第六章 おまつり

「黒田さん、定期試験がそろそろやってくるわけですが」

「そうだね、やってくるね」

 放課後の教室。夕日が差し込み、白川の髪を鮮やかに染めている。珍しく白川が勉強道具を持って、私の机近くにやってきていた。というか、何で今さら敬称呼びなのだろうか。

「……定期試験が、やってくるわけですが」

 と繰り返す白川であった。その言動に、私は白川が求めているものを察する。ついでに、敬称を付けている理由も。

「勉強、教えろと」

「そういうことです黒田さん」

 そう言って白川は恭しく頭を下げた。普段の白川を知っているので、その所作はどこか面白く見える。

「……あんた、そんな頭悪かったっけ」

 思った疑問をそのまま白川に尋ねる。私と白川の二人とも、要注意人物として教師に目をつけられている感はあるが、成績が悪いというわけではなかったはずだ。

「良くはないよね」

「そっかー、良くはなかったかー」

 と返すと、白川が力強く私の手を掴んできた。伝わるその力から、白川の本気を察する。

「黒田さん、勉強教えてください」

「まあ、いいけど。でも私、別に成績優秀ってわけでもないよ?」

 そう私が返すと、白川は首を横に振って「なにおう」と言った。

「この前の全国模試、理数系が全国クラスだとお聞きしましたが」

「……どこで知ったのよそんな情報」

 白川が言っていることは事実である。私は理数系の教科が得意であった。そして、その一方で国語や英語にはめっぽう弱い。

「ふふふ、この白川アイを舐めないでいただきたい」

 白川は両手の人差し指で、自らの両目を指さす。このまま白川の両手を握って上に動かせば、指先が目に入ることは間違いないだろう。

「そしてさらに、国語系が弱いと見た」

「それは正解だけど。……あ、なるほど」

「そういうこと。私たちで苦手教科を教え合えばいいんじゃないかなーって」

 と言って白川は破顔する。屈託のないその笑みには、白川独特の眩しさがあった。

 そんなこんなで、勉強会を行うことになった。


「サインコサインタンジェントって、タイかどこかの偉人にいそうだよね」

 私たちは図書室にやってきて自習をしていた。そんなとき、白川がぽつりと言った一言に、私は首を傾げる。

「……いや、そこまで」

「あら、そうかー。残念でありますよ」

 と言って白川は問題集に向き合う。初めの方こそ、白川の数学は阿鼻叫喚で死屍累々といった惨憺たるものだったが、この一時間程度でみるみる成長を見せていた。

 というか、この成長速度は元々勉強していなかったのではないか、という疑惑すらある。

「……もう大丈夫そうね」

「ん、多分いけそう。さんきゅ」

 問題集から目を離さずに、そう返事をする白川であった。私は白川の持つシャーペンが滑らかに踊る様を何の気なしに見る。少しして、白川の手が止まり、私の顔を見つめてきた。

「どうしたの?」と白川に尋ねる。

「ああいや、文化祭、そろそろじゃん」

「……そうだっけ?」

「そうだよ! 定期試験終わって三週間後だったはず」

 そう強く説明してくる白川の言葉には、何か熱意のようなものがあった。

「それが、どうしたの? ……というか、私たち何するんだっけ」

「わーお、そこからですか。えっとね、私たちのクラスは休憩所するんだって」

「……それはなんていうか、まあ、私にとっては好ましいけど」

 別に文化祭でクラスが一致団結して仲良しこよし、という展開を求めていない私にとって、クラスの出し物が休憩所でも全く構わない。ただ、自分のクラスにやる気というものがないのはよくわかった。

