彼が私をダメにします。

十帖

第一章

第1話美形の幼なじみと同居が決まりました

 宮前琴みやまえことにはささやかな目標がある。自立した大人になりたい、ただそれだけ。小説に登場するかっこいい大人の女性のように、他者に依存せず、つまらなくてもいいから堅実で余裕があって、金銭的にも精神的にも自立した大人になりたい。


 そんな淡い目標を抱きながら高校生活を送っていた琴だが、両親の一言がきっかけで頓挫しそうな危機を迎えていた。


 梅雨入りの前は日の入りが遅く、十九時を回っても世界は薄明るい。雨に洗われた住宅街の一角にある家で、琴は素っ頓狂な声を上げた。


「海外に転勤になった!? パパが!? 出張じゃなくて?」


 三日ぶりに帰宅した両親のために作った肉じゃがをよそっている途中だった琴は、思わずニンジンを落としてしまう。あんぐりと口を開く琴に向かって、母親は肩をすくめた。


「ママもよ。パパはアメリカ、ママは中国。ってことで、当分家を空けるから」


「家を空けるからって……待ってよ、私、来年に大学受験を控えた高校二年生だよ?」


 小さい頃から仕事命で共働きの両親に、琴はフワフワした長い栗毛を振り乱しながら困惑した目を向ける。しかし母は事もなげに言った。


「ああ、どちらかについて行くのはいやでしょ? あんたは日本に居ていいから。毎月のお金はちゃんと口座に振りこむし安心して」


「居ていいからって……娘を一人日本に残しておく気? 心配じゃないの?」


 物騒なこのご時世、年頃の娘を長い間家に一人残して防犯面でも不安ではないのか。


 昔から事後報告の多い勝手な両親だが、これはあんまりだと憤慨する琴に、母と父は待っていましたと言わんばかりに目を合わせた。


 慎ましやかなベージュのネイルが施された手で、母は琴の肩に手を置く。


「大丈夫、琴は一人じゃないわ。あなたの面倒は適任者に任せることにしたから」


「適任者……?」


 母の猫なで声に嫌な予感を覚えつつもオウム返しする琴。年齢よりもずっと若く見える母は、ルージュの引かれた艶めかしい口の端を吊り上げ、爆弾を投下した。


「そうよ。琴、あなた同居しなさい」


「………………はっ!?」


 言葉の意味を咀嚼できず、たっぷり十秒あけてから琴が叫ぶ。両親から冗談だとカミングアウトされるのを待ったが、二人ともニコニコしているだけなので、どうやら本気なのだと琴は察した。


「ちょ、ちょっと待って。同居ってどういうこと!? っていうか、パパとママ以外の誰と同居しろっていうの?」


 まさか親戚の家に預けられるのだろうか? 親戚は西の方に集中しているので、とてもじゃないが都内にある自分の高校には通えない。この大事な時期に転校しろなんて言いだされたら自分は怒鳴ってもいいのだろうかと琴は小さな拳を握る。


 すると、背後から誰かにフワリと手を包みこまれた。その直後、耳へ流れこむ心地のいい声。


「僕とですよ、琴」


 いきなりダイニングへ現れた人物に驚いて、琴は急いで振り返る。すると、目と鼻の先に、月よりも眩しい美形の顔が広がった。


「……レイ……くん?」


 琴が振り返った先にいたのは、高級そうなスーツをかっちりと着こなした、歳の離れた幼なじみの神立レイ《かんだちれい》だった。


 さらさらのプラチナブロンドを片耳にかけて微笑む彼は「こんばんは」と朗らかに挨拶をした。その爽やかさは、状況が状況でなかったら、琴が卒倒していたレベルだ。


「ど、どうしてここにいるの!?」


 大きな黒目勝ちの瞳を見開く琴。その肩に手を置き、レイは穏やかに言った。


「君のご両親から、今日琴に同居の話を切りだすと聞いていたからね。君が困惑するだろうと思って、仕事の合間に顔を出してみたんだ」


「仕事って……警察の?」


 今年で二十六のレイは、甘く中性的な容姿からは想像がつかないがこの年で警部補という警視庁きってのエースだ。


 金髪青目に柔和な面差し。お伽噺から抜け出てきた王子様のような外見にも関わらず、警察官ゆえか、レイが纏う雰囲気にはどことなく修羅場をくぐり抜けてきたような威厳もある。


