線の内側

さかなへんにかみ

線の内側

定食屋のテレビなんていうのもめっきり姿を消したが、駅前の中華屋でまだ現役のそれを平塚と並んで白米を掻き込みながら見ていた。地上デジタル波、あるいはその他の電磁波を通じて日本国民皆が呆然とその瞬間を待っているに違いない。現に競馬新聞を広げながら煙草を吹かす場違いなおっさんは灰を落とすのを忘れているし、いつもは機敏に炒め物をしている旦那さんもテレビをちらちら見ている。ああ、回鍋肉焦げちゃうよ。

「桜の花言葉知ってるか。」平塚が突然訪ねてきた。

「知らん」平塚はこんなことを聞くやつだっただろうか。

「元号、明日から変わるんだよな」今度はか細く言った。そう、平成の夜も今日までだ。

「まあ、だからと言って何かが変わるわけでもないさ。明治から大正、大正から昭和、昭和から平成、そこに一個加わるだけだ。もう準備は十分しただろ。」急いで卵スープを飲み干して会計する。あと十五分で午後の始業だ。残業時間の短縮が奨励されているのだ。今日のノルマを早く達成しなければならない。ジャケットを羽織り、ネクタイを締め直す。振り返ると平塚はまだテレビに釘付けだった。

「おい、平塚いつまで見てんだ。新元号の発表は二時からなんだろ。戻るぞ。」

「なあ、皇居見てかないか」平塚は不安そうに告げてきた。

「お前今日は確か午後の会議ないんだろう」今日の平塚はどこか様子がおかしい。元号が変わるだけでなぜそこまでナーバスになっているのか俺にはまったく分からないが、唯一の同期に潰れられても困る。有楽町からなら傍だし、少し腹休めでもしよう。

 桜田門の辺りまで来ると、平塚は鉄柵から堀の中を覗き込んだ。深緑というほど濃く濁り、油が浮いた水面。そこを堀の水と同じ色の頭をしたマガモがゆっくりと流れてきた。こんな場所でも餌に恵まれているのか、五羽の雛を連れている。それにしてもいい天気だ。会社の周りは高層ビルに覆われ薄暗いが、ここはめっぽう明るい。

「なあ、平塚。どうかしたか、疲れてるのか」

まだ鴨の親子を目で追っている平塚から目を逸らし、道路の騒音に負けないように大声で言った。道路には車が、歩道にはランナーが次々と瀬のように流れていく。その川の中にあって、向いの警視庁の前に停まるパトカーばかりがわずかも動かない。

「そうじゃないんだ。なんていうか、俺達って八十九年生まれだろ。昔ガキの頃から飼ってた犬が死ぬときもこんな気分だったかもしれない。」平塚はやっと振り返って答えた。ずっと下をのぞき込んでいたからか、顔が赤を通り越して紫だ。心なしか目が潤んでいる。

「なんだよそれ。吐き出すならここで全部吐き出して、仕事には持ち込むなよ。」やはり平塚はおかしい。

「ああ、分かってるよ。それとな桜の花言葉の一つは、精神の美だ。」平塚は再び堀の方に戻っていった。しばらく平塚の泣く声が聞こえていたが、それも真っ黒い公用車のざわめきにかき消された。見上げると日が少し傾いている。さすがに社に戻らなければいけない。平塚を呼ぶために振り返る。

「平塚?」

俺の背後に平塚の姿はなかった。マガモがちゃぷり、と音を立てて潜水するのが見えた。


 あの日の午後2時新元号が内閣官房長官によって発表された。同じ出版社の中でも編集部は翌日になっても死ぬほど忙しそうだが、俺たち広報部にその波は届いていない。ただ平塚の件で、部内でまともに口を開くものはいない。最後まで平塚の傍にいた自分でさえまるで信じられない。平塚は平成と心中でもしたというのだろうか、それも桜田門で。この事故はまだ公に発表されてはいないようだが、皇居内での自殺だ。そのうちにマスコミが紅白の社内広告を作ることだろう。平塚ならばそんなことは意に介さないだろうが、それよりも平塚はなぜ死んだのか。俺にはまったく分からない。不幸な事故なのか、あるいは無謀な自殺だろうか。平塚がやるはずだった分も合わせて二人分の作業を進めていく。対外用の資料に元号の誤植がないか探すのだ。こうも日がな一日見ていると、平成という時代ははるか彼方のように感じられる。

