ゼブラ

摩擦 ムラリ

第1話 耳鳴りが止まない

「おーい、息子が苦しんでいるんだ。早く来てくれよ!!」


赤いTシャツを着た全身毛むくじゃらの男性が頭から血を流している息子の頭を手で必死に押さえながら叫んでいた。


しかしそれは一組の親子に留まるものでもない。


数メートル離れた先で辛うじて建物の陰になっている所で、ぐったりしている娘を自分の膝に横たわらさせた母親が必死に揺さぶって泣き叫んでいた。


そして僕のすぐ横では白髪で眼鏡を掛けた老人が頭から血を流していたが、手でもう既に押さえきれなくなった血を見て死を悟ったのか指につけてある結婚指輪に視線を落とし微笑みを浮かべてそのまま目を瞑ってしまった。


「邪魔だ、退け!!」


声のした方向を振り返ると黒いパーカーを深く頭までかぶった子どもが金髪の白人の男性に押されたものの、ずっと爆発があった方向を見てぼやっと突っ立っていた。


危ないとは思ったが今はそんなのに構っている暇はなかった。


何としてもこの人の流れから脱出して爆発があったビルの方に一目散に向かわなければ………。







そう思った矢先、視界が急に明るくなり目を懸命に瞑ろうとしたが、その時点で意識はもうこっちの世界にあるので仕方なく目を覚ましたが耳鳴りが止まない。


「またか……。」


ため息をつきベッドに体を半分起こした状態で両手で耳を塞いで当分耳鳴りがやむのを待った。


耳鳴りが止むまでの間、朝日は目を瞑り脳裏にはさっきの夢のエピローグが鮮明に浮かんできていた。


夢ではあったが自分の無力さを痛感して右手でベッドを力強く叩いた。


しばらくして室内を見渡し、そうして半開きのカーテンを全開に開け視界に納まりきれない公共ビルの数々とその間を窮屈そうに潜り抜ける線路の上を走る電車を見て


「日本に戻って来たのか。」


と朝日は一言呟いた。


これは単なる呟きに見えるかもしれないが、その時の朝日には呟かずにはいられないものがあった。


それはかつての中心であった大阪からやってきた雲が東京の通勤ラッシュの過酷さを見てしばらく現実を受け止めきれないのとよく似ていた。


朝日は今度は都心に間隔がなく並びだつビルに目を向け胸が詰まりそうになった。


そうして窓から体を遠ざけ、窓際にあった一人前に直立していたグレーのスーツケースに足がつまずきそうになった。


スーツケースが何も手を付けられていないのに違和感を感じそこで初めて昨日の自分の行動に疑問を覚え、そうして自分の記憶が途切れていることに気づいた。


「なんで僕は空港に着いてからの記憶がないんだ?」


独り言を言いながら顎をさすり室内を歩き回っていると、自分の体にまとわりついているダボついたスーツの存在が気になった。


そうして朝日はダボついたスーツをしばらく見つめてスーツの一部を手で引っ張ってみたが再びしわになったのを見てため息をついた。


洗面所や他の部屋を見て回ったが勿論アイロンは置いていない。


仕方なくスーツケースからそれと同じくらい上等なスーツを取り出し、自分の脱いだスーツのアルコールの臭いが鼻に突き刺さった。


「そうだ。昨日誰かと飲んだんだ。」


朝日の目は一瞬大きく見開き、親指と人差し指で自分の顎を再びさすった。


しかしその大きく見開いた目は一瞬にして元の大きさに戻り今度は眉間にしわが寄った。


「でも誰と飲んだんだ…。」


思い出そうとすると2日酔いのせいかひどく頭痛が起こりそのささやかな記憶までも封じ込めてしまう。


思い出すのは諦め、さっき着ていたスーツの上着のポケットからスマホを取り出した。


スマホは朝の10時半を表示していたが、画面を何事もなくスライドしてロックを解除し、着信履歴を調べた。


着信履歴は2件あっていずれも同じ人物だった。


