がりはしても、じゃあ一緒に行こうっていうところまでは、今まで言い出せないでいた。

 ……だってやっぱ照れるじゃん? 何日も有給取れなさそうだしさ。

 

『――なら、今度ご飯でもいこうよ』

 四月の頭、僕がそう切り出したのは、先日あった年度末の飲み会の話をしていた時だ。

『お、いいね。どこ行く? できればそんな高くないとこがいいな』

『同感。僕も高いとこは勘弁』

『さすが安月給』

『うるせ。詩穂には絶対奢らねぇ』一言多いんだよまったく。

『いいよ。割り勘にしよ』

『なんとおとこらしい』

『一言多い。奢らせるぞ』

『ごめんて』

 言葉のブーメランは投げる前に僕の後頭部に突き刺さっていたらしい。

『じゃあ、どこ待合せにしよっか』

 自然と口元を緩ませ、僕は続きを促す。

『この前のとこでよくない? お店も周りにあるし』すぐに返信が返ってくる。

『いいね』僕も異論はない。

『じゃ、そういうわけだから予約よろしく』

『了解。なんか希望ある?』

『あんまり生の魚好きじゃない』

『じゃあ普通な感じで』

『普通な感じって逆に怖いんだけど笑』

 返信しながら僕は予約サイトで店を探し始める。

 その間も、大学の研修室であった合宿の食事だったり、もっと遡って小学生の時の修学旅行でのハプニングだったりと話が弾む。

 探すよりも返信する方に意識を向けてしまって全然進まない。

 返信を遅らせるとこの時間が終わってしまうような気がして、たったの一秒、一瞬すら惜しい。

 ちらと時計を見て、今日の終わりが迫っていることに焦りすら感じながらも、「もう寝なきゃ」の幕引きもできないでいた。

 ――明日の朝が辛いのは確実だけどもう少しだけ。昼休みに寝ればいいな。

 そう思ったのはもう三十分も前。未だに店を決められていない。

 いよいよみんなの理想的な八時間を二で割った時間を下回りそうになって、僕はようやくそれを口にする。

『ごめん、さすがにそろそろ寝るね』

『あれ? 明日も仕事だっけ』

『そーだよ。明日も平日じゃん』

『あたし明日も休みだから笑』

『許せん』

 これだから学生ってやつは。夜更かしを気にする必要がないのは羨ましく、また余裕ある感じが恨めしい。

『店は明日予約取っとくね』

『まだ取ってなかったの』

『話してたから、つい』

『そっか。決めたら教えて』

『了解。おやすみ』

 僕はスマホの電源を落として、真っ暗な部屋で目を閉じる。

 さて、寝れるかな……。

 夜更かし好きな瞼は、まだまだ夜を謳歌していたいみたいで、油断すると勝手に開いてトーク履歴を追ってしまいようになる。

 日程は明後日、終業後。どうにかして定時で上がらなければと思うと、逆に気分が高ぶってしまう。

 ……これはまだ寝れないな。

 二、三分前の心配を確信に変えて、僕はひらすらに寝ているフリをすることにした。


 木曜日、夜七時少し前。

 地下鉄の駅から外に出ると、春の夜の街は雨の匂いに満たされていた。

 少し空を見上げながら手の平をかざしてみるが、そこに当たる雨粒はない。

 職場を出た時はぽつぽつ来てたが、地下鉄で移動するわずかな時間にだけ降ったんだろう。

 事実、コンクリートの地面の黒を濃くする程度には濡らしているが、水たまりができるほどでもない。

 僕は今、早歩きで地下鉄から在来線の駅に向かっている。

 目的地は一月と同じ待ち合わせ場所。

 お店も七時半からで予約しているし、「僕の仕事の都合で少し遅れるかも」という前提で約束しているから急ぐ必要はないんだけど、むき出しの首筋に当たる風が肌寒く、早く風が当たらないところに行きたかった。

