第5話彼が私を甘やかしすぎます
「ごちそうさま。すっごく美味しかった。お腹いっぱいで幸せだー」
綺麗に空っぽになったお皿を見つめながら琴が言う。
レイはくっきりとした二重瞼の目を細めてから、少し真面目な顔をした。
「それはよかった。でもごめん、琴。できるだけ家で食事が取れるようにするけど、僕も仕事上、帰れない日は多いかもしれないから、先に謝っておくよ」
「ううん、気にしないで! レイくん忙しいもんね。お仕事大変なの、ちゃんと分かってるから大丈夫だよ」
琴は首を大きく横に振った。
レイに気を使ってもらうのは心苦しい。レイは両親に頼まれたから琴を預かってくれているだけなのだ、勘違いして依存してはいけないと琴は肝に銘じた。いたれりつくせりだからって甘えてばかりではいけない。ちゃんと、一人でも大丈夫な自分にならないと。
両親にもレイにも心配をかけないような、しっかりした大人に……。
「ホント、一人には慣れてるし平気だから気にしないでね! ……レイくん?」
琴が話している途中でレイは黙りこんでしまう。琴が眉をひそめれば、レイは薄い唇をへの字に曲げて言った。
「……あまり一人で平気と言われるのも面白くはないな」
「へ?」
拗ねたようなレイに琴は面食らう。子供っぽく見えるその仕草を少し可愛いなあと思っていると、レイはいつもの笑顔に戻った。
「いや、何でもないよ。琴、明日も学校だよね。宿題は?」
「んーっと……古典の訳があるけど、でもその前に洗い物するよ」
食器を片づけて台所のシンクへ持っていくと、後ろにレイの気配を感じて振り向く。案の定レイが立っており、こうやって並ぶと、百五十五センチの琴とは結構な身長差があった。
(たしかレイくんって……百七十八センチくらいだっけ……?)
「レイくん?」
(まさかレイくん、洗い物まで引き受ける気じゃ……)
そのまさかだった。レイはプラチナブロンドの髪をさらりと揺らしながら断る。
「洗い物はいいよ。琴の繊手が荒れたら困る」
「え……大丈夫だよ。ねえ、私にも仕事させてよ……」
「学生の仕事は勉強だよ、琴。分からないところがあったら何でも聞いてね」
「……東大卒のレイくんにそう言われると心強いけど……そうじゃなくてっ」
丸めこまれそうになるのを堪えて琴が食い下がる。
「私も役に立ちたいの! 洗い物は私が引き受けます!」
「そう言われてもね……うちには食器洗い機があるから……」
「………………へ」
ポカンと大口を開ける琴に、レイは「だから琴がわざわざ洗う必要はないんだよ」と言った。
「~~だ、だったら先に言ってよレイくん!」
レイの厚い胸板を琴はパシンッと叩いた。何てことだ。文明の利器に邪魔されてしまった。
「じゃあ他に仕事は――……くしゅっ」
小さくくしゃみをしてから、琴はそういえばまだ髪をタオルドライしかしていなかったことを思い出す。ドライヤーはどこにあるのか聞こうとレイを見上げれば、レイは大失態をおかしたような悲愴な顔をしていた。珍しいこともあるものだ。
「レイくん……?」
「僕としたことが……ごめん琴。すぐに乾かすよ!」
「へ? え?」
「そこに座って!」
リビングの床、そしてソファの真ん前にクッションを敷いて座らされたと思うと、レイが洗面所からドライヤーを持ってやってきた。ソファに腰掛けたレイは、足の間に琴をおさめ、後ろからドライヤーの熱をあて始める。
事態についていけず目を白黒させる琴の髪を、レイの長い指が壊れ物を扱うように梳いた。その感触が懐かしくて、琴は昔の記憶が蘇った。
「覚えてる? 小さい頃、僕がよくこうして髪を乾かしてあげてたこと」
「うん……ちょうど思い出してたとこ」
