第10話 凍った心臓を燃やすもの

 ······妖術とはよく出来ている。

 水面から見える滝底に深い深い穴を掘り、自分の住処をこしらえて、綺麗に隠してしまうのだから。



 明治時代の調度品が並び、異国情緒溢れる小物が部屋を飾る。絢爛豪華けんらんごうかな洋風建築は、日本古来の妖怪には到底似合うとは思えない。


 しかし、女郎蜘蛛はそれらを完璧に従えて、優雅に暮らしていた。女郎蜘蛛は細やかな装飾の施されたソファーに浅く腰かけて、引きずり込んだ魂のコレクションを眺めて満足そうにため息をついた。

 コレクションされた人間は、どれも恐怖に怯えた表情で固まっている。「美しいわね」と彼女は言うが、恐れおののく彼らの姿は『美』とはかけ離れている。

 女郎蜘蛛の感性は、平々凡々な人間には理解出来ない。



「こんなに素敵な所なのに、どうして私の奏は動かないのよ」



 女郎蜘蛛が私に問いかけた。だが、部屋の隅で四肢を床に投げ出し、虚ろな瞳で宙を仰ぐ私には何も答えられなかった。


「ねぇ、一緒に楽しく暮らしましょ? あんな男よりも私の方が奏を理解出来る。あなたを守れる。忘れなさいな、偽りの仲間なんて」

「··················」


「あなたを信じない奴なんて、あなたの言うことを聞いてくれない奴なんて、必要ない。それが真実でも嘘でも、耳を貸さない奴らなんて、守る価値はないわ」

「··················」


「お願い、奏。私たちをまっすぐ見てくれたのはあなただけよ。あなたばかりが苦しむなんて、見てられないわ」

「··················」


 胸の中は空っぽで、脳は考えることを止めていた。動かない体は三日も飲まず食わずでも、透けることも消えることなく、その場に根を下ろしたように縛り付けられていた。

 私のそんな様子を、女郎蜘蛛は胸を痛めて見下ろしている。彼女が伸ばした手も、私は握ってあげられない。


「······奏が傷つく必要ないわ。あなたは、間違っていないのよ」


 何も紡がぬ口は言葉を忘れたようで、息を吐くだけの無益な存在と変わり果てた。「ありがとう」の一言でも、出たらいいのに。

 感覚の中で、耳だけが正常らしい。けれど、拾う音は滝の上の、望月の呼び声だけだ。本当に正常かどうか、疑わしい。


「あの野郎、まだいやがるのね」


 女郎蜘蛛は空を見上げると、舌打ちをして望月を追い返しに行った。女郎蜘蛛が起こした僅かな風で、私の体は斜めに傾く。


 あれから望月は、滝壺で後悔の言葉を吐き続けていた。昼も夜も絶え間なく、私を取り戻そうと必死になっていた。けれど、私にはもうどんな言葉も届かない。


 人形と変わらない私を動かすものなんて、あるのだろうか。感情も心も失った私を、一体何が埋めてくれるのか。


 そういえば、生前も同じようなことがあったな。

 いつだったか、全てが敵に見えて、自分が否定されるのがすごく苦痛だった頃がある。あの時だけは、逃げるって考え方が出来た。

 それで学校に行かなくなって、親切な担任が何度も何度も連絡くれた。

 あの時は、どうやって体を動かす原動力を手に入れたんだっけ?



 ──もう遠い記憶だ。



『うるっさいわよ! 帰ってちょうだい! あんたがなんて言おうと、奏は返さないわ!』

『あいつは俺の弟子だ! 返してくれ!』

『あの子の心を打ち砕いておいて、人間ごときが偉そうに! ブスの味方した師匠失格ダメ男の元に返すものか!』

『頼む! 奏を否定したかったわけじゃない!』

『なら最初から、奏の味方をしていれば良かったのよ!』


 地上の会話が、滝底に聞こえてくる。女郎蜘蛛に一歩も引かず、望月は私を取り戻すのに必死になっていた。


 でも、そんな事すらどうでも良い。私には、もう帰る気は無い。最初から、あの里が私の居場所だなんて、思っていない。帰る場所とも、もう感じていなかった。


「ずっと同じ体勢でいては、体が辛かろう。それに床は冷たく固い。こちらにおいで」


 精霊が私を案じてくれるが、私に返事なんて出来ない。精霊はため息をつくと、肩を貸してソファーに座らせた。女郎蜘蛛の淹れたての紅茶を私に握らせて、真っ直ぐな瞳で口を開いた。


