14話-2、何もかもが初めての体験

 辺りは夕闇に染まり、温泉街が温かな提灯の灯りに包まれ始めた頃。


 昼頃に花梨の部屋に押しかけて、そのまま眠りへと落ちたメリーさんがゆっくりと目を覚ます。

 倒れるように眠ってしまった時の体勢から変わっており、頭はちゃんとふかふかの枕に乗っていて、小さな体には一枚の薄い掛け布団が掛けられていた。


 体を起こして周りを見渡すと、部屋の電気は消されて薄暗くなっており、窓から差し込んでいる青白い月の光が部屋の一部を鈍く照らしている。

 部屋には誰一人としておらず、不気味な静寂だけがメリーさんの起床を見守っていた。


「夜まで寝ちゃったわっ……。部屋が真っ暗で、誰もいない……。やっぱりあの人も、逃げちゃったのね……」


 部屋に誰もいない事に落胆したメリーさんは、ふとももまで落ちていた掛け布団をギュッと握りしめ、目に薄っすらと涙を溜めてうつむいた。


「そりゃそうだわっ。あの人はあんなに優しくしてくれたのに、それに対して私は何をしたの? 背後からいきなり驚かせて……、それなのにちょっと謝っただけ……。そのうえ、その人の布団で勝手に寝ちゃったんだもん……、グスッ。逃げられて当然だわっ……。うっ、うぅっ……。私の、バカァ……」


 顔を歪めて深く自己嫌悪したメリーさんは、愚かな罪を犯した己を罵倒し、後悔に後悔を重ねていく。

 その後悔の念が溢れんばかりの涙へと変わり、掛け布団を握りしめている自分の手に、大粒の雨のように降り始める。


 落ちてきた涙の雨粒でハッとし、「あっ、汚したら怒られちゃう……!」と、焦りを募らせ、次から次へと落ちてくる綺麗で汚れた涙を、袖でゴシゴシと念入りにぬぐった。

 降り注ぐ涙を拭っていると、扉の開く音とカチッという音と共に部屋がパッと明るくなり、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら花梨が部屋へと入ってきた。


「ふい〜、いいお湯だったなぁ〜」


 体から、白い湯気を昇らせている花梨の姿を見たメリーさんは、夜空よりも暗かった表情が、明るくなった部屋よりも眩しく思えるほど明るい表情へと変わり、心の底から喜びながら叫び始める。


「も、戻って来てくれたぁっ! どこに行ってたのよぉ!」


「あっ、起きたんだね、おはよう。露天風呂に入っていたんだよ」


「……ろてん、ぶろ?」


「えっ、知らないの? もったいないなぁ〜。普通のお風呂よりも格段に気持ちがいい……、大きなお風呂、かな?」


「おふろっ?」


「お風呂も知らないの!? うわぁ、損してるよ? すっごい損してるよ、君」


「そ、そうなの? そのっ、お風呂っていうの? 私も……、入れるの、かしら?」


 そのか細い問いかけに花梨は、あ〜……。私の部屋にあるお風呂ならば、ぬらりひょん様も怒らないかな? と、予想すると、メリーさんに向かって笑みを浮かべつつ手招きをした。


