第七章 終わりと始まり
例えばこの世界が、人間同士の運命と運命が複雑に結びついた綴織のようなものならば、私と白川が出会ったことは必然だろうと、私は心底思っていた。
そしてその必然から生まれた様々な事象は、私と白川の間柄をさらに強固なものにしてくれるとも、思っていた。
文化祭のあの日、夕日に染まる白川を見たあと、これからの白川との日々を想像し、胸が震え、熱を生じた。私らしくもないな、と心中で自嘲したぐらいだ。
家に帰る道すがらでも、その胸の熱は収まらなかった。家で風呂に入って、ご飯を食べて、そして寝ても、その熱は冷めなかったのだ。
翌日。学校に登校すると、校舎は文化祭の余韻を濃厚に残していた。
私たちの教室は休憩所として使われただけなので、普段と大した違いはなかった。机と椅子が、様々な場所に散らばっているぐらいだろうか。登校した生徒から、誰に指示されるでもなく、自身の机と椅子を見つけて元に戻していく。私も、そのようにした。
やがて、クラスの机と椅子は、ほとんどが普段通りに戻っていった。
ただ一組を除いて。
その一組の机と椅子は、教室の隅に置かれていた。主が来るのをぽつりと待つそれを、私はちらりと横目で見て、その後、白川を探す。
白川が来ていなかった。なので、おそらくあれは白川のものだろう。
そう思った私は、自発的に立ち上がり、それらをあるべき場所に戻す。やがて来るであろう白川は、私のやったことを知らないに決まっているので、昼休みにお代を請求してもいいかもしれない。そんなことを思って、ほくそ笑んだ。
少し、待つ。まだ白川は来なかった。さらに、待つ。教室の扉が開き、白川の代わりに教師がやってきた。
白川は遅刻だろうか、それとも休みだろうか。そんな不安が私の中に浮かぶ。後者なら、私が今日ここにいる意味はほとんどない。とっとと適当に理由をつけて、早退してやろう。
教師が、沈痛な表情をして教壇に立つ。瞬間、教室の喧騒が不自然なほど静まった。
そして私も――、名状しがたい寒気のようなものを、その表情から感じ取る。
やがて教師は口を開く。教師の吐いた言葉が意味するのは、
昨日、白川が死んだということだった。
その言葉をにわかには信じられない私は、呆然とする。そんな私を無視して、いや、そんな私に気づかずに、教師は白川の話を続ける。
昨日の帰り道に何があったとか、死因はなんだとか、通夜と葬式はいつどこでするかとか、そんな話だった。まるで事後処理のように、それらは淡々と話された。
そして、そんな話は、私にとってどうでもよかった。
私の中に生まれ、そして狂うように渦巻いている疑問のような混乱は一つ。
誰が、死んだ?
棺桶の中で静かに眠る白川は、元々の肌の白さと、最後の化粧と、そしてその血流が止まったことにより、透き通るように白かった。まるで、人形みたいだった。
艶々した茶色の髪は、もう二度と風になびくことなく、横たわっている。
真ん丸と大きかった瞳は、二度とこの世界を映すことなく、白磁のような瞼で覆われていた。
無邪気に言葉を発していた口、そしてあの綺麗な声を奏でていた喉。それらから発せられる音の震動や呼気は二度とない。
自分の掌よりもずっと大きなボールを、しっかりと掴んだ両手と、それを力強く投げた両腕。それらが動くことは二度とない。白川の綺麗な手を、まるで覆い隠すかのように花が捧げられていた。
屋上を軽やかに舞った足は、無数の花の下にあり見えない。きっと、あのときの活発さとは打って変わって、静まり返っているのだろう。
その頭蓋の中には、私と共に過ごした日々を共有している脳髄がある。その脳髄は、供給される酸素と栄養が止まったことにより、崩壊しつつあるのだろうか。それとも、すでに崩壊しているのだろうか。
今、私の目の前には、白川の死体がある。綺麗に整えられた終焉が、そこにはあった。
二度と動かなくなった白川を見ても、不思議と感情が出てこない。ドラマやアニメや漫画だったら、こんなシーンでは号泣しているのだが、私は案外薄情なのかもしれない。それとも、混乱しているのか。せめて、後者であってくれと祈る。
棺桶から少し離れて左側には、喪主であろう白川の父親らしき人と、母親らしき人がいた。彼らは、私と違って泣いていた。その様子を見て、白川から家族の話を聞いたことはなかったが、白川は愛されていたのだろうなと思う。
では、泣いていない私は、何なのだろうか。もう一度、この事象を経て、私の心に生じたものを考える。
やはり、何も出てこなかった。
私は焼香を終え、席に戻る。座りながら、お経を聞く。もう聞こえていないとは思うけど、送り出される音楽がこれで、白川はよかったのかな。