「せめてこれは飲んでくれ。霊体とはいえ人間には栄養が必要なんだろう? それに妖怪の領域にずっと居ては、いずれ力を全て喰われてしまう。ちゃんと気を持ちなさい」


 温かい紅茶に映る自分はまるで抜け殻だ。光の灯らない瞳は紅茶さえも認識出来ない。精霊の手を借り、どうにか腕だけでも動かして紅茶を啜った。

 一口だけで体の機能は停止する。精霊は目を伏せて私の髪を束ねる髪紐を外した。

 女郎蜘蛛の私物であろうべっ甲のくしで、私の髪をかしてくれる。


「しっかりしろ。お前らしくもないぞ。いつもの強気な奏はどこにいった? 誤ちを認め、正しく直せる心の清らかな娘は、お前だけだろう? あの詩音という娘ではない。私たちのように稀有けうな存在を受け入れてくれた、優しい子はどこだ?」



「もう一度、私の唄を歌ってくれ。誰も知らなかった、私の賛美歌を、お前だけが歌ってくれた」



 何度目のセリフだろうか。櫛で髪を梳く精霊は悲しみを噛み潰して、私の心を揺さぶろうとした。それでも私は人形のまま、何も変わらない。


「その心の傷を、私が癒してやれたなら」




 ──私の中を埋め尽くしていたのはなんだっけ?


 ──私が私たる証拠となるものはなんだっけ?


 ──私にあった強い『何か』ってなんだっけ?


 ふと、望月の声が聞こえた。女郎蜘蛛に負け、ようやく引き下がるところらしい。悔しそうな声が、頭上にひらひらと降りてくる。



『ならば奏に、これだけは伝えてくれ! 『どうしても無理なら、里に来なくていい』と······』








「──────────────あぁ?」








 髪の手入れを終えた精霊が驚いた。握っていた櫛が床に落ち、カランと冷たい音を立てた。私は水引のような髪紐を握りしめて立ち上がった。


 部屋がガタガタと強く揺れ始め、あらゆる調度品が揺れに耐えられずに倒れていく。女郎蜘蛛には後で怒られそうだ。けれど精霊は頬を緩め、どこからか杖を顕現すると、それで床を小突いた。柔らかい水が私を包みこんで、地上へと運んでくれた。



 崩壊した心は歯車のように組み立てられ、より精巧に、より強い形を創り始める。



 この胸を渦巻く『恨み』は私の瞳に光を灯す。


 身を駆け巡る『怒り』は私の霊力を増幅させる。


 鼓膜が破れるほどに聴こえる音が、溢れる唄が、私を奮い立たせた。





 ──あんの野郎っっ!! ぶっ潰してやる!





 この感情こそ、私が『朝日野奏』だと証明出来る、唯一のものだ。


 ***


「何で私があんたのどうだっていい言伝なんか、届けないといけないのよ!」

「せめてそれだけでもしてくれ! 頼む」


 必死に食い下がる望月に、女郎蜘蛛の堪忍袋の緒がキレる刹那、私は派手に水飛沫をあげて、滝壺から飛び出した。


 望月はぎょっとして私に注目する。ぱくぱく口を動かすも、言葉にはならなかった。女郎蜘蛛は意地悪く笑うと、何も言わずに望月の前をスッと避けて、私に場所を譲った。


 私は飛び出したその勢いを殺さずに、望月に一発、強烈な鉄拳を放った。

 頬に右ストレートが綺麗に入ると、望月の体が川へと叩きつけられ、そのまま遠くへと滑っていく。いきなり殴られた状況に、理解が追いつかない望月は頬を押さえて立ち上がる。


 ──私が、あの一発で許すと思うか。バーカ!