「入れるよ、入ってみる?」


「ほんとっ!? 入ってみたいわっ!」


「オッケー、了解。ちょっと待っててね。いま、お風呂にお湯を溜めちゃうから」


 花梨が脱衣場へと向かうと、手招きされたメリーさんもベッドから飛び降り、小さな歩幅でその後を追っていく。

 先に浴室に入った花梨は風呂の栓を閉じ、風呂にお湯を溜め始めると、メリーさんが物珍しそうに蛇口からお湯が出てくる様子をじっと眺めていた。


「んじゃあ、お湯が溜まるまでの間に、頭と体を洗っちゃおうか。自分で洗える?」


「あらう……? 初めてだから、何がなんだかサッパリわからないわっ」


「そ、そうだった……。じゃあ、まずは着ている服を全部脱いでちょうだい」


「えっ? ぬぐって、なにかしら?」


「そこから!? ああ〜……、分かった。私が脱がせてあげるよ、頭と体の洗い方も全部教えてあげるね」


「ごめんなさい……」


 花梨は袖とズボンを限界まで捲り上げ、メリーさんが着ている脱がし方を知らないロリータドレスを、悪戦苦闘しながらもなんとか脱がせる事に成功した。

 ロリータドレスにシワが出来ないよう綺麗に畳むと、残りの着ている物は自分で脱ぐよう指示を出し、その様子を静かに見守った。


 全て脱ぎ終えたメリーさんの体にタオルを巻くと、一緒に浴室へと向かい、備え付けの椅子に座ると、モジモジと恥じらいながら花梨に目を向ける。


「な、何も着てないって、なんだかとっても恥ずかしいわっ……」


「そう思うのが普通の感覚だよ。さっ、頭を濡らすから目を閉じててね」


 そう言われたメリーさんは、花梨に言われた通りに目を閉じ、同時に両手にもギュッと力を込めて握り拳を作る。

 そして暗闇の中、キュッキュと何かを捻る音と、雨が勢いよく地面に打ちつけるような音が聞こえてくると、不意に頭に勢いのある温かい何かが降り注いできた。


「ヒャッ!? な、なにっ? なにしてるのっ!?」


「シャワーって言う物からお湯を出して、頭にかけているんだよ。これで全身を濡らして、洗う準備をしているんだ」


「……温かい」


「でしょ? お風呂はもっと温かくて気持ちが良いから期待しててね」


「うんっ」


「よし、充分濡れたな。それじゃあ頭から洗うね」


 メリーさんが目を開けると、目の前で花梨の手が黒い容器をプッシュしており、その容器の先から白くてトロッとした液体が出てきている。

 その液体を両手で擦りつけていると、背後から「んじゃ、頭を洗うからまた目を閉じてね」と、花梨の声が聞こえてきた。


 メリーさんは、再び目と両手をギュッと閉じると、髪の毛全体を触られ、優しくマッサージされるように揉まれ始める。

 すると、頭全体がフワフワした柔らかい物に包み込まれるという、初めてのくすぐったい感触がメリーさんを襲った。


「なにっ? 今度はなにっ!?」


「これはシャンプーって言って、髪の毛に専用の液体洗剤をつけて洗っているんだ。見えてないだろうけど今、君の頭がすごいモコモコになっているよ」


「も、モコモコ? 見てみたいわっ」


「ダメだよ目を開けちゃ。目に入ると、すごく痛いから我慢しててね」


「……痛いのはイヤだわっ。それにしても、いい匂い」


「だよねぇ、私もこの匂い大好きなんだー。よしっ、洗い流すよー」


 花梨の声と共に、再び温かい雨がメリーさんの頭に降り注ぎ、モコモコとしている物が洗い流されていく。

 全て綺麗に流されると、カシュカシュとまた何かを押す音が聞こえてきて、洗われたばかりの髪の毛を触られ始めた。


「またシャンプーってやつをやってるのかしら?」


「違うよ。これは、髪の毛をサラサラに整えてくれるコンディショナーって言うの。必ずシャンプーをした後にやってね。満遍なく髪の毛に行き渡らせてから洗い流す、これで髪の毛を洗うのは終わりだよ」


 そう花梨が説明を終えると、三度目の温かい雨がメリーさんに降り注いでいき、髪の毛に付着しているコンディショナーが洗い流されていく。

 洗い終わったのか温かい雨が止むと、メリーさんは閉じていた目をゆっくりと開き、背後にいる花梨に目を向けた。


「これで終わりかしら?」


「いや、次に体を洗うんだ。この濡らした網目状のタオルに、ボディソープって書いてある容器に入った液体洗剤を付けてっと」


 花梨が、白い容器を押してタオルに液体洗剤を付着させると、素早くゴシゴシと擦り始める。

 すると、雲みたいに白くてモコモコした物体が、タオルから溢れんばかりに湧き出して、その光景を目撃したメリーさんが目が飛び出さんばかりに驚愕し、湧き出てきている雲に向かって指を差した。