昔はよく転んで泥だらけになってはレイに風呂場へ放りこまれていた。そのあと、ドライヤーが嫌いでむずかる琴を捕まえて、レイが乾かしてくれるのは日常茶飯事だった。
レイが乾かすと髪が空気を含んだようにふんわりして、コンプレックスの後頭部が丸く見えるから嬉しかったことをよく覚えている。
でもそれはもう十年近く昔の話。今の琴はわざわざ世話を焼いてもらわなくても大丈夫だ。
「レイくん? ドライヤーなら自分であてれるよ。いくつだと思ってるの?」
「こら、前向いてて」
振り返った琴の顔を前に向け、レイはブラシを使いながら髪を乾かしていく。
「懐かしいじゃないか。琴は僕に思い出に浸らせてくれないのかい?」
「……その言い方はずるいよ」
そんな風に言われると厚意を無碍にはできない。琴の性格を知った上でレイがそう言っている気がしたが、琴はもうされるがままだった。
「琴の髪、好きなんだ。柔らかくて綿あめみたいにフワフワしてるのは、昔から変わらないね」
「そうかなぁ……。レイくんみたいに私の髪もサラサラだったらよかったのに」
照明の光に透けるレイの髪は、枝毛知らずなのだろう。人工的に脱色したものではないから、艶やかで羨ましい。
「琴の髪の方が、撫でる時に気持ちいいよ」
「終わったよ」という一言と共に、髪を一撫でされる。後頭部に触れると、ちゃんと髪のボリュームがあって、丸くなっていた。
それからレイが風呂に入っている間に宿題に取りかかり、口語訳に詰まったところで上がってきたレイに教えてもらう。そうこうしている間に日を跨ぎ、最低限の荷だけ解いて、明日に備え寝ることになった。
明日は金曜日だし、土日に本格的に段ボールの中身を片づける予定だ。
窓際に置かれたフカフカのベッドにもぐりこみ、琴は今日の出来事を反芻する。そして頭を抱えた。
(今日一日、レイくんに尽くしてもらうばかりでまったく役に立てなかった……)
役に立とうと思っても、レイの方が行動を起こすのが早いし頭の回転も速い。食い下がろうにもあの優しい口調でいつの間にか丸めこまれ、気付いた時には甘やかされているのだ。
(私のバカーーっ! レイくんのハイスペックーー!!)
自分の要領が悪いのか、それともレイのスペックが高すぎるのか。できれば後者だと思いたい。
でも、と見慣れぬ天井を見つめながら琴は思う。
(今日はいつもよりずっとずっと楽しかった……)
今日は両親がいない寂しさに胸を詰まらせる時間が一秒もなかった。いつもならふとした瞬間に寂しさがこみ上げては、気を紛らわすように料理や掃除に勤しむのに。
実家にいる時は家中の電気をつけっ放しにしていてもどこかむなしいのに、今日は違った。どこにいても同じ家の中から人の気配を感じられる。レイのシャワーの音や足音、布ずれの音、冷蔵庫の開閉音、ミネラルウォーターのキャップを開けるパキッという音。
(今日は、沢山の音に囲まれてた……)
それが嬉しくて、興奮して眠れないのは、それほど自分が寂しいと心の中で思っていたからだろうか。琴は枕元のテディベアをギュッと抱きしめる。
(こんなに幸せな気分なのは、レイくんのおかげだ……)
すごく嬉しい。レイが世話を焼いてくれるたびに、自分のことを憎からず思ってくれているのだと実感できて、自分は一人じゃないと思わせてくれる。
それと同時に、レイの優しさに慣れてしまったらダメだと思った。それが当たり前になってしまったら、もう一度独りに慣れるのに、時間がかかってしまうから。
「強い大人に、なるんだよ。私……」
テディベアに向かって言い聞かせるように呟く。ビー玉のような瞳が、眉の下がった琴を静かに見つめ返していた。
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