白川の通夜を終え、帰路につく。足取りがやけに重い。
通夜の会場となった葬儀場は、私の家から電車とモノレールを乗り継いで一時間ほどの場所にあった。これは推測であるが、きっと白川の家から近かったのだろう。そう考えると、私と白川の家は、けっこう離れた場所にあったみたいだ。
白川の家族構成といい、白川の家の場所といい、私は白川について知らなかったことや、知れなかったことが、まだまだ沢山あった。……今さら知ったところで、何もならないだろうが。
葬儀場はとある公園の近くにあり、私はその公園の中を歩く。人通りが極端に少なく、公園の中には、私以外の人間がいないようにすら思えた。
足を引きずるように、とぼとぼ歩く。私が歩くのは私の意志ではなく、家に帰らなければという義務感によるものだった。
家に帰ったところで、何がある? ご飯を食べて、風呂に入って、寝て。そして明日を迎える。
迎えた明日に、白川はいないのに。
そう思ったら、足の力が抜けた。足の先が地面に引っかかり、盛大に転ぶ。
肘と膝をしたたかに打ち、掌には砂利の感触。肘も痛いが、それよりもハイソックスに守られることなく剥き出しの膝が、じんじんと痛む。
膝を見ると、切れて血が滲んでいた。我ながら間抜けで、笑いが漏れるところだが、笑う気分にもならない。
というより、何一つ感情が出てこなかった。
このまま血を垂れ流して歩いてやろうか、と思った。そして、その通りにした。
公園を抜けて、人通りの少ない道を抜けて、駅前に辿り着く。その道すがら、何人かの通行人とすれ違ったが、皆一様に怪訝な目を私に向けていた。そりゃあそうだろう。膝から血を流して力なく歩く見知らぬ人間なんて、私だったら目をそむけたくなる。
それにしても、今の私はどのようなことになっているのだろうか。そんな疑問が、ふと私の目線を、真横にある店の窓ガラスに移させる。
そこには、喪服代わりの制服を着た私がいた。しかし、そんなことはどうでもいい。私が目をくぎ付けにされたのは、私が着ている制服だった。私が着ている制服と、白川が着ていた制服は、無論、同じデザインのものだ。
その制服が、私の脳裏に昨日の光景をフラッシュバックさせる。夕日、屋上、軽やかに舞うブレザーの裾とスカート。そして、無邪気に笑う白川。
来年も、あんな姿が見られると思っていた。何の確証もなく、ただ自然にそうなるものだと思っていた。
しかし、そうなることは二度とない。終焉が、その未来へと続く道筋を断ち切ってしまった。
「……ぐ、あぁ……」
何か大きな感情が、私を無慈悲に打ちのめす。人目を気にせず、その場でしゃがみ込み俯く。私の心中に満ちるのは、悔しさなのか、悲しさなのか、判然としない。
心の熱が、私の脳髄を焦がす。そして私は、ああ、とその熱で悟る。
私の心に満ちるもの。これは、理不尽に対する怒りなのだと。
理不尽とは、脈絡もなく訪れる、死という終焉のことであった。
私は、白川を奪ったそれを、心底憎む。私がもし、それに突き立てることのできる刃を持っていたならば、それが死んでも死んでもさらに死んでも、私は何度も渾身の力を込めて刃を振るうだろう。
「あ、ぐ、ぅぁ……」
再び、呻く。全てを焼き尽くす灼熱の炎の如き怒りが、私の双眸を底から溶かしてしまいそうだった。
その怒りを、私はどこに向けるべきだろうか。そう思い、すぐに答えが出る。
向けるべきは、ただ一つ。
それは終焉に対してだった。
意を決して、立ち上がる。熱は私の手足から安定というものを奪い去っていたらしく、手の先は震え、膝が笑っていた。
目を見開く。ぎょっとした顔の通行人が見えた。くっ、と歯を剥いて笑ってみせる。さらに通行人がぎょっとする。
今の私は、知らない人から見れば、頭のおかしい不気味な人間に見えるだろう。膝から血を流し、道の真ん中でしゃがみ込んでいると思えば突然立ち上がり、目を見開いたと思ったら、歯を剥いて笑っているのだから。
この私の態度は、挑戦状である。ここではないどこかで、私を見ており、そしていずれ私にも待ち構えている終焉に対して、不遜な態度を取ってみせた。
涙などというものは、一滴たりとも流してやるものか。それを見せてしまえば、終焉が喜ぶような気がした。
そして、白川の終焉を認めてしまうような気がした。
私は、断固としてそれを認めない。
私は、どれだけ時間がかかろうとも、どんな手段を使おうとも、白川との日々を再開してやろうと、強く心に誓った。
怒りの熱が、私に火を点け、歩みを進ませる。
私が向かう先は一つ。
終焉のむこうがわへ。
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