「な、なにこれ!? なにこの白いのっ!?」


「これが、君の体を綺麗にしてくれる泡っていうんだ。シャンプーをしている時に、髪の毛を綺麗にしてくれたのもこの泡だよ」


「へぇー、ふわふわしてるわっ」


「洗う順番は〜……、私がやっている順番でいいかな? このタオルを持って、まずは左腕から優しく擦るように洗ってね」


 花梨から、泡立っているタオルを渡されたメリーさんは、ぎこちない動きをしながらも、指示通りに左腕を撫でるように洗い始めた。


「こうかしら?」


「そうそう、肩までちゃんと洗ってね。脇の下も綺麗にして……。終わったら右腕も同じようにやってね」


 花梨の厳しいチェックの元、メリーさんは四苦八苦しながらも体を綺麗に洗っていった。

 右腕と脇の下を洗うと、今度は首周り全体。そして、胸と腰を洗うよう指示を出されて順番に洗っていく。


「次は背中だけど、君にはまだ難しそうだから私が洗ってあげるね。君は髪の毛を持ち上げててちょうだい」


「わかったわっ」


 メリーさんは花梨にタオルを手渡すと、自分の髪の毛を小さな手で束ね、邪魔にならないように持ち上げる。

 そして、背中が擦られる感触がしてきたと同時に、背後から花梨の羨ましそうにしている声が聞こえてきた。


「君の肌、すっごいスベスベしてるねぇ」


「スベスベ……? そうなってると、いいのかしら?」


「うん、女性の理想の肌だよ。羨ましいや」


「そ、そう……。ふふふっ」


 肌の事を褒められたメリーさんは、言葉の意味自体は理解していないものの嬉しくなってしまったのか、花梨に悟られぬよう笑みをこぼす。


 その間に背中が洗い終わり、再び花梨にタオルを手渡され、太ももからつま先まで洗うよう指示を出される。

 指示通りに洗い、足の指の間と足の裏を丁寧にゴシゴシと洗う。残りの洗っていない箇所を全て洗い終わると、花梨がニッと笑みを浮かべた。


「よし、これで体も終わりっ。シャワーで洗い流すよー」


 そう言った花梨はシャワーヘッドを手に取り、蛇口を捻ってお湯を出し、メリーさんの体を洗い流し始めた。

 初めてシャワーからお湯が出ている場面を目撃したメリーさんが、不思議そうにしながら口を開く。


「これが、シャワー?」


「そう。そこにある蛇口を捻ると、こうやってお湯が出てくるんだ。ちなみに、青い蛇口は冷たい水、赤い蛇口だとこの温かいお湯が出てくるんだよ」


「へぇ〜、わかったわっ」


 メリーさんの体を綺麗に洗い流すと同時に、お湯が満タンになっていた浴槽から、滝のように勢いよくお湯が溢れ始める。

 それに気がついた花梨が、「あっあっあっ! マズイマズイ!」と、焦りながら声を上げつつ、慌てて風呂の蛇口を閉めた。


 その光景を呆然としながら見ていたメリーさんが、「どうしたのかしら?」と、ため息をついている花梨に問いかける。


「いやー、お風呂のお湯を入れすぎちゃって溢れちゃったや……。ごめんね。君、身長が低いから座りながらお風呂に入れなくなっちゃった……」


「よくわからないから、私は別に構わないわっ」


「ごめんね、ありがとう。それじゃあ君の体を持ち上げるね」


 花梨が再度謝ると、メリーさんの体を優しく抱き上げ、湯船の中へゆっくりと沈めていった。

 メリーさんの身長が低いせいか、立ったままの状態でも肩まで浸かってしまうも、メリーさんは浴槽のふちを小さな手で掴み、初めての風呂を体験し始める。


 風呂に浸かってから一切喋らなくなったメリーさんを見ていた花梨が、心配そうな眼差しを向けながら恐る恐る口を開いた。


「……どう、湯加減は? 気持ちいい?」


「…………」


「あれっ? もしもーし?」


「……ふぇやあぁ〜〜……」


「ああ、意識がどっかに飛んで行っちゃってる……。すごく気持ち良さそうな顔をしてるや」


 花梨は、メリーさんから生まれて初めての風呂の感想を聞こうとするも、とろけるようにうっとりとしている表情を見て、全てを理解してニコッと微笑んだ。

 そのメリーさんは、小さな口をポカンと開きっ放しにし、絶えず気持ちよさそうな声が混じっているため息を漏らしていた。

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