 もう五分ほど歩いて待ち合わせ場所に着く。辺りを見渡したが詩穂はまだ来ていないようだ。

 僕は大きなパネル広告に背中を預け、どれくらいで着くかと連絡を入れ、そのままニュースサイトで記事を流し読みすることにする。

「――お待たせ」

 二本記事を読んだところで背後からかかった声に、久しぶりに聞いた背後からの声にスマホから顔を上げた。

「よっ」

 僕が振り返るより早く、前を開けたコート姿の詩穂が僕の前に回り込んできて右手を上げると、何度か感じたことのある甘い匂いがした。

「待った?」

「いや、今来たとこ」

「その返しデートっぽい」

「定番だよね」実際、今来たばっかりだけど。

「じゃ、いこっか。案内よろしく」

 予約した店までの地図を開いて歩き出した僕に合わせて詩穂が並ぶ。

 駅からの道は大体わかってるけど、この辺りは一つの狭いビルの中にいくつも店舗が入ってて、看板がなくてビルの表札にしか出てないことが多い。入り口もコンビニの横の狭い階段だったり、裏口だったりで地図を見ていても分かりづらい。

 夜の明かりをギラギラと纏う看板の下、線路沿いの路地を歩く。何度か声をかけてきたキャッチを無視し、同じ道を何度か行き来してる間に、予約時間を少し過ぎてしまった。

 ようやくたどり着いた壁の塗装にひびが入った古いビルのエントランスでは、先に大学生らしき三人がエレベータを待っていた。

 彼らと一緒に乗り込んでは同じ階で降り、喧騒が漏れる店内に入っていく。

 予約した居酒屋はもうすでにある程度席が埋まっていそうな混み具合で、先に降りてもらった大学生たちが先に案内されていった。

「先行かせてあげたんだ。優しいじゃん」

「てか、予約してたしね」

「それもそっか」

 彼らが曲がっていった奥の突き当りを見ながら笑っていると、店員さんが戻ってくる。

「お待たせしました。二名様でよろしいですか? ご予約はされてますか?」

「あ、はい。予約してた利田といいます」

 スマホの予約画面を見せると、レジ横の壁にかかっているクリップボードを確認してから、二人掛けの対面席に案内された。ちなみに今日は混雑時の二時間縛りはないらしい。

 僕らが席に着くのを待って先に飲み物を聞いてきたので、僕はハイボール、詩穂はホワイトサワーをそれぞれ頼んだ。店員さんが離れたのを待って、詩穂がにんまりしながら僕に言う。

「飲み会と言えばとりあえずビール、じゃないんだ」

「まあね。飲めなくはないけど僕ビールあんまり好きじゃないし」

「お子ちゃまじゃん」

「うるさいな、いいだろ別に。じゃあ、そう言う詩穂はビール好きなんだよね?」

「あたし? いやあたしはむしろ飲めない」

お前が言うなおまゆう

 詩穂がいかにビールがまずいと思っているかを聞き流しながら、僕は席の左端にある注文用のタブレットに触れる。このまま話してると酒だけ飲んで帰ることになりそうだ

「嫌いなものあったっけ」

「生の魚と、揚げ物はあんまり」

「ああ言ってたね。揚げ物もダメなんだっけ」

「そそ。でも唐揚げは好き」

「唐揚げいいよね」

 居酒屋といえば、脂っこいチキン南蛮だと思うんだけどもったいない。これはもしかしたら次は僕がチキン南蛮の良さについて語る番か。

 じゃあ、と言ってさっぱり系っぽく見える二品を注文リストに入れる。あと唐揚げも。

「あたしこれがいい」

 グラスで冷えた詩穂が冷たい指先が、端末を触っていた僕の人差し指の甲に触れた。反射的につい手を引っ込めてしまった。

「ごめん」

「い、いや……」

 なんとも言えない気恥ずかしさを隠して短く謝り、詩穂も何事もなかったかのように(詩穂にとっては何も感じないことなのかもしれないけど)、モッツァレラチーズとトマトを盛りつけたメニューを注文リストに入れた。