確かにこの人なら僕をこの高級ホテルらしい場所に連れて行くのは合点がいく。


僕はすぐさまその人に電話を掛ける。


やはりこの時間ということもありなかなか繋がらなかったが、3回目の着信音のループに入りかけた時にようやく繋がった。


「おお、朝日君。元気かい?いやー昨日会ったのか。」


そう言って電話口で大きく口を開けて大笑いしている姿が想像できた。


「仁志さん、どうしてこんな高級ホテルに連れてきたんですか?」


「だって朝日君好きだろ。高級なもの。」


仁志さんのこの発言はからかっているのかそれとも真面目に言っているのかこの軽快な口調からはどちらとも判断がつきにくかった。


「でも僕の立場も考えてくださいよ。」


「立場って?」


どうやら僕は飲みの席で自分の境遇を全く伝えてないらしかった。


僕が仁志さんに告げようとした瞬間


「ああ、もしかして朝日君が仕事をクビになったことかい?」


と言って仁志さんはこの重い言葉までも軽快な口調で軽く流した。


僕はカチンときて電話を持っていない方の手で握りこぶしを作り、怒りを抑えて何とか落ち着かせようとした。


仁志さんは元々無神経な発言が多い人だが、ここまでの無神経さには呆れるとともにそうしてこの人の欠点は一生直ることはないんだと朝日は自分自身を説得させた。


でもなんでこの人と帰国した直後に飲んだんだろう…。


周りを明るくさせるムードメーカーという意味では今の境遇を一瞬でも忘れさせることができるいい麻酔かもしれないが、現実を直視する自分が真っ先に相談する人物ではないのは確かだ。






電話ではしばらく無言の状態が続いた。


「おーい、朝日君聞いてる?」


「ああ、ごめんなさい。…はい。聞いてますよ。あの…僕どうして昨日仁志さんと飲んだんでしたっけ?」


「あれ?昨日の話覚えてないかな?」


「昨日の話………。」


朝日は仁志の言葉を反復し、酔いで麻痺した脳を再び回転させようとしたが痛みがやはり襲い無理だった。


朝日がしばらく応答に困っていると


「ほら、朝日君を警視庁に戻すって話だよ。」


と仁志さんは言った。


あまりの驚きで朝日はしばらく言葉が出なかったが、やっと仁志の言葉を咀嚼出来た時


「マジっすか?」


と仁志が上司なのを忘れて思わずタメ口になってしまった。


「ああ、マジだ。」


仁志はそれに気にすることなく波長を合わせた。


「だから早く荷物をまとめて…。」


「す、すぐ向かいます。」


朝日は急いで電話を切り、さっき取り出したスーツを部屋着のように着て、そうしてさっきまで着ていたスーツをスーツケースに無理やり押し込む形でスーツケースを閉めて出て行った。


エレベーターの時に朝日は前にいる数人の女性から上にある鏡越しに度々睨みつけられてはいたが全く気にかけることなく逆に笑顔で返した。


そうして一流ホテルのカウンターの人でさえチェックアウトが終わった後に朝日に礼をして頭を上げた後、やっと背を向けた朝日に対してさっきの上品な笑顔とは打って変わりまるでボロ雑巾を嗅いだ時のように眉間のしわがくっきりと出た表情になった。


朝日はホテル前に数台停まっていたタクシーで一番ホテルに近かったタクシーのトランクを上げてもらいスーツケースを入れ、そうしてタクシーに乗り込んだ。


「お客さん、どこまで行かれます?」


「警視庁まで。」


朝日はそう得意げに言って見せた。


タクシーのドライバーはミラー越しに朝日を2度見してから車を発進させた。


朝日は車窓から街道の銀杏の木々が織りなす黄色のベールに圧倒されていた。


さっき朝日はあの都心のビルの織りなす日本のせわしなく働く日本人のあるべき姿みたいなものを見せられてどこか心が締め付けられたが、今度はこの秋にだけ見せる自然の美しい紅葉には魅了されていつの間にか口角が上がっていた。


