火の中の竜

汀こるもの

第1話

 こんなにまずい酒は初めてだ。

いさり火〟はお気に入りの居酒屋で名前通り海産物がうまい。アサリのバター焼き、ホタルイカの沖漬け、ホッケの干物、どれを取ってもこの辺りでは一番の味だが。今日はどれもこれも粘土のようだ。

「大友先輩、よくない飲み方ですよそれ」

「これが飲まずにやっていられるかよ」

 大友は座卓にビールジョッキを叩きつけた。

怒りが無限に湧いてくるようだ。

「社長の個人アカウントなんか作るべきじゃなかったんだよ! 今どき企業公式Twitterがちょっと面白いこと言ってドカンとウケるなんてないんだよ! 企業公式は粛々と告知だけしてればいいんだ!」

「でもそれじゃあんまり味気ないって」

 松崎はまだ入社して二年だ。この世に〝やりがいのある仕事〟があるとでも思っているのだろう。実に無邪気で羨ましい。

「味気なんかなくていいんだよ! ウケを取りたいなんて欲を掻くから炎上するんだ! 社長はそんなに面白い人間じゃないのに。真面目な企業イメージを守るのも会社の仕事だろう!? 広報は遊びじゃないんだ、社員の生活がかかってるんだぞ!」

「先輩、声大きいすよ。誰か聞いてたらどうするんすか、ここ個室じゃないのに」

「誰か聞いてたらどうだって言うんだ、マザーテイストが炎上してるのなんか子供でも知ってる! 子供に石でも投げられて少しは反省すればいいんだクソ社長!」

 途端、笑い声と拍手。――「しまった」と思ったのはまだ覚悟が完了していない証左なのだろうか。いや。子供に石を投げられればいいというのは本気で思った。ここで怯んではいけない。

〝漁り火〟のお座敷席は個室ではなく、四人用の座卓が二つ。間を波濤が描かれた衝立で仕切っている。

 大友が振り返って衝立の向こうを覗くと。笑いながら手を叩いているのは、若い男だった。

 眼鏡をかけた顔は女のようだった。長い髪も女のようだが声は男で胸も薄い。……灰色のシャツにショッキングピンクのネクタイという目がチカチカするような格好をしていたが。白いマフラーを肩にかけているのも社会人っぽくない。ホストか。ホストなのか。みんな薄い座布団に座っているのに一人だけ偉そうに座椅子を使っている。大友と目を合わせても怯みもせず、手を広げてにこにこ笑顔を向ける。

「いや失礼、実にいいことをおっしゃると思って。もしかして〝マザーズテイスト〟の社員の方ですか? 今企業系で炎上しているというとあそこと〝ジュニアプロ事務所〟ですが社長の個人アカウントということは〝マザーズテイスト〟かなと」

 バレている。舌打ちしそうになった。

「あ。わたし、こういう者です。先生、名刺」

 と自分で名刺を出そうとせずに片手を差し出した。向かいに座った連れにうながしたらしい、ここで連れの青年が初めてこちらを振り返った。

 連れの青年の方は可もなく不可もないいかにも大学出立ての社会人一年生か二年生かという風情で、なぜホストとつるんでいるのかさっぱりわからない。

「え、ぼくが渡すのか」

「だって遠いですよ」

「そりゃそうだけど」

 衝立と座卓を挟んでいるので確かにそのまま座って名刺を渡すには遠い。が二、三歩だ。どうせ名刺を渡すのには立ち上がらなければならないのに、何て無精なやつなんだ。

 先生と呼ばれた青年はあだ名のわりに低姿勢に中腰になって、両手で真っ赤な名刺を差し出した。

「これが彼の名刺です」

 なかなか聞かない文句だ。

 オレンジで赤い縁取りの火炎の模様と、黒いトカゲが描かれた名刺はどう見ても普通の会社員のものではない。


〝インターネットよろず相談所 さらまんどら

 所長 オメガ

 OMEGA_2nd@fire-salamander.com

 Twitter / Facebook / Instagram / LINE:OMEGA_2nd_smd〟


 黄色の文字で書かれている。……こういうのは名刺ではなく、オタクがオフ会で交わすメッセージカードではないのか。

「……インターネットよろず相談所?」

「はい! 機械の使い方がわからなければパソコン教室へ! パソコンが壊れたならメーカーかウイルス対策ソフト会社へ! スパムや架空請求、ソシャゲの青天井ガチャは消費者センターへ! ネットストーカーは警察と弁護士! ――そのどれにも振り分けられないお悩みがわたしたちの財産です!」

