雷獣の牙
鎌は、死んだ。人であるのだから、仕方がない。二十数年にわたり共に歩み、全ての人を統べる人となり、自らの後に続くあらゆる王が王たる道をゆき、あらゆる人が人であることができる国を創ることを拓いた葛城にも、どうすることもできない。
死は、ただ死なのだ。だが、葛城は、たしかに見た。己が生の意味を定め、それに向かって歩む者どもの姿を。
はじめ、己一人が世で尊かるべきだと思い、そうではない世に対して激しい怒りを持っていた。あのとき、鎌は、自分に
そのように見えた。しかし、それはどうも違うらしい。実際のところどうであるのかは誰にも分からぬし、その答え合わせをすることに何の意味もないのだが、今、筆者は、もともと獣であった葛城が、鎌に沓を履かされたことにより、人になる道を歩んだのではないかと思っている。
葛城は、見た。
たとえば、芦那を。ただ愛する者のため、愛する者が愛したもののために生き、葛城を媒体としてそれが成るべく尽くし、いよいよ葛城がほんとうの王に、そしてほんとうの人になったと確信した途端、長らくの間ひそかに抱えていたであろう病に喰われて死んだ。
そして、鎌を。国が国として自立し、己が沓でもって己が道を歩んでゆくことができ、人を導くことができる光そのものにしようと己の生命そのものを燃焼させ、はじめの王の誕生を見届け、その最後の仕上げとも言える法典の編纂を終え、死んだ。
彼らは、どちらも揃って、花のようであった。芽吹き、茎を伸ばし、知らぬ間にそれを幹とし、葉を茂らせ、そして花を開かせ、我ここにありと言わんばかりに風を薫らせ、そして散り、あるいはこぼれ、実を結び、地に落ちたり鳥に運ばれたりする。それがまた別の場所で同じ花を咲かせ、また同じように芽吹き、咲きを繰り返す。
それを、葛城は見た。
鎌こそ、人。鎌が晩年愛した藤は、鎌自身が望んだ通り、鎌の知らぬところにまでずっと広がり、世に藤の原を作るのだろう。そういう意味で、彼は藤原の姓を鎌に与えたのではないか、と叙情的な感慨をもって筆者は勝手に想像する。
彼らは、役目を終え、死んだのではない。生きるべくして生き、自らの生を咲かせたのだ。葛城が我々に教えた時間というものに従い、死が誰にでも訪れる、どこにでもあるものなのであれば、生こそが人ということになる。ゆえに、人の死を語ることはその人を語ることにはならぬと思う。
彼らがどう死んだかは、たいした問題ではない。彼らが、どう生きたか。そのことに眼を向けるべきである。
筆者ですらそう思うのだから、葛城のように感受性の豊かな人間ならば、なおさらであろう。
「都も成った。法もできた。唐とのことも、落ち着いた」
葛城は年甲斐もなくだらしない格好をして居室に座り、雨の音を聴いている。猫と讃良と大友の三人に合わせ、鎌の遺言に従い、その子である
「唐のこと、まずはよろしうございましたな」
大友が重々しく頷いた。唐のことというのは白村江の戦後処理である。戦後数年を経て、両国は捕虜の交換や盟約の確認を行い、また倭国から使いを出すまでに至っていた。
「これからが、大変だ。唐の機嫌など知ったことではないが、体面の上では我らは引き続き臣従していることになっているからな」
葛城は、苦笑した。彼自身や大海人が言った通り、これはあくまで時間稼ぎで、その間に、唐が手を出す隙を全く見せぬような国家を創ることが目的である。
それは、わずか数年の間に、ほぼ成りつつある。海の守りを固め、都を攻めにくく逃げ易い近江に遷し、法を敷いて人を統べ、官吏を増強して政治を遺漏なく旋回させる。
唐はすでに、してやられたと思っていることであろう。戦いの後、倭国がこれほど早くに体勢を整え、やすやすと手を付けることのできぬ牙をちらつかせるようになるとは思いもしなかったに違いない。
葛城らがはじめに持った牙はもう、国が国を守るための牙になろうとしているのである。
「大変なことでありましょう。しかし、お任せを」
そう意気込んだのは、大友である。後継者に指名されながら、やはりあまり積極的に意見を発することはない男であるが、ここは一つ、自らがただ腕を拱いて王になろうとしているわけではないことを見せておかなければならぬと思ったのだろう。彼のこういう部分は、もはや性格に根ざしたものなのかもしれない。
「大友」
葛城は、今思いついたような表情で言った。
「お前に、しかるべき位をくれてやる」
皇太子であり、これから政治をも担ってゆく。それを表す官職を新設するという話である。それを葛城は、
「
と称した。後の世にも長く残る執政官の名誉職の前例が、このときに出来上がった。
このところ前例、前例とよく表記するが、彼らが行った革新的な施政などを後の世の人々が好んで引いたことは紛れもなく、その意味においても彼らは実に分かりやすくわが国の始原であった。
それを受けた大友は、己が父に認められた嬉しさを満面に表し、深く謝した。
傍らの大海人は、眉ひとつ動かさない。その眼は、これから己が担うであろうものを真っ直ぐに見据えているものらしい。
史が、二人の後継者を代わる代わる見た。
雷鳴が、ひとつ。それが、この座にいるものを照らした。その中に、葛城は立ち上がった。
「大海人よ」
「はっ」
「槍はあるか」
「お待ちを」