「いいですよねー、紅葉。」


さっきまで朝日を不審に思っていたドライバーは朝日がまるで初めて見たかのように紅葉の木を一つ一つ目で追っていく無邪気な姿を見てそう言った。


「日本に戻ってきて改めて紅葉の美しさを感じました。」


「お客さん、海外に行かれてたんですか?」


ドライバーは再びミラー越しに朝日の顔を確認してそう言った。


「ええ、アメリカに。」


「どれくらいの期間で?」


「一年ほどですかね。」


「じゃああの爆発テロ大丈夫でしたか?」


朝日は一瞬返す言葉に窮したが


「ええ、まあ。」


と言って愛想笑いで返した。





警視庁の前に着きトランクから荷物を下ろしてもらってお礼を言って警視庁の中に入っていった。


警視庁の入り口の前では古びたグレーのスーツを着て頭が少しぼさぼさの今年で45になる男が腕を組みながら足が地につかない様子で立っていた。


その男は朝日にピントが合うや否や


「おーい、朝日君。」


と言って手を振った。


その姿は犬がご主人様を見つけて全力で尻尾を振るのとよく似ていた。


朝日は仁志に走り寄り


「昨日はすみませんでした。」


と言って頭を下げた。


「ああ、はいはい。」


仁志はそのことは軽く流し、そうして朝日から視線を逸らして言った。


「ところで朝日君、ちゃんとお風呂入ったかい?」


朝日は仁志の返事で部屋を出る前にシャワーを浴びるのを忘れていたことを思い出し頭を抱えた。


仁志はその様子を見て


「全く朝日君もとんだ慌て者だな。君のお父さんそっくりだよ。あと職場に入る前にせめてでもそのみだらな服装とはねた髪だけは直してこい。」


と言った。


朝日は何から何まで行き届いていないことを知り、顔を覆いたくなった。


「トイレで直してこい。荷物は俺が見とくから。」


「ありがとうございます。」


朝日は急いでトイレに向かい、鏡で自分の姿を見たときまず鏡に曇りがないのかを疑いたくなった。


だがエレベーターでのあの女性たちからの反応といい自分の今の姿を認めるしかなかった。


ブラシは生憎持っていなかったため手ぐしで何とか上手く髪を細工して、湾曲したネクタイもちゃんと垂直にした。


最後に取り出したばかりのスーツではあったがジャケットの下の部分を強く引っ張ってもしわにならないのを確認してからトイレを出た。


仁志は朝日の姿を入念に確認して


「大丈夫そうだな。ついてこい。」


と言った。


職場に着くまでの間、朝日とすれ違う人々はすれ違いざまに嫌な顔をして少しだけ距離を置いた。


「朝日君もとんだ嫌われ者だな。」


仁志はその光景を見て面白がって言った。


「はあ。」








職場に着くと朝日はしばらく立ち尽くし、そうして仁志をじっと見つめて


「ここって捜査第一課ですよね?」


と言った。


「ああ、そうだ。」


仁志も朝日の様子を見て得意げにそう言った。


「さあ、入りなさい。」


てっきりあの不祥事があったからどこかマイナーな部署に飛ばされると思っていたが1年前と同じあの花形部署とも言われるところだった。


警視庁に戻されるのも奇跡なのにまさかまた同じ所で仕事できるなんて……。


仁志はドアを開けて先に朝日を通した。


朝日はおぼつかない足でここに初めて来たかのように部屋全体を見回しながらただただ前に進んだ。


エアコンの位置も机の配置も特に変わることなく、変わったとすれば少々見慣れない人がいるといったぐらいだ。


仁志は朝日のそのおぼつかない足を支える形でゆっくり背中を押して朝日を部屋の中央まで行かせて軽く手を叩いた。


「紹介する。今日から刑事課捜査第一課に配属された東宮朝日君だ。知ってる人も多いかもしれないが朝日君はFBIで働いたぐらい超エリート警察官だ。さあ挨拶を。」


朝日は仁志の言葉を聞いて少し照れ臭かったが、一歩前に出て深呼吸してから胸を張り


「今日から刑事課捜査第一課に配属されました東宮朝日です。精一杯頑張っていく所存ですので何卒よろしくお願いします。」


と言って頭を数秒間下げ、再び頭を上げた時に僕の右耳元近くでしか拍手の音が聞こえなかった。


朝日は知っている人を見つけて所かまわず視線を合わせようとするが、視線を合わせてくれる人はだれ一人いなかった。


視線が合ったとしてもすぐさま視線を逸らしてくる。


仁志は咳ばらいをして


「ほらほら、みんな拍手。」