「なっ、にっ、がぁっ! 『来なくていい』だこのクソジジィ!」





 私は川べりの石を踏み台に、遠心力を惜しみなく使った回転蹴りを、望月の胸に喰らわせた。

 残念ながら、望月の反射的に防御した左腕に当たった。が、その威力は絶大だ。骨が折れたような音がして、望月は歯を食いしばって腕を押さえた。



「お前が呼んだんだろうがあの里にぃ! 帰る場所を奪ったのもお前だろうが! 何で『自分悪くない』スタンスなんだよ!」

「あの会話聞こえてたのか!?」

「お前の懺悔ざんげタイムから筒抜けだコラァ!」



 連続で繰り出される私のパンチやキックに、望月は防戦一方だ。いや、反撃する意思がなかったのだ。

 望月の身体中にアザが出来ても尚、私は攻撃をやめなかった。足払いをかけてまた望月を転ばせて、みぞおちを思いっきり踏みつける。私はうめく望月を見下ろして叫んだ。





「どうして私の味方をしなかった!」





 ──どうしても、どうしても納得したくて聞いた質問だった。だが望月は口を固く結んで答えようとしない。

 一秒経つごとに怒りで身が焦げていく。恨みが私を妖怪へと変化させようとする。既に喉が渇く。腹が減る。今すぐにでも、望月に歯を立てて、恨みをその魂ごと貪りたい。

 それをぐっと堪えて私は待った。耐えきれないような負の感情を、私は自力でねじ伏せる。

 限界を超える一秒もない時間を、限りなく薄く引き伸ばして待った。


 そして望月は、ようやく口を開いた。


「お前に、仲間が出来ると思ったからだ。詩音は愛嬌がある。お前は物静かだが賢いだろう。里でいつも浮いているお前に、一人でも仲間が出来れば、暮らしやすいと思ってやったことだ。だが、何を言ってもどう言っても、苦しいばかりの言い訳になる。納得しないなら、好きなだけ殴ればいい。それで心が晴れるなら、俺はいくらでも体を差し出そう。どうせ死にはせん」


 覚悟を決めた望月は、無抵抗の証として両手を広げて目を閉じた。川を流れるように、大人しく、私の怒りを受け止めようとしている。私は握りしめていた拳を振り上げた。けれど······──




「女郎蜘蛛、世話になった」




 振り上げた拳をだらんと下ろし、私は望月の上から退いた。女郎蜘蛛は不満そうに「いいの?」と聞いてきた。


「もうちょっとくらい、やっちゃって良かったんじゃない?」

「やめろ。せっかくのケジメに水を差すな」

「精霊ちゃんも真面目ね」


 別に納得したわけではない。望月を許すわけでもない。なんならこの先数百年は恨んでやる。

 ただ、私の原動力を思い出させてくれた。それだけは少し、嬉しかった。これに免じて、今殴るのはやめるだけだ。



 ············それだけだ。



 望月はびしょびしょの体を起こして、私の頭を撫でた。その懐かしい感触に、ようやく精神の安定が訪れる。だがこの歳で撫でられるのは少々恥ずかしい、というより腹立たしい。


 私は望月のスネを蹴り上げ、唾を吐いた。しかし、望月は怒るどころか、安堵あんどの笑みを浮かべていた。


「良かった」

「ド変態か。喜んでんじゃねぇよ」

「好きに言っていろ。······すまなかった」


 私はどうしていいか分からず、女郎蜘蛛たちを見やった。精霊は頷き、「今はそれでいい」と言った。

 女郎蜘蛛は私に親指を立てた。そして、「朗報よ」と真剣な眼差しで私たちを見つめた。



「あんた達の里から、詩音に似た亜種妖怪ブサイクちゃんの気配がするわ」

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