第5話 鬼の忠告
京都──近江山
私は腹を鳴らしながら現世を歩いていた。
幽霊でも食事や睡眠は必要だ。私は多少食べずとも問題ないが、昨夜から何も食べていないと、流石に力が出ない。
昨晩、喧嘩をしてから私と望月は冷戦状態に入った。私は広間で食事をせず、望月と朝の支度の時間をずらす。望月は廊下ですれ違っても、洗面所で出くわしても、私と顔も合わせない。
緊迫した空気が辺りにピンと張り詰めて、屋敷にいたくなかった。だから、詩音を理由に里を抜け出せたのは、私にとって本当に好都合だ。
あの一蹴りの代償が大きすぎる気もする。けれど冷戦自体、よくある事だ。私は割り切って山道を歩いていた。
「あの······朝日野さん」
私の隣を歩く詩音が声をかけた。顔を覗き込んで不安げな様子だ。表情から言いたいことを汲み取って返事するが、正直それもめんどくさい。
「飯抜きなんてよくあるよ。別に食わなくても、私は問題ないけどさ。こうなると、だいたい冷蔵庫の食材使い切られるけど、明け方に残りもののシシャモかっぱらってきた。それ食ってるから平気だよ」
「そう? それなら良いんだけど······」
望月より早起きすれば、僅かなおかずの調達くらいは出来る。たまにしくじって使い切られるが、望月の冷戦時の起床時間を把握すれば、回避出来る。
私はパーカーのポケットに隠した焼きシシャモの包みを開けた。三本入ったそれを一つつまんで口に運ぶ。
「朝日野さん、そういえばあの、どうして山に入ったの?」
「ん? あー、それは······」
『山はあの世の入口』
一部の地方ではそう言うから。事実、山に迷い込んだ亡者は、山にいる精霊にあの世へと道案内してもらえる。私の予想では、詩音はきっと、迎えが来る前に出歩いてしまったのだ。だから死後まもないのにさ迷っていたのだ。つまり、山に来た今なら成仏できる──
──はずなのだけど。
どこに行っても木の精霊が現れない。それどころか精霊が遠ざかっていくような気さえもする。
私は耳を澄ませて精霊の居場所を探るが、一歩進む度に音が消えていく。いつもなら、自ら出てくる精霊がいやに消極的だ。
徐々に腹が立ってくる。何とか怒りを堪えて精霊を追いかける。一時間以上歩き回ったが、もう我慢の限界だ。
「あーもう! ムカつく! お前らが出てこないんなら、違う方に頼るよ!」
突然の大声に驚く詩音を引きずって、私は山奥へと勇んで進んだ。
生い茂った草をかき分け、少し歩いた先に洞穴があった。入口からでも分かる酒の臭いに吐き気がする。私が洞穴の中に入ると、シオンは置いていかれたくないやら何やらで、「ひぃ〜」と言いながらついてくる。
ただの水の滴る音にも怖がる詩音を後ろに奥へ向かうと、大柄な男が私たちに背を向けて寝そべっていた。
なかなかに美形なくせに、ボロボロな着物と宝玉の割れた首飾りを身につけていた。首の傷は、十年前に私があげた髪紐を巻いて隠している。
周りに散乱する酒のビンや壺の数の多さには、呆れてものも言えない。金髪がきらめく頭には立派な角が二本生えていた。
「おっ、鬼!?」
男を見て悲鳴をあげた詩音の頭上を、コウモリの大群が飛んでいった。余計パニックになる詩音に、私は深いため息をこぼした。その場にしゃがませて、壺をなぎ倒して酒の入ったビンを探す。
「起きろジジイ。面倒かけんな」
ようやく見つけた瓶の中の酒を鬼の顔にかけてやると、鬼は寝惚け眼を擦って起き上がった。
「起きたか酒呑童子」
「酒かけられて起きんやつがどこにいるんじゃ」
酒呑童子は顔を拭い、呆れたため息をつく。詩音を見るとニッコリと笑って、爪の伸びた手を伸ばした。
「何じゃ、奏もたまには気が利くのう。寝起きの酒のツマミにゃあ、人魂が一番じゃて」