と言って職場にいる人に拍手を促してやっと数人には拍手を送ってもらえたが断続的に鳴り響く種のものではなかった。


仁志は朝日をデスクまで案内した。


デスクの場所は以前とは違う壁沿いのエアコンに近いところで仁志さんのデスクとも離れていた。


「今日からここがお前のデスクだ。好きに使ってくれていい。ああ、あと…。」


仁志は一旦職場の外に朝日を連れ出した。


「今回朝日君が戻ってくれたのは月島のおかげなんだ。」


「月島さんが!!」


朝日は思わず大きな声を出してしまった。


何か裏があるとは思っていたが、あの真面目なイメージの月島さんが根を回すとは思ってもいなかったからだ。


「朝日君、声が大きいって!!」


「すみません。でもなんで?」


「君のお父さんに世話になったからだろう。後ちなみに言うと朝日君を僕の部署に欲しいと言ったのは俺なんだ。」


「ありがとうございます。」


「いやーそんな気にすることないぞ。とにかくだ。今日はデスクを整理したら月島に会ってお礼を言ってもうそのまま帰れ。まだ日本に戻ってきて何も準備できてないだろ。」


「分かりました。」





職場に戻った後、数人の人がこっちを見たが再び視線を逸らされる。


朝日は人が耳を集中しては聞こえないようなエアコンの空調の音とも取れる芯がこもってないようなため息をついてデスクに戻り、自分の右隣の肩に着かないぐらいのショートカットの女性に軽くもう一度自己紹介したが聞く耳をもってもらえなかった。


朝日はさっきよりも大きなため息をつきデスクを整理して月島さんのもとに向かおうとした時、デスクにポンとバニラと英語で表記してある香水を隣のショートカットの女性が僕のデスクに置いた。


僕はその女性を思わず2度見したがその女性は視線を全くこちらに向けることなく黙々とパソコンに向かっていた。


恐らくこの女性は僕の臭いを不快に思ったのであろうが一応ありがとうございますと小声で言って、トイレでその女性から貰った香水を首につけてポケットにその香水をしまい向かった。


しかし生憎月島さんは席を外していると言われた。






仕方なく警視庁を出て周囲をぶらぶらしながら時間を潰す術を探した。


特に東京に戻ってきて原宿とか渋谷とかそういう場所を観光をする気持ちは起こらなかった。


家に戻ろうにも日本に戻ってきたことをまだ両親に言えるけじめもついていなかった。


スマホを適当に探ったが今から誘って来てくれる友人なんかこんな平日の真昼間に誰一人もいなかったので途方に暮れていた。


僕は家族と一緒にいる時に墓参りに行こうと思っていたが予定を変更して一人で行くことにした。


昼間だったら不気味でもないだろうし、家族がいない方が自分の心の内をあるがままに打ち明けられる気がするからだ。


墓に行く前に偶然通りかかったファミレスで腹ごしらえをして、駅まで徒歩で向かい券売機でSUICAのチャージを5000円ほど追加して乗り換えを繰り返して墓の最寄りの駅に着いた。


そこで適当な花屋を見つけて花を数本買った時に店主さんが数本花をサービスしてくれた。


その後は10分ごとに運行しているバスに乗り15分ぐらい揺られて着いた。


僕のほかには降りる客はおらずゆっくり僕の前を通り過ぎていくバスの窓からは不思議そうに僕を見つめる窓側にいる乗客数人と目が合ったが、僕は気にせず自分の進みたい方向へと足を進めた。






墓場全体はとても広くてマップも展示されているくらいだ。


車で来た方が楽だったかもしれないと少し後悔した。


前に家族で来た時、母が先導を仕切ってついて行ったことがあったが道に迷って40分ぐらいしても見つからなかったことがあったからだ。


ましてや平日の昼間なので駐車場は混んでいるはずもなく一台たりとも見つからない。


おまけに周りを見渡すとトイレの近くで憂鬱そうに掃除しているおばさんが一人いるぐらいだった。


おばさんが僕の方を振り返りそうだったので何となく気まずくなり視線を逸らそうとして自然と目に留まったのは大きくそびえ立つ桜の木だった。


その桜の木は春になると僕が毎年日本に居る時に墓参りを二の次として毎年スマホのホーム画面にするためにわざわざ足を運んだあの桜の木だった。


ただ今来てから数分ぐらい経ってもすぐ目に留まらなかったのは大きい割に枝が寒さの余り震えているぎこちない様子を見せられて、僕の知っている桜の木ではないと見限ってしまったからであろう。


