第2話 真雪


昇り始めたばかりの細い月が、雲の合間に薄く光っている。

夜を渡る風は日毎に清良さを増し、数えると寝苦しい日が少なくなった。


ひとり静かに渡殿を歩きながら、真雪さねゆきは鈴虫の鳴く声に知らず耳をすませた。



宿直とのいの役目も終え、ようやく自邸に引き下がりゆっくりできる。

そう思っていた矢先——真雪は呼びだされてここにいるのだった。



通い慣れたきざはしも、闇に沈むとどこか違って見える。


わずかな紙燭しそくの明かりを頼りに、坪庭の見える一室へ足を運ぶと、そこには真雪の古くからの悪友——照臣てるおみが、既にくつろいだ様子で座っていた。




真雪は深緑色の直衣のうしに冠をつけた出で立ちで憮然としているが、照臣は浅蘇芳の目に鮮やかな直衣を身につけている。


それでも悪目立ちせず、むしろ打ち解けた様子が優美にさえ見えるのだから不思議だった。



照臣は真雪が訪れたことを知ると、まったく悪びれない様子で言った。



「おつとめ、ご苦労だったな」


「話って何なんだ」



真雪は照臣のむかいに腰掛けると、照臣が答えるより先に言葉を継いだ。



「恋の鞘当てはなしだぞ。お前が女君を袖にするたび、逆恨みされるのはもうこりごりだ」



苦々しい口調でつぶやくと、照臣はすでに満たされたさかずきを傾けながら、ひっそりと笑みをもらした。


事実、

真雪からすれば節操なく思えるほど、照臣はあまたの女君に手を出すのだった。

面倒なことになると分かっていてそうするのだから、まったく手に負えない。

しいては同志とみなされている真雪にまで、その火の粉が降りかかることになる。



真雪はまだ妻帯していない。

だが、通うならひとりのひとに定めようと、照臣を見てつくづく思うのだった。



「興味深い話を聞いたんだ」



その言葉を聞いて、真雪は早速いやな予感がした。

照臣が興味をもつことといえばふたつ。

女性のことか、女性に関わる物事のことだけだった。



「十年前、神隠しにあった姫がいることをお前は知っているか」



真雪はとっさに思い浮かばなかった。

十年前と言えば、まだ七つかそこらだったはずだ。


野山を駆け回ったり、小弓や木太刀に夢中だった頃。

同世代の少女とも遊んだが、消えた姫君のことなど記憶にない。

それにしても神隠しとは、ずいぶん大仰な気がする。


真雪が首を振ると、照臣は再び言った。



「なんでもその姫君は、朱雀帝が懇意にしていた更衣の娘御だそうだ。しかし、ある日突然更衣は病に倒れ、亡くなるのと同時に姫君は姿を消した。

更衣を死に追いやった生き霊に、喰われたという憶測もあるらしい。朱雀帝は更衣の忘れ形見を失った哀しみで、気も狂わんばかりだったとか」



朱雀帝——

その言葉に、真雪は面食らった。

既に禅譲し、若年じゃくねんにして身罷みまかった帝の名を照臣は語ったのだ。



「よくそんな話を知っているな」



真雪が感心してみせると、照臣は嘆息した。



「お前も御所の情報に聡くならないと、この先出世しないぞ」



照臣はこの春、近衛少将へとひとつ位を上げた。

真雪も右近衛府に勤めてはいるが、やっと右兵衛佐うひょうえのすけになったばかりだ。


照臣の方がふたつほど年上のため、年功序列といえば聞こえはいいが、年齢が若くとも能力が見合えば早々に位が上がるのを真雪も知っていた。



照臣の女遊びも御所で必要な社交のひとつという風に考えれば、何かにつけて真雪の方が遅れているのかもしれない。


しかし真雪は、あえて自らの所業を改めるつもりはなかった。

御所での嗜みとされる和歌の贈りあいや、舞や雅楽などにも興味はない。

それでは照臣の言う通り、出世は見込めないかもしれないが、それならそれでもいいと真雪は思っていた。


もともと興味の持てないものに打ち込むことが、まず無理なのだ。

真雪の興味のあるものといえば、武芸と、武芸にまつわることだった。


毎年睦月むつびづきに行われる賭弓のりゆみでは、矢を一本も外したことがない。

普段は照臣の陰に隠れがちな真雪が、脚光を浴びる唯一の機会だった。


実際、華やかな御所のなかにいながら、普段の公務の間に武術を磨く時間さえあればいいと思ってしまうところが真雪にはあった。