「触るなロリコンど変態野郎」
私は酒呑童子の顔に
詩音は私を盾にするように酒呑童子の様子を窺う。ビクビクと震えて私の背に手を当てる。
「こ、この人、大丈夫?」
「頭の話? 危険度の話?」
「酷いな奏。信用しとくれ」
酒呑童子が赤黒い炎で札を焼き捨てると、目覚まし代わりに枕近くの酒樽を手に取り、一気に飲み干した。
「今は人なんて食うとらんし、こうして大人しゅうしとるじゃろ? やんちゃしてたのは平安の時だけじゃて」
「ほ、ホント?」
「ホントじゃホント。もう人里出ても誰も俺のこと見えんでな、霊感の強い人間なんざ、現代にゃもうおらん。そんな人間のもん盗るっちゅーても、つまらんし、そもそも面白いもんもなかろうて」
酒呑童子はボリボリと頭を掻いて大きなあくびをする。本当に襲う気はないらしく、「酒があればええわ」と言って、酒の瓶に手をつける。漂う酒の臭いに耐えられず、私と詩音は鼻を塞いだ。
「うぷっ、酒臭ぁ······。なぁ酒呑童子、お前たしか地獄と繋がりがあったろ。この子を地獄の裁判所まで連れてけ」
「嫌じゃ」
気だるげに即答する酒呑童子だったが、苛立った私が札を見せると、慌てたようにつけ足した。
「嫌というか、無理じゃ。迎えが
──まぁ、そうなんだよなぁ。
チラッと詩音を確認する。里で送れる魂ではないし、かといって迎えが来ないのではどうしようもない。山の精霊が手を貸さないなら、私たちには手に負えない。
詩音に先に外に出てもらい、酒呑童子に持っていたシシャモの残りをお礼代わりに置いて、私も立ち上がった。
「待たんか」
酒呑童子は自分がつけていた石英のブレスレットを外すと、奥にあった一際大きな酒壺に口をつけた。二口三口ばかりふくむと、ブレスレットに思い切り吹きかけた。
──知り合いとはいえ、女の子に唾付きのそれをそのまま渡せるわけもなく、水瓶で少しだけブレスレットを洗うと私の手首に巻き付けた。
「今連れてきた
「誰か恨んだんじゃないの? お前も初めて会った時、私に同じこと言ったろ」
「それだけなら良いがの。最近人魂がどこかに引き寄せられとるでのう。新たな亜種が生まれるわけでもないに。良いか? もし面倒なことになりたくなければ、里には置いとくな。これをお守りに身につけとくんじゃで。肌身離さず身につけとけば、奏が危なくなった時にきっと助けてやれる」
キラキラと光る石英は原石なのによく磨かれているように見えた。酒呑童子にしては趣味のいい。
鬼の加護か。······効くかどうかは分からないが。
「ありがとう。酒飲み過ぎんなよ酒呑童子」
「また会えると良いのう。その時は酒を飲み交わそうぞ」
──バカ野郎、私はずっと未成年だ。
その思いを込めて親指を下に向けた。酒呑童子はカラカラと笑ってまた酒に手をつけた。洞穴に吹いた風が緑の匂いを鼻に届けた。安らかな歌が洞穴に反響する。その歌に私はそっと耳を傾けた。
外に出ると詩音が白い鳩を抱いていた。困った顔で私に救いを求めている。忙しなく首を動かす鳩を受け取ると、鳩はいきなり目を血走らせ、私の耳元で叫んだ。
『さっさと戻ってこい!
望月の声でそう叫ぶと、鳩は紙に戻り、脆く千切れて地面に落ちた。詩音は何が起きたのか分からずにオロオロしているが、私は違う。
「······腹立つ」
怒りが湧き上がり、望月を蹴り飛ばしたい欲求に駆られる。
詩音を連れて走った。山道を抜けるとようやく木の精霊が顔を覗かせた。だが、姿を現したところで今更遅い。
私はめいいっぱい精霊を睨みつけたが、精霊は安堵した様子で私たちを見ていた。だが、その瞳はどこか怒りを纏っているようだった。
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