 いちいち声がでかい。それに早口だ。どうしてこんなのが後ろにいて気づかなかったのだろう。

「マザーズテイスト様、炎上でお悩みならこちらのテーブルでお話を!」

 言葉尻は低姿勢で揉み手をしているが、お前がこっちに来いよと思った。が、松崎の方がジョッキを持って隣の座卓に座ってしまった。首を伸ばして興味津々のていだ。

「炎上コンサルタント!? そんな仕事があるんですか」

「あるんですねえ!」

「聞いたことないけど!」

「ネットで宣伝してませんからねえ! 〝ああ、あれ〟って知られると困るようなことがたくさんあるんで!」

 一体何をしているんだ、こいつ。

「この名刺、本名書いてないぞ」

 大友は名刺を裏返したが、オレンジ色の紙の地が見えるだけで本名も住所もない。〝オメガ〟とやらは鼻で笑った。

「ネットで本名とか大した意味ないですよ。本名は田中一郎ですが、それで何か安心します?」

 確かに何も安心しないが、だからって書かないなんてどういうつもりだ。……田中一郎ってメチャメチャ偽名くさい名前だな。

「ぼくはマザーズテイストのネット広報の松崎で、こっちは先輩の大友さんです」

 と松崎がべらべら喋ってしまう。こいつ、後で説教だ。〝先生〟がオメガの隣に座り直して席を空けたので、大友も渋々そちらの座卓に移った。

「ていうかマザーズテイストってあのマザーズテイスト? 炎上してたのか?」

 先生が首を傾げながら、「マザー、マザー、マザーズテイスト」と小さくCMソングを口ずさんだ。

 マザーズテイストは製菓メーカーだ。戦後、薄焼きクッキーを売るところから初めて今は菓子、ジュース、調味料、レトルト、冷凍食品、幅広く扱っている。今の社長は三代目。

「まあこんな感じですよ」

 オメガが座卓に置いた黒いタブレットPCのスリープを解除し、指先で操作する。……Twitterのスクリーンショットだ。まとめサイトのものではなく、自前で何かのアプリにまとめている。少しげんなりした。今、ここで大友たちと出会ったのは偶然だろう?

 画面を見ていた先生の表情がみるみる険しくなっていく。解説したくもない。

 発端は、社長のツイートだった。


『わたしも若い頃は同級生の服を脱がせて冬の川に突き落としたりしたものだ』


 ……一体なぜ、社長が突然そんなことを言い出したのかよくわからない。今の若者はいじめだ何だ軟弱なことを、とか続いていたような気もする。自分も一緒に泳いだのでいいだろうと思ったのだろうか。

 インターネットは社長を許さなかった。途端にリプライ欄には罵声が溢れた。いや『それは下手をしたら殺人ですが、反省していないんですか?』という良識ある意見を罵声と言ってしまっていいものか。

 ネット広報としては、すぐさま社長のツイートを消して謝罪文を載せる準備をした。しかし社長が拒んだのだ。自分が何とかしてみせると。

 そして、ツイート第二陣が放たれた。


『わたしは学生時代はクラスのリーダーで、今で言う不登校の生徒を家まで迎えに行ったりした。そのため翌年は我がクラスは皆勤賞を取ることができた。同級生たちはみんなわたしに感謝していたものだ』


 ――いよいよ、本物の地獄が広がった。

 もうリプライ欄だけでは済まない。マザーズテイストの株価自体が下がり始めた。


「……犯罪自慢からの、不登校児を迎えに行って皆勤賞のコンボ……」

 先生は表情が歪んだまま戻らない。ドン引きなのだろう。酒に手を伸ばしすらせず、明太子入りの卵焼きが冷めていく。

「あの、不登校児は学校関係者に迎えに来られるのが一番嫌なんですよ……?」

「知ってます」

「しかも皆勤賞って、これ病欠の子を無理矢理出席させませんでした?」

「それがまずいのも知ってます」

 大友はさっきビールを飲み干してしまったばかりだ。オメガは日本酒のコップを傾けた。

「ネット民が一番嫌いなタイプの前向きさですね。トイレを素手で掃除するとか折り鶴を贈るとか巨大組体操とか川に鯉を放流するとかアピールすればするほどマイナスです。今どき、アットホームな職場は嫌われます」