(レイくん、いつ見てもかっこいいなぁ……。背も高いし、モデルって言われても納得しちゃうレベルだよ……)


 琴は紺色ソックスをはいた自分の足元を見つめ、それから学校指定のプリーツスカートと、水玉のエプロン、それからカッターシャツへ視線を滑らせていった。


(……レイくんに比べたら、私チンチクリンだ)


 腰の近くまで伸びた髪は連日の雨により湿気でうねっているし、そもそも猫毛だ。血色のよい小さな唇は、事態についていけないせいで尖ってしまっている。何より……。


 琴は無意識に自分の後頭部を一撫でした。普通の人なら緩やかな弧を描いているはずの後頭部はストンと真っ直ぐで、まるで断崖絶壁だった。子供の頃に長い時間同じ向きで寝かされていた証拠で、形の悪い後頭部は琴のコンプレックスでもあった。


「……と。……こと。琴、聞いているかい?」


「え!? あ、ごめんレイくん。ぼーっとしてた」


「もう。貴女ね、自分のことなんだからしっかり聞いてなさいよ」


 呆れたように言う母に琴はむくれた。するとレイにあやすように頭を撫でられる。琴はレイの大きな手が好きなので、撫でられるままにし、少し機嫌を直した。


「海外への転勤が決まって真っ先に、琴と同居してくれないかレイくんに相談したんだ。快諾してくれて本当にありがたかったよ、なあお前?」


 父は皺の入った頬を緩めて母に同意を求める。母はご満悦といった様子で頷いた。


「ええ。なんたってレイくんは刑事だし、琴と同居してくれたらこの上なく安心だわー。そうそう、東大の法学部を首席で卒業したのに、どうしてキャリア試験受けなかったの?」


「あはは……現場仕事の方が、自分には向いていると思ったので……」


 琴は両親とレイの会話を聞きながら、レイに向き直った。


「じゃあ私は、レイくんと同居するの? レイくん、うちに住むの?」


「いや、一人暮らししている僕のマンションの部屋が余っているから、琴さえ良ければそっちに住んでもらおうと思ってる。琴の学校からも近いしね。……嫌かい?」


「嫌じゃない……けど……」


 レイのことは好きだ。小さい頃から年の離れた琴を可愛がってくれた自慢の幼なじみで、今更遠慮する仲でもないし、家族と同じくらい、いやそれ以上と言っても過言ではないほど信頼もしている。ただ……。


「……ママもパパも仕事、ばっかり」


 自分を蚊帳の外にして話を進めてしまった両親に対するモヤモヤはどうしても浮かんでしまう。苦々しげに吐き出した独り言は、傍にいたレイには聞こえたようだ。レイは同情するように琴の細い肩を抱いた。


「ごめん、急で驚いたよね。やっぱり先に琴には知らせるべきだった」


「レイくんのせいじゃないよ。娘に相談なしで決めちゃうママたちがありえないんだもん。こっちこそごめんね。迷惑じゃない?」


「まさか。琴と一緒に暮らせるなんて楽しみだよ」


 白い歯を見せて爽やかに笑うレイに、沈んでいた気持ちが少しだけ浮き上がる。両親の転勤はもう決まってしまった事項だし、駄々をこねたところで何かが変わるわけでもないだろう。


 それなら、一人ぼっちの我が家にいるより、慕っているレイと暮らす方がずっと楽しいに違いない。寂しい想いもせずに済むはずだ。琴はそうポジティブに捉えることにした。

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