人を喰らう

水澤 風音

人を喰らう

 文公七年のころ、長水県にという若者がいた。

 幼くして親を亡くして以来天涯孤独の身。まじめではある運がなく、奴僕として働いてもどうも長続きがしない性質だった。

 彼はおのれの不器用さをなげき、親をうらみ、世をうらんだ。ついには心のやりようもなくなって、


「自分のようなものが生きていてもしかたあるまい」


 行き場なく、雨風しのぎにこもった冬の古廟でひざをかかえそう思った。

 凍え死ぬ自らの姿を想像した

 と、戸外にはげしい明滅があり、直後に大きな雷鳴がした。

 ふと顔をあげると、いつのまにか廟内に濃い闇が立っているのに気づく。

 あっけにとられていると、


「おれは眾蛇しゅうだというものだ」


 闇は称し、自らをむくろにたかるうじの化身とあかす。


「そうか。ちょうど死ぬときめたところだ、食うならさっさとしろ」


 兎が力なくいうと化け物は、


「たしかに俺は人を食う。だがそれは死肉ではなくまことの生命、活きた魂そのものを食らうのだ。――ひとつ俺と約束をしないか」


「約束?」


「おまえがのぞむだけの富を得る力になってやる。その代わり時がきたらその半分をもらう。どうだ」


「蛆ごときに一体なにができるというのだ」


 兎の言に闇はハハハと笑い、ただちに姿を変じる。黒いかたちをしていたのが、ボロボロと細かく崩れていく。

 それが再び集まるや、眼前にはほこをたずさえた立派な兵士がたっていた。


 さらにその足元から影がひろがると、またたくまに同じ鎧姿が廟いっぱいにかたちを成し、次にはそれらが豪奢な美女たちと変わったのには兎も大いに驚嘆する。


「いつでも呼べ、陰からたすけてやる。きっかり一年後の財の半分がその代償だ」




 それから兎は妖力を用いてどんな仕事もこなし、またあらゆる難事をさけた。

 そして一年が経つころには都に居をかまえるほどになっていた。

 貴人の特権も金で手にし、愛らしい女との婚礼もひかえ、世に成せぬことはないと思うようにもなっていた。


「このうえはいっそう栄達していくほかなかろう。化け物などに足をひっぱられてなるものか」


 いまの彼にとって富は心血にひとしく、たしかな生命といえた。

 その半分を持ちさられることなぞ到底がまんがならない。


 約束の日、兎は眾蛇を庭によびよせた。

 と同時に、金で集めた道士やの霊力あらたかな者達に、化け物を撃つよう命じる。


「あわれな兎よ……」


 道士らの剣をうけ、眾蛇は無念そうに云い四散した。




 さらに長い年月が経つ。


 手段をえらばず富をますことをおぼえた兎は、世に知らぬものはないほどの金満家となっていた。


 そして老年にさしかかったある朝、兎はひとり寝床にあって遠く落雷の音をきく。


「思えばあの古廟ですべては変わったのだ。世にはにくまれ呪われたが、しかし家族にそそいだ愛情だけは本物だったろう」


 孤独だった彼は結婚し、子を育て、孫を抱く人の営みを経て、そう感じるようになっていた。


 と、いつのまにか妻や子や孫たちが、兎を囲うように寝床近くに集まっていた。


 兎はそこにあの眾蛇もいることに気づき、思わず半身をおこしたが、他の者らはそれが見えてもいないようなそぶりでいる。


「生きていたか……どこかでそんな気はしていた。今になっておれの命をとるか? だがおまえのおかげで充分な人生をすごすことができたぞ」


「そうか」


「まさか家族に手をだす気か? それなら命にかえても、いや例えこの身が霊となっても再びきさまを八つ裂きにしてくれる」


「そんなことはしない。そもそもおまえに家族なぞいない」


「どういうことだ」


 すると傍らにいた妻が口をひらいた。


『あのとき約束をまもっていれば俺はおまえの前から姿を消したのだ』


 云うや妻の体が頭から崩れていく。

 その小さく散っていくものはおびただしい数の蛆だ。


「おまえの愛した女も、子も、孫も、最初からすべて俺自身だ……あわれな兎よ」


 ほかの者たちもみな崩れて眾蛇となる。


 兎は発狂し、そのまま息をひきとった。

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