槍という、この時代のわが国では比較的先進的な武器を、葛城は好んだ。蘇我を討ったあの日も、これを用いていた。
しばらくして、大海人が槍を抱えて持ってきた。それを受け取り、縁に立った。そこに打ち付ける雨に濡れる王を、全員が見た。
「内に向かい、武を用いることは、できるだけするな」
葛城がそれを振るうと、槍は唸りを上げながら雨を弾き飛ばした。
「外に向かい、武を用いることも、できるだけ避けろ」
雨。より激しく。葛城は縁を降り、舞うようにして槍を振るった。大友も讃良も史も、知らなかった。葛城が、これほどまでに激しい槍を振るうとは。
はじめて見た。彼がその身をひとつの牙とし、それを剥き出すのを。
そして、知った。その鋭き牙はこの雨のようになり、地の全てに注ぎ続けていることを。一人の人間と世の全てを、雨が繋いでいる。雷鳴を槍が跳ね返し、その度に全員の眼に紫の閃きが焼き付いた。
ひとしきり舞うと、ずぶ濡れのまま座に戻り、自ら滴る雫で濡れる板敷の上に立って槍を大海人に投げ与えた。
「くれてやる」
大海人は戸惑った顔をしていたが、やがて眉を鋭くし、それを板敷に逆さに突き立てた。
「要りませぬ」
「要らぬと申すか」
「ええ、要りませぬ」
大友が慌て、声を発した。
「大海人どの。
「お黙りあれ」
大海人は、そのまま立ち上がり、雨の降り注ぐ縁の方へと歩いた。
「この猫、もとより身の全てが牙なれば。手に握る槍など、要りませぬ」
雷鳴。また啼いた。
「讃良」
それをも押し返すほどの鋭い声に、讃良が身を弾くようにして反応を示した。
「ゆく。ともに、来るか」
これが、猫という名の獣。讃良はまた、はじめて見た。これまでずっと、葛城の影のようにして従い、ほとんど言葉を発せず、眉も動かさず。その妻となってからも変わらず自分を主君の子としてしか扱わぬ猫の、ほんとうの姿を。葛城と鎌というはじまりの獣によって作られ、その影の中で自らの牙を研いできた獣の姿を。
聡明な彼女は、この一連のやり取りが何を意味するのか、察することができてしまった。だから、雨の中、葛城を顧みようともせず歩き去る大海人のあとを急いで追わなくてはと思い、駆け出した。沓など履くゆとりもない。裸足で。裸足で、駆けて追った。追いついてふと見ると、大海人もまた沓を履かぬままであった。
「讃良」
「大海人どの」
大海人は、見上げた。その顔を激しき雨が、打ち付けている。
横顔。
目尻から、雨が流れて頬を伝い、意思あるもののように顎まで流れて落ち、また雨に混じった。
「猫め。猫の奴め」
葛城は、自らの槍を拒み、背を向けて去った弟に自ら与えたはじめの名を何度も呼び、そして高らかに笑った。笑って、また彼も去った。
「大海人どのは、もしかして、世に大望があるのではないか。天皇や鎌どのが創りし世を、我が物にしようとするような」
大友が青ざめて呟いた。ぽつりと座し、年若で血縁もないため一言も発しなかった史が、ここではじめて口を開いた。
「天皇は、病を得られているのだと思います」
「天皇が?馬鹿な」
「自ら求めたものが成り、あとは人がそのあとに続くのみとなりました。天皇はそれを知り、また、己に迫るものが何であるのかも知られたものでありましょう」
「馬鹿なことを申すな、史」
「我が父とともにあった天皇ですが、我が父を失い、己というものを見られるようになり、そのことを知られたものでしょう」
史は、十歳くらいになっているだろうか。やはり子供とは思えぬような眼と才知を持っている。大友はそのことよりも我が胸のうちの騒ぎの方が気になるらしく、なにごとかを呟き、立ち上がった。葛城が病であるなど、信じられぬのであろう。
大海人は、それきり讃良を伴って近江を去り、吉野へと去り、隠棲してしまった。葛城は変わらず日々を飄々と過ごしているように見えたが、ある日、ふと思い立ったように、
「することがない」
と大友に漏らした。
「ない、とは」
都は落ち着いている。唐とも上手くやっており、ついこの間も遣唐使の増強を決めたところである。それでも、日々何かに追われて忙しいことに変わりはなく、することがない、というのは当てはまらないと大友は思った。
「ないのだ。俺のすることが、もう」
大友は訝しい顔をしたが、葛城はそれに眼もくれず、
「ちょっと、出かけてくる」
と告げ、馬を駆って南の方へと向かった。近江宮の門番も、都の門番も、それを目撃している。
そして、そのまま、夜になっても戻らなかった。兵や民が必死になって捜したが、いっこうに見つからぬ。数日経ってから、近江から
それきり、ほんとうにそれきり葛城は消え、二度と戻ることはなかった。
ある日激しき雷鳴と共にこの天地の間にあらわれたこの獣は、自らの激しき牙を国の牙とし、誰も歩まぬ道を歩んだ。役目を終えたことを知り、ふらりと出かけたまま消えて戻らぬというのがいかにも葛城らしく苦笑を禁じ得ないが、彼は、自らが消えた場所を示していた。そこに、かつて鎌が履かせてくれた王の道をゆくための右の沓を遺した。
その沓は、次にその道を
このようにして、雷獣の牙は継がれた。
雷獣の牙 第一部 「天の智」 完
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