第11話 ひとときの安らぎ
鉄火場となった紡績工場から帰還した主だったが、アパートの部屋の扉の前で微動だにせず何か考え事をしている。そして扉と壁の隙間に指を当てて何かを確かめた後に拳銃をホルダーから抜く。
「誰か部屋に入ったか」
そういえば毎回扉に糸くずを張り付けていたが今回はそれが落ちていた。それに気付いた主が万が一の為に警戒している。こうした知恵は師から教えられたものだと聞いている。賞金稼ぎというものは一般人からそれなりに尊ばれつつも犯罪者からは怨まれる仕事である。そしていつの間にか自宅に犯罪者や彼等の雇った暗殺者が入り込んでいる事も凄腕のハンターならばそれなりに有る為に自衛や警戒は必須であった。
主は空いた手で扉を開錠しつつ、ゆっくりと出来る限り静かに開けていく。幸い扉は鉄製であり拳銃程度ならばそのまま防いでくれるので、盾にしながら僅かに顔を覗かせて部屋を観察する。そして暗がりの中でベッドで蠢く何かを見つけ、それがなんであるのか察して警戒心を解いた。
ガス灯に火を入れ、部屋を照らすとその光に反応した侵入者が目を擦りながらベッドから起き上がった。見覚えのある栗色の頭である。
「んーーおかえりミューズちゃん。居なかったからベッド勝手に使わせてもらったよ」
「ただいまエレナさん。部屋に居るのは良いけど驚かせないでくれ」
ベッドで下着姿で寝ていたのは自称敏腕美人記者のエレナだった。
主がシャワーを使っている間、エレナは下着の上にシャツを纏って簡単な夜食と酒を用意していた。酒は元から部屋に常備していた物だが、夜食の方はエレナが持ち込んだサンドイッチである。主と一緒に食べようと思って用意したのだろう。
「ねえリム、ミューズちゃん最近ごはんきちんと食べてる?忙しいのは分かるけど、不養生してると仕事も上手く行かないわよ」
「仕事そのものは悪くないですな。現に今日も無傷で仕事を終えられています。あれで体調管理は疎かにしない方ですから、心配は無用でしょう」
現在時刻は午前三時。普通の人間ならばとうに寝静まっているが、主は今まで仕事をしていた。多少不規則かつ危険の伴う仕事をしているエレナから見ても、ここ数日の主の生活サイクルは心配の種になっている。だが睡眠も食事も必要量は摂取しているが、それでも何か思う所があるのは肌を重ねた間柄故に敏感に感じ取る部分があるからだろう。
「身体の方は良くても心の方が問題よ。ミューズちゃんは人を殺して平気な人間じゃないのは私もよく知ってる」
「ならばこそ貴方が主を癒して差し上げればよろしい。その為にわざわざそのような艶姿で待っていたのでしょう?なにせ我のような道具では肉体の損傷を修復出来ても精神治療は不向きですから、その役目は貴方のような女性が担うべきだ」
「あんまり褒められた手段じゃないから本当は良くないんだけどね」
この辺りの感情が我には理解不能である。我とて人間の基本的な生態と現在の倫理観は備えているが、若い男女が肌を重ねるのは何も恥ずべき事ではなく、男にとって性交による精神安定は効果的だと知識も備えている。ならば彼女が主と寝床を共にするのは歓迎すべき事。一体何を憂いているのやら。
彼女にそれを聞いてもよかったが、ちょうど主がシャワーから上がったために聞きそびれてしまった。主は食事を用意してくれたエレナに礼を言って、酒瓶を手に取り琥珀色のウイスキーをグラスに注ぐ。
一口で酒を呷り高アルコールによって喉が焼かれる刺激を楽しむが、それをエレナに見咎められた。
「もう、すきっ腹でそんな身体に悪い飲み方しちゃダメでしょ!ちゃんとこっちのサンドイッチも食べる事。お茶はいる?」
「いる」
まるで食事を丸のみする子供によく噛んで食べろと叱る母親のようなエレナに素直に従い、二杯目は舐めるように酒を口にしながらサンドイッチを齧る。中身はトマトとレタス、それとハムとチーズが挟まっている。マヨネーズは辛みのあるマスタードを混ぜてあり、主の好みに合わせてあった。
元々夜食だったので量はかなり少なく、主はすぐに食べ終わり、今はお茶で精神を潤している。紅茶には砂糖もレモンも入れず、純粋に茶の香りを楽しむのが主の好みだった。勿論エレナもそれを把握していた。
「エレナさんの料理いつもながら美味しかった」
「お粗末様。本当はもうちょっと凝った料理を作りたいんだけどね。けど私は仕事が忙しいし、ここで作ろうと思っても部屋には材料も調理器具全然無いんだもの。ミューズちゃんって味には色々煩いのに料理の腕は壊滅的よね」