 すらすらと述べるのが小賢しい。

「おれたちもわかってはいるんですが……」

「電子煙草、いいですか。リキッドタイプでニコチンは入っていません」

 オメガは胸ポケットから大きなライターのようなものを取り出した。銀の吸い口がついていて、薬の吸入器のようにも見える。

「は、はあ、どうぞ」

 松崎がうなずくと、オメガは吸い口に口をつけ、思ったより派手な蒸気を吐き出した。初めて見た。本物の煙草とは全然匂いが違う。何か果物のようだ。そもそも煙ではなく蒸気だ。

「何かこう、不細工なアニメキャラの着ぐるみを着るとかネット的に好感度の上がるイベントはないんですか」

 蒸気を漂わせ、オメガは真顔でつぶやいた。それで好感度が上がるのなら安いものだと思う。

「好感度を上げるのが無理ならもっと好感度の低い人たちを出現させて、そっちに意識を逸らすのはどうでしょう」

 ともう一台タブレットを取り出す。銀色で、黒いものより大きい。少し操作して、オメガはそれを大友と松崎に向ける。

 タブレットに表示されているのはTwitterのプロフィール。


〝怒近眼〟

〝ふわゆら〟

〝夏色銀貨〟


 血走った目玉のアイコンは、ここ最近よく見るもの。ふわふわしたクラゲに、水色のコイン。

 オメガは〝怒近眼〟を指さした。

「これはこの騒動で特にマザーズテイストを叩いている人たちですが――この〝怒近眼〟というネット論客の人は準強姦で告発されましたが証拠不十分で不起訴ですね。時効と同じく断罪されておらず罪を償ってもいないので無限に叩けます」

 大友は、心臓が凍ったように感じた。かまわずオメガはタブレットをなぞり、女のような顔でうそぶく。

「こっちの〝ふわゆら〟は名誉毀損で訴えられかけて示談で済ませたことがあります。名誉毀損の内容がなかなかファンキーなのでこれもいくらでも燃やせますよ」

「……燃やすって、個人攻撃じゃないですか」

 やっと声が出た。

「怨恨を丸出しにしたらそれこそ」

「怨恨ではないです。炎上は人災、かかわっている人数が直接影響するので他に叩く題材があればそっちに分散してこっちの炎上は少し沈静します」

 オメガは電子煙草を吹かしながら早口でまくし立てる。

「単純に世間に炎上案件の数が増えれば全部チェックするのが大変になり、センセーショナルな題材の方に興味が行って、最初に何を叩いていたのか忘れます。一番頭のいい人ではなく、一番頭の悪い人に合わせて状況をコントロールしましょう。炎上は集団が起こすもの、リソースの問題なのです。一対一の対決なら頭のいい人の影響力が少しはあって多数決の緊迫感がありますが、投票先が五個も六個もあると泡沫候補に足を引っ張られます。なのでこちらで炎上候補を増やして一つ一つの炎を小さくしましょう。これは感情的な復讐などではなく人間を群れとして見た場合の戦術ですので、全然かかわりのないもっと他の人を選んでもかまいません。わたしたちの手持ちにはたくさん炎上の火種があります。――でもどうせなら渦中の人であった方が盛り上がる。マザーズテイストを燃やしてるリーダーの方がいい」

 もう松崎は真っ青になって一言もない。大友が震える声で反論する。

「こっちは会社の公式アカウントなのに個人攻撃なんて、そんなことできるわけが」

「勿論、御社ではないわたしたちがそれらしいアカウントでするんですよ。あなたたちに頼まれてやっているなんて絶対におくびにも出しません」

 彼は女のような顔で、にやりと笑った。

「これが情報戦です。どうせこの人たちだって社会をよくする崇高な信念があってやっているのではありません。叩けるところを叩いて目立ちたい、騒ぎたいだけなのですからこちらも見苦しく何でもやっていきましょう。人の足を引っ張ってその分、上にのし上がるのです」

