左大臣、阿倍内麻呂。この物語よりも二十年以上も前の推古天皇三二年に、彼が奏上を行ったという記録があるから、この時点で少なくとも四十代の後半か、五十代であったと思われる。また、推古天皇が崩御した際にも、その後継問題について発言をしていることから、早くから朝廷に対しての影響力や発言権があったことが伺える。そういう経緯もあり、豪族の代表のような形で、葛城や鎌らが入鹿を討った後に建てた新政権の中枢人員となった。人当たりが良く、さっぱりとした性格であるから、人に慕われた。だが、彼は、あくまで凡人であった。不幸なことに、彼はもともと葛城などには見向きもしておらず、鎌との繋がりの中でその存在を知ったに過ぎない。だから、葛城という男と数年来の付き合いとなっても、未だにこの時代にしては新しい型の男の扱いや、その心のうちが分からない。

 更に不幸なことに、葛城の叔父にあたる今の天皇の后が彼の娘であり、皇子も誕生していた。

 鎌が、そのあたりをどう思ったか。



 内麻呂は、焦っていた。革命の旗頭とした葛城が、政務が一段落した途端、芦那芦那と言って使い物にならなくなってしまった――と彼には思えた――のだ。果ては、自らの娘と同じく天皇の后となった妹を、とまで言い出す始末である。それは、葛城が中心となって作ったはずの体制に対する反抗であると内麻呂は考え、同じときに右大臣となった蘇我石川麻呂も賛同した。

 重ねて言う。彼は、あくまでこの時代における、ごく一般的な人間であった。

 葛城の特別なことも、鎌の怖さも、彼は分からない。

「鎌どの」

 と、三月の陽気が作る、難波宮の殿の前の広場の陽だまりの中を歩きながら、鎌に言った。

「我がおんなは、天皇のつまです」

 何を今さら、と鎌は思った。

「もし、太子が、天皇に刃を向けるようなことをすれば――」

 鎌は、二月に植えた種が、春の陽気で芽を伸ばしてきた、と思った。

「――我が娘も、その皇子みこも、不仕合せなことになる」

 この人の良い長者は、蒼白な顔になって憂いを漏らした。

「内麻呂どの」

 鎌は、それに心底同情するような顔を向けてやる。

「どうなるのか、という心の苦しさは分かる。しかし、それに、どうするのか、という考えが無ければ、ただただ苦しいのみですぞ」

 鎌は、何一つとして核心的なことは言っていないから、ずるい。すべて内麻呂の頭で考えさせ、内麻呂の言葉で言わせるつもりなのだ。

「石川麻呂どのは、何と?」

 鎌の眼が、光った。足元ばかりに眼をやっているからか、それに内麻呂は気付かない。

しよう、と石川麻呂どのは言う」

「以前にも申しましたが、太子は、あのご気性。今はただ芦那様芦那様と仰せになるのみであるが、いつ、それが怒りに代わり、我らに矛先が向くか、分かったものではありませんからな」

 鎌は、葛城を誰よりもよく知っている。その意見には、信憑性がある。内麻呂の顔が、ますます青ざめてゆくのを見ないように背中を向けながら、

「太子が、自らお造りになったものを、自ら壊す。そのようなことに、ならなければよいのですが」

 と締めくくり、陽だまりの中から殿内へと去った。

 残った内麻呂は、暫くそこに立ち尽くしていた。

 そのうちに、陽が暮れた。



「内麻呂様が」

 葛城は、明け方、急を知らせる使いの声で目覚めた。

 いつも通り、葛城が起き出すと同時に猫が姿を現した。

「猫。聞いて来い」

「はっ」

 猫が、使者の応対をした。その猫が、すぐ葛城の寝室に駆け戻って来た。

「主上。すぐに、ご登殿を。阿部内麻呂様が、死にましてございます」

「内麻呂が?」

 葛城は、事態を飲み込めないらしい。

 暫く、考えた。

「鎌は?」

「さあ。私には、分かりませぬ」

 葛城は、何事かを察した気配を示した。

「猫。剣を見せろ」

 言われた猫が、腰にいた剣を抜き、刃を逆さにして葛城に差し出した。葛城はその刃を改めたが、脂の曇りや血のぬめりなどは無かった。

「内麻呂は、どこで死んだ」

「お屋敷で。夜のうちに」

「すぐ登殿する」

 葛城は、剣を猫に返してやり、身支度を始めた。



 この時期、喪服という風習があったかどうかは分からぬ。余談であるが、喪服が黒というのは明治になってから西洋の風習とともに流入し、定着したもので、それ以前のものは白である。それがいつから用いられているのか筆者は知らぬが、葛城は登殿のときの正装ではなく、平素好んで用いている緋色の衣を用いており、よほど急いでいたのだろうということが分かる。