「それで、その姫君がどうしたんだ」



この話の半分以上に関心が持てなくなりそうになりながら真雪が聞くと、照臣は、わずかに身を乗り出してささやいた。


「その姫君の居場所を、どうやら突きとめた者がいるらしい」



どこでそういう話を拾ってくるのか。

大方、噂話の好きなあまたの女君から仕入れるのだろう。

照臣が御所の情報に明るいのは、多くの女性との付き合いがあるからだと、真雪も知っていた。

それが役立つ日も、時にはあるわけだ。

真雪にとって利となったためしは今までないにせよ。


真雪が答えないのを気にする素振りもなく、照臣は続けて言った。



月読つくよみ、という者を知っているか。どうやらこの広い御所のなかには、相当な隠密がいる」


話が思わぬ方向に転がり、

真雪はまじまじと照臣の方を見た。


「隠密だと? まさか」



真雪が話に乗ったのを見て、照臣は口の端を皮肉に歪ませた。


「それは今に始まったことじゃない。闇にうごめく者は、怪異と呼ばれる鬼や悪霊以外にもいるということだ。姫はその者にさらわれ、また行方知れずになったという」



初めて聞く話に、真雪は少なからず衝撃をうけ、ただ押し黙った。

そんな者が存在するというのも驚きだが、その存在に今までまったく気づかずにいたことにも。



「それで、その話を俺に聞かせてどうしようというんだ」



真雪がつぶやくと、

照臣は、切れ長の瞳をさらに細めてみせた。



「救い出してみたいと思わないか?」


「ばかばかしい。第一、どこにいるのか分からないんだろう」


「だいたいの目星なら、もうつけてある」


照臣はひそやかに言った。


「お前は武に秀でているだろう。怪しい隠密から姫君を救い出せば、この先の未来がうんと明るくなるぞ。主上もきっとお喜びになる」



——こいつの目的はそれか。


色好みの照臣らしいとも言える。


真雪は、ひとつため息をついて言った。


「断る」


照臣はひるまなかった。


「月読は相当な手練れがそろっているらしい。自分の腕を試してみたいと思わないか」


「何もこの機に試そうと思わない」


「ならば、いつ試す。一年に一度の賭弓や騎射の節の他に」



真雪は何も言わず、

目の前に置かれた卓上の杯を干した。


思ったより強い酒だったらしく、喉の奥が一気に熱くなる。


こんな酒を用意できるのは、照臣の父が近衛大将を任されているからだろう。

そう言う真雪の父は、昨年昇進して大納言になった。


お互い、中流と言えども内裏の中核を成す家柄だ。

その嫡子として、真雪もゆくゆくは家督かとくを継ぐだろう。


それは照臣にとっても同じことだ。

時勢が移ろいやすい宮中では、出世が遅れるほど、その身の上は不利になってゆく。



真雪は席を立とうとして、思いとどまった。



「その姫君は、今おいくつなんだ」


「数えに間違いがなければ、御年十五になる」


「亡くなった更衣の子か」


照臣は一転、顔を明るくして言った。


「探し出してくれるか」


「まだこの話に乗るとは言っていない」



危うく照臣に押し切られそうになり、真雪は否定した。

照臣のペースに巻き込まれたら最後、否が応でもこの話を受けることになる。


そうなる面倒と労力は計り知れない。



やはり断るべきだと席を立ったところで、

照臣はさらりと告げた。



「主上には、もうその様にお伝えした。右兵衛佐真雪が、かの姫君を連れ戻してみせると」



主上とは当代の帝——今上帝のことだ。

真雪は怒りをこして呆れ顔になった。



「何を勝手なことを」


「主上はお前に期待しているぞ。お前の腕を、高く買っている」


そう言われて悪い気はしない——が、結局照臣の思惑通りに事が進むと思うと、面白くはなかった。


真雪が仏頂面をすると、

照臣は不敵な笑みをくずさぬまま言った。



「そんな顔をするな。お前にとっても悪い話じゃない」


「——どうだか」



真雪は最後、照臣を一瞥すると、

夜明けが近いのか、すでにほの白い渡り廊下へ向かった。





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