第3話 大炊君の屋敷
細い日差しがまぶたにあたるのを感じて、朔は知らず、身をよじらせた。
——早く起きないと、美袮に叱られてしまう。日が昇る前にちゃんと起きないと、立派なお姫さまになれませんよって。
その文句が、頭から離れない。
寝坊する度にそう言われるのだから、無意識に覚えてしまうのも無理はなかった。
朔がやっとのことで少しずつ目を開けると、しかしそこは見慣れた部屋ではなかった。
綺羅を張った几帳は日差しを透かして
夜具にくるまったまま、朔は数秒間、自分がどこにいるのか分からず困惑した。
ぼんやりしていると、頭の片隅に昨日の出来事が徐々に浮かんでくる。
誰かと一緒に牛車に乗り、夜道を揺られていたことは覚えていた。
だが、緊張の糸が切れてしまったためか途中で眠ってしまい、その先は何も思いだすことができない。
——確か私は連れだされたんだ。そう、確か、アヤメという人に。
「お目覚めですか」
急に声がして、
朔は思わずその身を震わせた。
ふりむくと、薄紫の藤がさねの小袿に袴姿の女性が、
昨夜は鼻元まで顔を覆っていたため印象がまるで違うが、声の感じで同じ人だと分かる。
アヤメは、几帳の前でそっと片膝をついた。
音のしない、静かな
「よくお休みになられたようですね」
「ここはどこ」
見れば、榑縁の先には庭園が広がっている。
調度品も、朔に合うものが既に整えられ、兼ねてから迎え入れる準備がされていたことが暗にうかがえた。
不審気に問うと、アヤメは微笑んだ。
「ここは、
「大炊君、さま……?」
聞きなれない名に眉をひそめると、アヤメは微笑みを深くしたが、ここで詳しく話す気はないようだった。
「朝餉をすぐに持って参ります」
そう言って素早く退出する後ろ姿を、朔はただ声もなく見送った。
今更、側近くに美袮のいないことが不安に思えてくる。
そんなことではだめだ、と思おうとしても、自分の状況がまるで分からないのだから、仕方ないとも言えた。
朔には、幼い頃の記憶がまったくない。
気づけば、
朔は、乳母の美袮と数人の侍女と共に、あの屋敷でひっそりと暮らしていた。
周りにあるのは雑木林と竹林、ススキの生い茂る野原くらいだったが、静かで気持ちの良い住み慣れた場所だった。
ずっと、あの場所で暮らすのだと思っていた。
いったい、何が変わったというのだろう。
私は全然何も変わらないのに。
数え年で十五になっていても、朔は何も知らない少女のままなのだ。
唯一、
美袮に聞いて朔が知っていたのは、
自分の父と母は、もういないという事実だけだった。
——あなたの母上が高貴な人だったので、あなたはお
美袮にそう言われても、朔は別段うれしいと思わなかった。
朔はただ、見慣れた場所で平穏に暮らせれば、それで良かったのだ。それを奪ったのが「お姫さま」という自分の身分なら、強要されたくないくらいだった。
——十五になれば、「月読」が迎えに来ます。
美袮にいきなりそう告げられた時、
朔は、世界に対してあまりにも無防備な自分を感じた。
今まで、何も知らずに過ごしていた自分が、やけに不憫な存在のように思え、その次に胸に湧いたのは、諦念に似た虚しさだけだった。
——本当は、あの場所にとどまっていたかった。望んで出てきたわけではなかったのに。
朝餉の粥を携えたアヤメが現れると、朔は幾分、逡巡しながらも尋ねた。
「なぜ私をここに連れてきたの」
アヤメは朝餉の
「それが、かねてからの約束だからです」
「誰と誰の約束?」
「
——白珠の更衣さま。
朔は、
一瞬、意識が遠ざかるような錯覚を感じ、まわりの温度がスッと下がる気がした。
その名を直に聞いたのは久しぶりのことで、前がいつだったかも判然としなかった。
「お姫さまが望まれるなら、いつか大炊君さまにも会えるでしょう」
「でも、このお屋敷にいるのでしょう」
「大炊君さまは神出鬼没でいらっしゃるのですよ。我々でさえ、その居所をつかめないこともあるほど」
朔は少なからず、驚きを隠せなかった。
——十五になったら「月読」が迎えにくる。
その約束を交わした当人に会えない事態など、想像しなかったのだ。
「私はここで、何をすればいいの」
「まずはお身体を休められることです。環境が変わって、お疲れでしょうから」
そのまま下がろうとするアヤメを、朔は呼びとめた。
「アヤメは、母さまのことを知っているの」
アヤメはにこりと口の端を持ち上げたまま、その質問には答えなかった。
「朝餉を召し上がった頃、また伺います」
アヤメが退出すると、
目の前には整えられた御膳だけが残った。
——私、ここで何をしているんだろう。
『白珠の更衣さま』
それが母の通り名であることを、朔は知っていた。
——これが本当に、ここの主人と母さまの約束なら、いずれこの場には来なければいけなかったのだろう。
問題は、それが何故なのか分からないことだった。
——どうしてそんな約束があるのだろう。
繰り返し考えても、答えは出なかった。
どちらにしろ、選択肢は自分のなかに残されていないのだ。
そう思うと、不当な怒りが初めて首をもたげた。
——ここの主人に会う気がないのなら、長居する理由もない。
もとの場所に戻れるかは大分不明だが、アヤメに聞き入れてはもらえないだろう。
それならば、みずから抜け出すしかない。
お腹が空いては、気持ちもくじけてしまう。
朔は、うるし塗りの椀を取り、そのひと匙をそっと口に運んだ。
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