 高ぶりかけていた気持ちを落ち着けてから、頼み忘れがないか声をかける。

「こんなもんでいっか」

「おけ」

 注文が完了しましたと画面に出たところで飲み物が運ばれて来た。

 乾杯しよっか、という提案に返事をするでもなくグラスを持ち上げて、

「じゃ、おつかれー!」「おつかれーっす」

 がちん、と控えめにお互いのグラスを鳴らして乾杯。

「あー……仕事終わりのこの一口がたまらない」

「忍おっさんくさい」

 そういう詩穂は両手の指先で覆うようにジョッキを持って上目遣い、抜かりなく「らしさ」をアピールしてくるのを、僕は気づかないフリをした。

「うるせ」

 下手に隙を見せるデレると遠慮なくつけこんできそうだし。

 もう五分くらい待って運ばれてきた料理を、チャットでしていた話の続きをしながら詩穂が取り皿に取り分けてくれる。

「さんきゅ」

 代わりに箸を渡して食事をつまむ。

「ポテトは欠かせないよね」

「わかる」

 咀嚼しつつフライドポテトを追加注文。ついでに次の飲み物も。

「そいや今日仕事大丈夫だったの?」

「なにが?」

「最近忙しそうだったじゃん?」

「あー……、平気平気」

 昨日は久しぶりにがっつり残業したけど、山場を越えて今は平時に戻りつつある。

「そうなの? えっと誰だっけ、あのよく話してくれる変な人」

「変な人……。ああ、相沢さんか」

「あ、そうそう。あの人は大丈夫だったの?」

 この前椅子で回ってた話とか、冬島さんに嘘ばっかり吹き込む話とか、言っちゃってたしな。

「自分が代わりに行くから僕に仕事しろとか言ってたけど、あの人定時で先に帰ってたから」

 ……さっきの訂正。あの人が変な人呼ばわりされるのは本人のせいだった。

「あははっ、そうなんだ」

 仕事の合間に繰り広げる意味不明な職場のやりとりに、詩穂は手の平をつけたまま指先だけで机を叩いて笑う。

「いつも通り」多分、今日イチいい笑顔をしてる。

「やばい忍が毒されてる」

「ごめん否定できない」

 一通りの料理も揃ってからも、ころころ話題を変えながら、どうでもいいくだらない話が続く。

 好きなお酒の話、仕事と学校であった理不尽なこと、お互いの家族、動画サイトで見た可愛い動物の話、子供の頃の話……。

 注文用の端末で見た時刻では一時間半が経っていた。

 僕は机に伏せていたスマホをひっくり返して、机の上に置いたまま電源を入れる。

『もしかして今日詩穂ちゃんと一緒にいます??』

「!?」

 ロック画面に出た中野さんからのトークに、血の気が引く。

 咄嗟に電源を消して勢いよく顔を上げ、つい辺りを見渡してしまった。え、どういうこと? どっかで見られてた?

「どしたの?」

 僕の反応に少し驚いた顔をした詩穂が聞いてくる。

「あっ、いや。知り合いが僕が詩穂といるところを見たっぽくて、さ」

「あー、そゆこと? びっくりするよね。まさかあたしとも知り合いだったり? なぁんて」

 さらっと核心をついてくる詩穂の言葉に不意打ちされて、数秒の逡巡を生んでしまった。

「あ、いや、そんなんじゃないよ。共通する知り合いなんて小学生の時くらいだし」

「それもそっか」

 よかった、上手くごまかせたみたいだ。僕は黒いスマホの画面を見て息をつく。

「ちょっとトイレ行ってくるね」

 お酒が入ってたせいもあって急に尿意を催した僕は、念のためスマホを伏せて席を立った。

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