「なんでだろうなー。先生達の所で修行してた時も二度とキッチンに立つなって念を押されたんだよ。見た目も匂いも良いのに、どうしてか皆吐き出すんだ。まあ、仕事してるうちはジズの所で食べてるし、今みたいにエレナさんが作ってくれるから良いけどさ」
向き不向きと言ってしまえばそれまでだろうが、その割に味にはそれなりに拘りを見せるのだから人とは分からないものである。そして見た目も香りも良いのに肝心の味だけは極めて不味いというのはどのような原理なのだろうか。一度その原理を解明してみたいものである。
お茶を楽しんだ二人は何も言わずガス灯を消してから共にベッドへ潜る。これ以上は我もプライバシーとやらを尊重し、見て見ぬ振りをしなければならぬ。
夜が明けて外が白やむ中、主とエレナはまどろみの中で寝物語を紡いでいる。
「今の仕事は早ければ今日、遅くても二日ぐらいで終わると思う。その後は少し長い休みを入れるよ」
「そっか、何事も無く終わるといいわね。……ねえミューズちゃん、私達っていつ頃からこうやって一緒に寝てたかな?」
「初め出会ったのは半年ぐらい前で、寝たのは三か月ぐらい前だったと思う。あの時はエレナさんが俺を押し倒したから驚いたなー」
笑いながら当時を思い出す主にエレナは少し申し訳なさそうに謝罪する。当時は我も居たのでその時の事は記憶している。確かに押し倒したのは彼女の方が先だったが、その後は散々に彼女の身体を貪ったのは主である。外見は少女と見間違うような矮躯のエレナが全身白濁液塗れになってぐったりしていたのは中々に背徳的な光景であった。
それに現在もベッドに横たわる赤い斑点の無数にある肢体も実に艶めかしい。
「あの時はミューズちゃんが辛そうだったからつい、ね。貴方って女から見るとどうしても放って置けなくなる子なのよ。だからお姉さんは少しだけ助けたくなったの」
「つまり庇護欲を誘う相手だったって事か。何だか男としては情けないな」
「そんな事無いわ、私にとってミューズちゃんは世界で一番頼りになる男の子よ。だって私の事を何度も助けてくれたでしょ」
「それはエレナさんが何度も自分から危険な事に首を突っ込んで酷い目に合うからじゃないか。助ける方の身になってくれ」
主の言葉にエレナは憤慨するが、我から見ても彼女の記者としての矜持は時々常軌を逸していると言わざるを得ない。必要とあらば単身犯罪者の巣窟であるスラム街に出向いて記事になりそうな情報を集めてくる事もあり、時には脱税をしていた企業にアルバイトとして潜入して証拠を自分で揃えてくるなど、相当にアグレッシブな行動までしていたらしい。さらにはアーティファクト使いの犯罪者の身辺を嗅ぎまわって捕まった事もあり、偶然我が主が助け出さねば凌辱されてから殺されていただろう。
いったいどのような理由があれば、それほどまでに記者という仕事に情熱を注げられるのか。主が賞金稼ぎを続ける理由と共に大きな興味を抱かせる人物である。あるいは自分に似た存在であるがゆえに我が主は彼女との縁を保ち続けているのかもしれない。
「それならミューズちゃんだっていつもいつも危険な仕事ばかりしてるじゃない!お姉さんを心配させる悪い子にはこれ以上ごはん作ってあげないんだから」
「心配させたのは謝るよ。だからお詫びに、ええっと―――そうだ!前に新しく出来た百貨店に買い物に行きたいって言ってたよね。そこの展望台のレストランの薔薇のケーキが食べたいって言ってたから、仕事が片付いたら二人で食べに行こう」
「……もう一つ約束して。今の仕事も怪我せずに元気に帰って来る事。そう約束してくれるならお姉さんはミューズちゃんを許してあげる」
憂いを帯びたエレナに主は何も言わず、ただ唇を重ね合わせ情事で乱れた艶のある髪を梳いていた。
主が口を放したのは数分のごく短い時間であったが、睦言に熱中する二人にはどれほどの時に感じられたか。
「女の扱いに上手くなったのはちょっと複雑。もしかして他に誰か部屋に連れ込んでないわよね?」
「無いよ。そもそもそんな事したらエレナさんが気付くじゃないか。で、俺を待っててくれる?」
「勿論よ、黙って男の帰りを待つのが良い女なんだから」
どうやら無事に仲直りは出来たらしい。そして笑い声と共にエレナの濡れた嬌声が聞こえはじめ、断続的にベッドが軋む音もそれに混ざる。
やれやれ、勝手に喧嘩したと思えば、すぐに仲直りして情事を始めるとは。本当に人間というものは不合理で感情に左右される不可思議な生物である。そのような非合理的な存在が我を生み出し、星の海へと漕ぎ出していったのだから、誠に世界とは広く深くそこかしこに未知に溢れていると言える。
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