桜の木の近くにあるマップで墓の行き方を入念に確認した後、朝日はその複雑な迷路の中に入っていった。


所々に枯葉が散っていて、時折物悲し気なカラスの鳴き声も聞こえた。


まるで今から神隠しにあうのではないかと不安になる。


丁度日が一番昇る時間帯であるにも関わらず、この独特な雰囲気は拭い取ることは難しいようだ。








20分ぐらいした経った頃だったろうかようやく目的地に着いた。


奥の方に行っても人の姿どころか気配も見当たらない。


墓の前には全く枯れていない花と焼酎の缶が供えられてあった。


焼酎の缶を手に取って賞味期限を確かめてみると2019年の6月と書いてあった。


どうやら最近誰かが来たらしいが不信に感じた。


なぜなら両親の命日はクリスマスイブで誕生日も全く秋と関連が無いからだ。


それに休みの取りにくい季節にわざわざ墓参りとは自分だったら気が引けるからだ。


僕は勿体ないと思いつつそのお供えしたばかりの花を取り出し代わりにさっき買って来たばかりの花に植え替えて取り出した花を新聞紙に包んで傍らに置いた。


朝日は線香を持ってくるのを忘れてしまったと思った。


朝日は両親に申し訳ないと思いながら腰を下ろし目を瞑り、そうして手を合わせFBIに赴任して現在に至るまでの経緯を伝えた。


両親は僕のことをどう思うのか?


可愛そうな息子と思うのか、それともラッキーだと思うのか。


朝日が答えを求めている間、風に耐えている木についたわずかな葉が擦れ合う音と既に散ってしまった枯葉が風によって舞っている音とが交差して両親との会話を妨げているようだった。