少し休憩を入れようと、部内のテレビを付けると「平成ロス」のテキストが飛び込んできた。「平成ロス」。我々は元号の変化で何か失ったのだろうか。画面の奥で、主婦が、サラリーマンが、高校生が控えめに喋る。

「あまり実感がないです」

そう、何もかも実感がない。高校で、実体験が最も確かだという思想を習った。ただこの場合は全くの役立たずである。ネクタイを緩めて、缶コーヒーの栓を開けた。胃の中に甘ったるい匂いが流れ込んでくる。新元号についての話題がやっと落ち着いてくる中、無視できない言葉が耳に入った。全国で自殺者が頻出したという。もう訳が分からない。課長に早退を告げて、背中に課長の怒声を感じながらネットカフェへ走る。一刻も早くこの謎を究明しないと気が狂いそうだ。狭苦しいネットカフェの受付で5時間パックを頼んで伝票を受け取る。さあ、5時間なんてあっという間だ。ブースに入り起動したウィンドウズの音がやけに優し気に聞こえた。

 「あのお客様、もう延長四回目ですけど」

店員の声が後ろから聞こえた。ドアを開けて、問題ないと答える。結局ここ最近のものだけではなく、戦後以降の自殺について嫌というほど調べた。SNSや難解な掲示板のスレッドも見尽くすほどだし、オープンになっている論文の要旨は浴びるほど読み漁った。それなのに、ない。平塚はなぜ死んだのか、年号が変わり目で自殺者が出るという統計もなく、漱石の『こころ』がしつこく検索エンジンの網に引っかかって目詰まりを起こしたくらいだった。もう体が限界に近い。ろくに水も飲まなかったせいで、足が磁石に引っ張られているように重い。のろのろと立ちあがり、PCの電源を落とす。受付で膨れ上がった料金を払い、店を後にする。外に出ると、顔を赤くして大声で笑うスーツの男たちが濁流のように新橋に流れ込んでいた。その臭気に耐えられず、気づいたら走り出していた。次々襲ってくる吐き気の波をやり過ごしながら走ると、いつの間にか千鳥ヶ淵まで来ていた。視界が滲んで、変に明るかった。地面が白く光りを反射しているのだ。下を向いた拍子に胃から、胃液だけが流れ出した。足に力が入らず地面に倒れこむ。空は満開の桜で溢れていた。小さな花弁の群れは、すべてを受け入れてくれるように見えた。

「お前、死ぬの一週間早いよ」

おかしくなって笑ってしまう。桜田門で死ぬなら桜の下で死ねよ、平塚。桜の花言葉が精神の美だと教えてくれたのは平塚なのに。ゆっくり立ち上がると、桜の間から国会議事堂が見えた。ライトアップされた石造りはジオラマのような色彩だ。またおかしくなって笑ってしまう。もう帰ろう。明日は今日の分を取り戻さなければならない。

半蔵門線のホームに紫のラインが入った電車が滑り込んでくる。そこでホームと線路との距離が以外にも近いことに気づく。あくまで無意識に、体がふらついた。

「危ないですから近づかないでください!」

駅員に怒鳴られる。でも問題ない。俺の体はホームドアに、安全に絶対的に受け止められているから。車両に乗り込んで、ドア横の手すりに掴まる。ふと平塚の最期の言葉を思い出してスマートフォンを取り出し、桜の花言葉を調べる。一つは平塚の言っていた通り、「精神の美」。そしてもう一つは

「優秀な教育、か。」

くすり、と漏れた俺の笑い声はもはや誰にも聞こえない。

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線の内側 さかなへんにかみ @sakanahen

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