 駆け込むようにして、登殿した。そこに、鎌らが既に居た。

「太子」

 振り返り、礼をする鎌の顔を、葛城は見た。それで、こいつ、やりおった、と思った。他の者は皆、左大臣の突然の死を受けて悲哀に暮れ、あるいはひどく狼狽をしていたにも関わらず、鎌のみが、むしろ葛城の顔色を伺うような視線を投げかけてきたのだ。内麻呂のように徳のある温和な長者の死を悲しまぬ者はない。その死を望んだ者以外は。そういう単純な理屈で、葛城は内麻呂の死が鎌の手によるものであるということを悟った。

「何が、どうなったのだ」

「この夜の間に、屋敷の方にて、内麻呂どのは、突如としてられました」

「鎌」

 何か?とでも言いたげに、鎌が葛城の言葉を待つ。

「内麻呂の屋敷に、行きたい」

「お供致しましょう」

 義理の父の死を受け、慟哭する天皇に一通りの礼をほどこし、葛城はさっさと朝廷の中枢である太極殿をあとにした。

「猫」

 道中、葛城と鎌の後ろを滑るようにして歩く猫に、声をかけた。

「昨夜は、どこに行っておった」

「どこにも、行っておりませぬ」

「そうか」

 無言。

「鎌」

 今度は、鎌に。

「お前、やったな」

 いきなり、核心を突いた。鎌は、葛城を分かり切ったつもりでいて、まだ分かり切っていないことを知った。ここで見破られるとは思っていなかったのだ。

「これならば、大層に隠し立てをすることはありませんでしたな」

 とのみ言った。

「何故だ」

「内麻呂は、太子を害そうとしておりました」

「内麻呂が?どうして」

 葛城は、内麻呂の死に鎌が深く関わっていることは一瞬にして看破したが、内麻呂が自分をどう見ていたかは分からないらしい。

「太子は、芦那様を、天皇より取り返すと常々仰せでありました」

「悪いか」

「良い、悪いはさておいて。内麻呂の娘もまた、天皇の后となっておりますな」

「その通りだ」

 葛城は、きょとんとしている。

「よいですか。天皇から芦那様をお取り返しになるということは、天皇を否定すること。すなわち、それは内麻呂の存在も、我らの作ったこの新しい世も否定するということになるのです」

 葛城の頭が良いのか悪いのか、筆者には今一つ分からない。葛城は、ここまで言われてはじめて、そうか、と手を叩いたのだ。

「そういうことだったのか」

 そして、次に、非常に彼らしいと思える言葉を吐く。

「内麻呂には、悪いことをした」

 とても同情的で、内麻呂に対して申し訳なさそうにしておきながら、どこか他人事のようにも取れる。葛城の豊かすぎる感情のどの部分においてそれを言ったのかは分からぬが、葛城は、内麻呂の屋敷に向かいながら、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「内麻呂が、可哀そうだ」

 と何度も言った。猫はいたたまれない気持ちであったろうが、鎌は平然としている。

「それで、よろしうございます。この鎌が、猫に命じ、殺されたと分からぬように、眠る内麻呂の腹を拳でもって突かせ、殺しました」

 猫が、そういう技を持っていることを、葛城も知っていた。剣、槍などと共に渡来人に伝わる技で、人体のある部分を上手く突けば、腹の中が破られて、血が溜まって死ぬということがある。そういう死に様の者は、外から見れば傷が無いために、急な病で死んだように見えるのだ。

「太子、よろしいか」

 鎌の語調が、強くなった。

「太子は、何もご存知ない。内麻呂は、病で死んだのです。大いに悲しみ、涙をくれてやりませい。この鎌が、悪者でございます」

 葛城は、鎌が何故内麻呂を葬ったのか、今一つ分からない。分からないまま、ただ泣いた。

 葛城を害そうとしているということであれば、それを明るみに出し、攻め殺してしまえばよいと思ってしまうのだ。だが、鎌は、それをせず、内麻呂を闇に葬るような真似をした。きっと、何か鎌はもう一つ、を考えている。葛城もまた、鎌の全てを知ったわけでは無いながら、その心のありようは他の誰よりも分かる。


 大化五年、三月十七日。

 難波宮の正面、朱雀門から内麻呂は送り出された。そこまで、天皇や葛城のほか、群臣の全てが出向き、大いに悲しみの涙をこぼした。

 それらで濡れた土の色が黒っぽく変わるのを、鎌が見つめている。

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