朝日は3分ぐらいその墓の前で座ってようやく腰を上げた。


傍らに置いてあった新聞紙に包んだ花を持って元の道を引き返した。


朝日は自分の境遇を存分に伝えられて何故かすごく清々しい気持ちになり思わず腕を伸ばして背中をそった。


風も来た時とは逆の追い風で僕の背中を押してくれているようだった。


そんな時着信音が鳴った。


朝日は両ポケットを叩き振動している方からスマホを取り出した。


戸崎からだった。


「もしもし。」


「ああ、もしもし。朝日。」


「よお、久しぶりだな。元気か?」


「ああ、元気だよ。それより本当に日本に戻ってきたんだな……。」


戸崎のその声はどことなくがっかりしているように聞こえた。


それもそのはず戸崎は僕がアメリカに行くのを応援してくれて引っ越しの準備から何から何まで手伝ってくれたのだ。


「ああ。」


僕は戸崎に申し訳なくて返答をするのにしばらく間が空いた。


「…でもよかったよ。」


「え?」


「お前がまた警視庁に戻れてさ。部署は違うけどまた会えるだろ?昔みたいに。」


「まあそうだな。」


「それより、今どこにいるの?」


「今墓にいる。」


「墓!?」


驚くのも無理はない。


普通の人だったら仕事を早退して墓に行こうと思う気何ぞ一概には言えないが起こらないだろうから。


戸崎はその朝日の思わぬ発言で真っ白になった脳に再び血が巡るのを待って言った。


「これから会える?」


「…これから?」


右腕の時計を見るとハート型の短針が4を指しかけスペードの長針は10を指していた。


「ああ、いいよ。」


「じゃあ目黒駅から徒歩で5分ぐらいのロココっていう店で待ち合わせね。すぐわかると思うよ。5時に予約してるから、じゃあ。」


と言って一方向に電話を切られた。


「相変わらずだな。」


朝日は着信拒否のボタンを押して吹き乱れる風に自分のちょっとした笑い声を紛らわせた。


「そういえば…。」


さっき叩いたポケットのスマホが入っていない片方に何か入っていたのを思い出し、

取り出すとショートカットから借りたバニラの香水が入っていた。


「やっべえ。」


その上スーツケースも職場に放置してあったのを思い出した。


仁志さんがそれに気づいたとしてもわざわざ律義に家まで送ってくれる気遣いがないのは重々承知していた。


どうしても職場に戻らなければならない運命だった。


「弱ったな。」


朝日は頭を掻きむしり、とりあえず墓の出口まで出て駅に着いてから考えようと行き当たりばったりな考えで墓場を跡にした。






墓場の出口の近くにあるゴミ捨て場に花をくるんだ新聞紙を捨て、駅行きのバスが見えたので急いですぐにそれに乗り込んだ。


バスには通学帰りの女子高生の集団が片手でつり革を持ちその空いた手でスマホをいじりながら大声で話していた。


その傍では眼鏡をかけた老婦人が座って黙々と読書をしていた。


僕は外の風景を見ながら時たま集中を乱さない老婦人に視線を向けて感心していた。


このバスに乗っている人ほとんどが終点の駅で降りた。





さてと呟いて時刻を確認すると4時20分だった。


僕は先に戸崎の方に向かった方がいいと思い、目黒の方に向かった。


運よく通勤ラッシュには遭わなかった。


目黒駅で降りると4時50分で結構ギリギリだった。


急いでロココという店を探した。


すると高層に並んで立つビルの中で一際存在感を放つものがあった。


存在感を放つというよりどっちかというと周りの風景に馴染んでおらずそこが浮き出て見えた。


その店の前を通り過ぎる何人かは高さの低い木製の店を2度見していた。


その店に近づいて店の上にある黒い看板を見てみると「rokoko」と見ずらいこげ茶色で英語で表記してあった。


「ここか。」


朝日はその店の独特な外観に魅せられることなく白い小石の上にある茶色の隙間の空いた板みたいなのをテンポよく渡ってその店に入った。


ドアを開けるときにベルが鳴った。


「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ。」


カウンター越しに黒ひげを生やした如何にもマスターっぽい空気を醸し出している人がグラスをタオルで丁寧に磨きながらそう言った。


僕は店内を見回し、奥に戸崎っぽい眼鏡を掛けた男がソファーで俯きながらスマホをいじっているのが見えた。


僕は近づくと顔を上げた。


戸崎だった。


「おお、久しぶり。朝日。元気?」


「ああ、ごめんな。遅くなって。」


朝日はコートを脱いで戸崎の向かい側に座り、そうしてコートを自分の横に置いた。


戸崎は自分の時計を見て朝日に見せた。


「いや今5時2分だから。全然。それにこの時計5分早いから。でもそんな息を切らして来ることもなかったのに、別に。でもお前にしては珍しいな、いつもマイペースなのにさ。」