「で、文化祭一緒に回らない?」

「あ、うん。それは別にいいけど」

 と白川の申し出を軽く承諾する。白川は喜色満面、といった様子になった。

「やったー! さんきゅ!」

「そこまで喜んでもらえるとはね」

 あまりにも白川が嬉しそうにしているので、ついこちらも笑みがこぼれてしまう。

「これで荷物持ちが増えたぜ」

「……よし、文化祭の日はとっとと帰るとするか」

「嘘! 嘘だから! 冗談だから!」

 白川は慌ててそう言って、両手を押し出すように構えて『待て』のジェスチャーをした。

「まあこっちも冗談だけどさ」

「それはなにより。一人で文化祭回るのは嫌だったし」

「あー、それは辛いね。行った先々でぼっち呼ばわりされてそうで嫌だ」

「そうなんだよ。いやー、曜子ちゃんがいて助かった。曜子ちゃんがいなかったらマジで文化祭ソロプレイになるところだったし」

 白川はそう言って拝むようなポーズを取り、「くわばらくわばら」と言う。その様子に、私はつい笑ってしまった。

 しかしまあ、と目の前にいる白川を見る。白川の容姿は正直に言って飛び抜けて優れており、密かに狙っている男も多そうなのだが。

「彼氏とかいないの?」

「ふぁふぃん⁉」

 私がそう尋ねると、白川が何語かわからない驚き方をする。

「何をおっしゃいますやら」

「いや、白川モテそうだなって思ったから」

「私がぁ⁉」

 と白川は驚いたあと、わっはっは、と大声を出して笑った。その声を聞いて、私は慌てて周囲を見回す。偶然、図書室には私たち以外誰もいないので助かった。もし読書に勤しむ人がいたりしたら、申し訳ないばかりである。

「白川、声大きい」

「ああいや、これは失礼。……私がモテるって、それはないでしょ」

 白川は私の発言を一笑に付した。そんな白川の対応を見つつ、果たしてそうだろうか、という気持ちが私に芽生える。

「誰かに告白されたこととかは?」

「ああ、中学のころにはあったけどね」

 白川が目線を私から、右斜め上に移して言う。それを聞いた私は、自身の耳がぴくんと動いたような気がした。

「お、マジか。……で、どうなりました」

「その子、他のクラスだったから全然知らなくて、とりあえず遊んでから考えよっかって話になってね。遊びに行ったら三時間ぐらいで私の奇行に相手がついていけなくなって終わった」

「……あー、うん。……うん」

 私が返す言葉に迷っていると、白川は笑って「反応に困るでしょ?」と返してきた。

「だから、仮に私のことを好きだ! って言ってくれる人がいても、多分私の見かけだけしか見てないとは思うの」

 という白川の発言に、白川は自身の外見を然るべき価値判断で評しているのだな、と察する。それはきっと、悪いことではない。白川の外見は、この世界を生きるにあたって間違いなく武器になるからだ。

 それはさておき、私は白川の発言にどう返すべきか困っている。

「それは……、どうだろう。わかんないよ」

「だって、私とこうやって話してくれるの、曜子ちゃんだけだしね」

 その『だって』に、私は何を読み取ればいいのだろうか。白川のその言葉には、自分が世間一般と違うことを、諦観交じりに認めているような節があるようにも思える。

 しかし、世間一般と違うことの、何が悪いのだろうか。そりゃあ、逸脱して他人に迷惑をかければそれはよくないだろう。しかし、白川は逸脱というよりは異質であった。きっと、この世界でただ生きている人々や、この世界をスムーズに泳ぎ渡ることができる人々とは、本質から違うのだ。

 それはどちらが良し悪しなどという問題ではない。だから、白川は引けを感じることはない。そう思った。

 しかしそう思ったところで、それを言葉に紡いで伝えるようなスキルを、私は持っていないのだが。

「……まあ、私だってこうやって話すのは白川だけだよ」

 不器用な言葉しか返せない。そんな自分を、少し歯がゆく思う。

「それはありがたや。私は曜子ちゃんがいなかったら、曜子ちゃんは私がいなかったら、ぼっちだったんだね」

 そう言って白川は笑う。そうか、私は白川がいなかったら孤独な学生生活を送るハメになったわけだ。そう思い、仮に白川がいない場合の日常を考える。……わりと静かだった。

 しかし、その静謐は充実から程遠いものに違いない。そんな確信があった。そう思うと意図せずに微笑みが浮かび、自然と言葉が口を突いて出る。

「……白川がいない学校は、考えられないかな」

 と言ったあとに、少し気障ったらしかったか、と思い恥ずかしさを覚える。そんな恥ずかしさを打ち破るかのように、目の前の白川は満面の笑みを浮かべていた。

「…………すっごい嬉しいこと言ってくれるじゃん曜子ちゃん!」

 そう言って白川は私に抱きつこうとしてくる。私はそれを避けようとし、仰け反ろうとした。

 直後、私の体を不穏な浮遊感が包む。私と白川が、同時に「あ」という言葉を漏らす。

 私が座る椅子は、その均衡を保ち切れずに、背後へと倒れようとしていた。慌てて足をばたばた動かすも、何の意味もない。これは間違いなく倒れるな、と思った。

 そのとき、白川が手を伸ばし、私の手を掴む。浮遊感は消えて、代わりに白川の手の感触が伝わってきた。

「いやー、間一髪ってところだね」

 そう言って、白川は安堵の表情を浮かべる。私は椅子の四つ足を全て地面に接させ、白川を見る。

「助かったよ、ありがとう」

「いえいえ、原因は私ですし。……抱きついていい?」

「それは拒否する」

 私がにべもなくそう断ると、白川の抗議が図書館に響いた。

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