 タブレットの上に置かれていた手が、大友の手を取ろうとこちらに伸びる――


「ふざけるな」

 大友は立ち上がった。ビールジョッキがなくてよかった。あったらオメガの頭から引っかけていただろう。

「あんたらに頭を下げるくらいなら社長に頼み込んでアカウントを消してもらう方がマシだ。人間を何だと思ってる」

「おやおや、立派な方なのですね」

 オメガはにやにや笑い、電子煙草の蒸気を吐く。

「人間の善性を信じているんですか? これからまだどんどんひどいことが起きますよ。炎上に底はありません。どこまでも地獄です。あなたがやらなくても、きっと誰かが同じことをする」

 きっと正しいのだろう。

 だが。

「関係あるか。人間を信じてるんじゃない、あんたが信じられないんだ。あんたのおかげでおれたちが地獄じゃなくなったって何も嬉しかない」

「何も知らず今もお菓子を作り続けているたくさんの社員は?」

「それをどうにかするのも仕事だ!」

 大友は座卓に一万円を叩きつけ、カバンとコートを取って座敷を降りた。

「行くぞ。こんなとこで飲んでる場合じゃない」

「い、いいんですか大友さん」

 松崎はまだ中腰だ。それを上から叱りつけてやる。

「お前はこんなやつに助けてもらいたいのか!」

 ――二人、〝漁り火〟を出た。夜の風が冷たいのが今は心地いい。酔いを醒ましてくれる。

「社長に直談判しよう。おれの首をかけてでもあのアカウントを消してもらおう。何ならアニメのコラボもしよう。人気があれば何でもいい」

 そうして大友は、夜の街に一歩を踏み出した。

「人間を傷つける以外なら何だってできる」


* * *


 二人が出ていくと、ぼくは向かいの席に戻った。すっかり冷めた卵焼きに手を伸ばす、が。

「……顔、にやけてるよ」

「いやあ、ちゃんとした人が怒るなんて何年ぶりだろう。わたしにキレる人、大体八つ当たりですよ!」

 オメガが妙に嬉しそうに、にこにこして日本酒をあおっている。大友たちが捨て台詞を吐いて出ていった後とも思えない。

「人を怒らせて喜ぶやつがあるか」

「だって。お座敷席ってこんなことが起きるんですね、面白いな。面倒くさいと思ってたけど次もお座敷にしようかな」

 タラ白子ポン酢に舌鼓を打ちながら、日本酒を楽しむ。

 ――どうにも解せない。

「……オメガ、本当にあんなことをするつもりだったのか? 個人攻撃なんて」

「さてね。何でもするべきだとは思いますよ」

 彼は酒のコップを手に、喰えない笑みを浮かべた。

「あの人たちは会社員で一人で生きてるんじゃないんだから。――それとは別に、人間は自分に何ができるかあまりにも知らなさすぎる。そう思います。わたしにあんなにキレておきながらあの人はもしかしたら自分でこのカードを切るかもしれない。先生ならどうします?」

 酒のコップを枡に置く。

「ありえない罵声を浴びせられたとき、他人に罵声を浴びせ返すか、それとも」

 濡れたコップの縁をなぞると、ガラスが不思議な音を立てた。それを聞いているとぼくは落ち着かなくなった。

「……大企業の炎上なんだ。妙な奇策を仕掛けなくたって長い時間をかけて真摯な答えを返し続ければいつか鎮火するさ」

「そう。長い時間をかけて真摯な答えを――あの人にそれができると思いますか? 口で言うほど簡単なことではないですよ、寝ても醒めても考えるのは他人のことばかりです」

「ぼくに人間の気持ちはわからないよ」

「今日はやけに簡単に諦めますね」

「だって、怖いよ」

 オメガのタブレットに目を落とす。

 最初こそ犯罪自慢、クソブラック企業死ねなどというかわいい中身だったが。

 今はもうマザーズテイスト社長の写真をマンガのコマに貼りつけたコラージュ画像が出回っている。

 これからもっとひどくなるのだろう。

 マザーズテイストは何をしてもいいみんなのオモチャになったのだ。

 あの大友は、耐えられるだろうか。

 オメガはコップを空けると、底をじろじろと眺めた。

「うーん、これおいしいな。同じのお代わりしようかな」

「そんなに飲んで大丈夫か?」

「二杯くらいなら多分」

「トイレが近くなっても知らないぞ」

 今日のぼくは、薄情者だ。

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