朝日は久々の戸崎との再会に気を取られてすっかり香水のことを忘れていた。


「ああ、そうだ。戸崎話を聞いてくれ。」


「うん、何だい?」


戸崎は前かがみになって両肘を机の上に置いた。


「あのさ…今日会ったばかりの人から香水貰ったのね。」


「うん。」


戸崎は顎をさすって言った。


「その人とはどういう関係なんだ?」


「同じ職場の人。」


戸崎は顎をさすっていた手を顎から離し手をポンと叩いた。


「ああ、OK。で?」


「で香水を返しに行くのが気まずいんだ。だから戸崎みたいに女の扱いに慣れている奴の話を聞きたくてさ。」


「いや僕は慣れてないよ。」







その時さっきのマスターっぽい人が近づいてきて水の入ったグラスを僕の目の前に置いた。


「メニューがお決まりになりましたらボタンを押してください。」


と言って去っていった。


「お前、ちゃんと自分の姿鏡で見たことあるのかよ?」


「ああ、そりゃ30年間生きてきたら何回も自分の姿を鏡で見てきてるよ。もしかしてルックスだけで恋愛できると思ってる?」


「ああ。」


戸崎はどうやら自分の顔が眼鏡を掛けていてもイケメンオーラを放っていることを理解してはいるようだった。


戸崎の顔は目が印象的で人形みたいに目がとてもクリっとしていてその上顔も小さい。


その上身長も高いからスタイルも抜群にいい。


そのため2人でよく遊びに行ってた時、戸崎はよくどこかの事務所に声を掛けられていたがどこも断っていたものだった。


戸崎は朝日から視線を逸らし誰も座っていない2人掛けのテーブル席の方を見て言った。


「興味がないんだ。いや…女の人の見え透いた甘えとかが嫌いなんだ。」


戸崎はそうして水を口に含み怪訝そうに自分の持っていたグラスの方に視線を戻した。


「それより話がずれてるぞ。でどう気まずいんだ?」


「たぶんもう5時間いやもっとか香水返せてないんだ。」


「気にしすぎだよ。アメリカに行ってちょっと過敏になってるんじゃない?」


戸崎は手元にあったグラスに入った水をまた少し飲んだ。


「いやその人…何て言えばいいんだろうな、堅苦しいいやむすっとしてるというか何というか…。それにデスクが隣だし…。」


「じゃあなんで香水貰ったのさ?」


「知らない。ああ…いや酒臭かったんだと思う。」


「うーん、僕の作戦でその…朝日が香水返せるかどうか分かんないけど…。」


そう言って戸崎はボタンを押した。


「ええ、僕まだメニュー決まってないんだけど。」


「いや大丈夫だから。」


再びマスターっぽい人がデスクに来た。


「ねえマスター、お持ち帰りのクッキーって売ってなかったっけ?」


「ええ、ありましたよ。」


どうやら僕がマスターぽいと思っていた人は本当にマスターだったらしい。


「じゃあそれを一つお願い。で後特製ビーフシチューとアップルティーで。」


「かしこまりました。そちらの方は?」


と言ってマスターが朝日の方を見た。


「いやこの人、今から帰るんで。」


「かしこまりました。お持ち帰りのクッキーは支払いの時にお渡ししますね。」


「ううん。この人に持たせて。僕が後からその分も払うんで。」


マスターは戸崎と朝日の顔を交互に見て


「かしこまりました。」


と一言だけ言って去った。


「どういうことだよ?戸崎。」


「ほら女子って甘いものに弱いだろ。その香水と一緒に渡せばいいんだよ。だったらその女の人は香水を返すのを忘れたからって怒りもしないしむしろ逆にお前のことをよく思ってくれるかもしれない。」


やはりその発言を聞いたら戸崎が女扱いに慣れてるのは明らかだった。


「ほら返せる気がしてきただろ?」


「どうだろ…。でもクッキー代は僕が払うよ。」


朝日はそう言ってポケットから財布を取り出したが戸崎はその手を朝日の方に突き返した。


「いいよ。このクッキー300円ぐらいだから。遠慮するなよ。ほらアメリカに帰って来てまだお祝いみたいなものもしてやれてないし。」


朝日は少し悩んだが、ありがとうと言って戸崎の好意に甘えてそうすることにした。


「ああ…でも戸崎話したいことがあったんじゃないのか?」


「まあそうだけど。明日には予定空けといてくれよ。」


「うん、分かった。じゃあな。ありがとう。」


朝日はマスターから袋に入ったクッキーを受け取って勢いよく店を出て行った。






急いで電車を使って警視庁まで戻り職場に着くと一人でショートカットがパソコンに向かって作業をしていた。


朝日は入るのに緊張したが何事もなかったかのようにお疲れ様ですと言って入った。


ショートカットは僕を見て驚いて、資料みたいなものを裏返しにして髪を両耳にかき上げてキーボードを再び打ち始めた。


やはりデスクの近くには置き去りにしたスーツケースがあった。


「あのー…。」


ショートカットに話しかけてもこちらを全く見てくれない。


「あのー。」


と今度はさっきより大きな声で言った。


ショートカットは叩いてたキーボードの指を止めこちらを睨みつけて姿勢もこちらの方に向けた。


ショートカットの顔を初めてみたが、向いた目を見るとブラックホールのようにどこか引き込まれそうなものがあり、それとは対照的に口がおちょぼ口でまるで猫のよう

だった。


黙っていればすごく可愛らしい容姿をしているのだろう。


「ああ、あの…香水返すの遅れてすみませんでした。」


と言って朝日はその香水を両手で差出し頭を深く下げた。


「ああ、わざわざどうも。明日でもよかったのに。」


ショートカットは片手で朝日の持っている香水を受け取って目分量を確かめた。


「ああ、あとよかったらこれ。」


朝日はビニール袋に入ったピンクのリボンでくくってあるクッキーの小さな袋を取り出してショートカットに差し出した。


「何これ。」


「クッキーです。喫茶店で売ってた…。」


ショートカットは受け取るのに躊躇したが、朝日の顔を見てありがとうと素っ気なく言って片手でその袋を受け取った。


「じゃあこれで。」


と言って朝日はスーツケースを持ってその場を立ち去ろうとしたが


「ねえ。」


とショートカットに声を掛けられた。


振り返るとショートカットは腕と足を組んでこちらを見ていた。


「何ですか?」


朝日は片手で持っていたスーツケースの取っ手を離した。


「あなたって今まで自分の力だけで何か成し遂げたことってある?」


「…どういうことですか?」


ショートカットは朝日の返事にため息をつき


「回りくどかったかしら。単刀直入に言う。あなたが戻ってこれたのって仁志課長のおかげよね?」


少し間違っているところはあるが大体は当たっている。


朝日が返答に困っているとショートカットの右の口角だけがに上がり


「やっぱりそうなのね。」


と得意げに言った。


「い…いや違います。」


「じゃあどう違うの?」


ショートカットはさっきよりメリハリをつけた口調でそう言った。


しかし言い返そうにもなかなか言葉が出てこなかった。


「もういいわ。あんたみたいな用無しがいると仕事の邪魔になるから早く帰って。」


ショートカットはデスクに再び姿勢を向けキーボードを打ち始めた。


僕は言い返してやりたかったが聞き入れてもくれそうにもないので職場を後にした。





荷物もあったのでタクシーで家まで帰った。


1年ぶりの家を見てもあまり感慨にふけるといったそういう気持ちはあまり起こらなかった。


ピンポンを押すのに結構手間取ったが肌に応えるような寒さが僕がピンポンを押すのを催促させた。


「はいはい。今開けますからね。」


母さんの声が聞こえてきた。


母さんはドアを勢いよく開けて僕に抱きついてきた。


「お帰り。元気だった?」


と言って今度は両手で僕の少々赤くなった頬を触れてきた。


「ああ、元気だったよ。」


「早く入りなさい。」


母は朝日の背中を優しく押してドアを閉めた。


「そうだ。ご飯食べた?」


「いや、まだ。」


「じゃあ用意しとくわね。あとお風呂も沸いてるから。」


「うん、ありがとう。」


母は朝日が持っていたスーツケースを家に引き上げ、僕のスーツの臭いを嗅いで


「何か甘い香りがするわね。まるでラム酒みたいな…。」


と言った。


恐らく母さんは僕の酒臭い臭いとショートカットから貰ったバニラの香水との匂いが混ざったのをラム酒の臭いと勘違いしているようだった。


「いいや…違うよ。その何て言えばいいのかな…。」


朝日は頭をかいてしばらく返す言葉を考えていた。


すると母さんは僕の方をじっと見つめた。


「まさか女が出来た訳じゃないでしょうね?」


「……いいや、違うよ。」


「そう。よかったわ。」


母さんは目を細くして言った。


「あなた、ちゃんと約束守ってくれたのね。」


「何が?」


母さんは僕の肩を叩いた。


「ほら。忘れちゃったの?西園寺さんとのお見合いの件。」


「…ああ。」


すっかり忘れていたが西園寺さんとのお見合いの件というのは僕がFBIに行く都合で1年延期になっていたものだった。


もうその件はてっきり消滅したばかりだと思っていたが。


「朝日の帰国日に合わせて今週の土曜日にセッティングしてあるから。ちゃんと…。」


「あのさ…。」


「何よ?」


母さんは話を邪魔されたのが嫌だったのか少し口をとがらせて言った。


「あのさ…そのお見合いの件なしにしてもらえないかな?」


母さんは僕の答えに一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしたが、すぐに鬼の形相のような顔つきになった。


「何言ってるの?西園寺さんは1年もあなたのために待ってくれてたのに。キャンセルすることなんてできないわ。」


そう言葉を吐き捨てて母さんはリビングの方に去っていこうとしたが再び僕の方に戻ってきて言った。


「何としてでもお見合いは行かせますからね。」


家中に響くような大きな足音を立ててリビングの方に戻っていった。


その音が聞こえたのか堅物が書斎のふすまを少し開けて母さんの様子を窺ってそして僕の姿をしばらくの間見つめてまたふすまを閉めた。


その後風呂には入ったものの食事中母さんと顔を合わせるのが気まずくてそのまま2階に上がった。


玄関にあったスーツケースはいつの間にか部屋に置かれていた。


恐らく母が置いてくれたのだろう。


さっき風呂に上がった時もパジャマがいつの間にか置かれていた。


朝日は母のさりげない愛と自分の気持ちを理解してくれないはがゆい気持ちに悩まされながらベッドに横になりそのまま目を瞑った。

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