不義の領域。
もちもん
ファイルの下の不確かで確かなモノ。
「江崎課長、これ資料ファイルです。」
「ああ、ありがとう。」
この会話、この仕草、この行為。
いつもと変わらない。
変わらない。
変わってはいけない。
「江崎課長、お電話入ってます。回しますね。」
「ああ、八木主任ありがとう」
同じフロア内にある総務課デスクから、経理課デスクへ電話をつないだ。
今日はいつもと違う青いスーツ。
紺ベースに赤とグレーのストライプのネクタイ。
経理課長、江崎シン34歳。
スタイリッシュなスーツの着こなし。
フレームのないメガネを通してPC画面を睨む厳しい視線。
受話器を肩に挟んで、喋りながらふと見せる笑顔。
あぁ、今日も目の保養。素敵すぎる。
自分のPCを見るふりして、机の上に積み重なった資料の間から経理課デスクの江崎課長を見つめている私。
ダメ。ダメ。
江崎課長は既婚者なんだから!
自分に言い聞かせては、周りに気づかれない程度の小さなため息をつく。
総務課主任八木ミホ、30歳。
実ることのない片思いを拗らせて、2年がすぎた。
相手は結婚3年目の既婚者。
2年前は私も経理課で、江崎課長の直属の部下だった。仕事のできる、頼れる上司への憧れは次第に恋心へと変わっていった。
仕事以上の関係を
望んではいけない。
望んではいけない…。
わかっている。
わかっているけど…。
気づいたらついつい目で追っている自分がいる。
理性に抗ってしまうのが恋である。
「八木主任、専務からメール来てましたけど見ました?これって今日中にってことですよね?」
「へ?あ、ごめん今確認するね。」
隣のデスクの部下に声をかけられ、はっと我に帰る。
…何やってんだ、仕事仕事。
2年もひっそりと拗らせてきた好きと言う感情は、最近また一段と膨潤した気がする。
昔ほど周到に隠しきれている自信がない。
それでも
漏れ出さないように。
気づかれないように。
それ以上は望まないように。
言い聞かせてはため息をこぼす。
「あー課長。今日も愛妻弁当!」
「相変わらずラブラブですね!」
「そうだよ。まぁたまには身体に悪いものを食べたくなったりもしちゃうんだけど」
「照れちゃって〜。それ、惚気にしか聞こえませんよ!」
デスクから見える江崎課長は今日も愛妻弁当をひろげている。
部下や同僚に冷やかされている、手の込んだお弁当。
見たくない。
だって見てしまうと、江崎課長の不幸を望んでいる気がして。
そんな自分が嫌だから。
朝コンビニで買ってきたサンドイッチを開けて一口食べる。
食堂に行かないのは、いつも江崎課長がデスクでお昼を済ますからだ。
お昼の時間も仕事している人がいるので、デスクでお昼を済ませる社員は少なくない。
私の思惑など江崎課長は全く気づいてないだろうけど…。
デスクでランチをすませるほど江崎課長を意識していながら、毎日の愛妻弁当を見ては胸が痛くなる。
なんで私は、よりにもよって既婚者を好きになってしまったんだろうか。
「はあ。」
ため息。
ふとPCのメールが届く音がする。
「?」
『From 江崎
そんなに見てもあげないよ?』
「!?」
私を見て、いたずらな笑顔でお箸を持った手を振っている。
『From 八木
いりませんよ!』
やば、心臓やば。
まさかの社内メール。しかもこの距離で。
こんな些細ないたずらまがいのやりとりが私の想いを助長させる。
『From江崎
今日みんなで飲みに行かない?』
!?
は!?え!?
うっそ!!
これってこれってお誘い!?
どうしよう、どうしよう。
返信する前にもう一通のメール。
『From江崎
ごめん、やっぱ今日ダメだった。残業決定。』
…。
ですよね。
現実はそんな甘くない。
『From八木
また今度誘ってください。』
『From江崎
そうするね。今日スーツいつもと違うね。』
『From八木
課長こそ。』
『From江崎
そう、昨日飲んで、帰ってくる途中にジャケットどっかに落としてきちゃって。よく見てるね。』
やめてくれ。これ以上私の気持ちをかき乱さないでくれ。
ドキドキする…。
これはちょっと…いやかなり…。
ずるすぎる…!
江崎課長じつは私の気持ちに気づいてるーーー?
総務課である私の仕事は、経理課江崎課長へ報告資料のファイルを渡すことから始まる。
「おはようございます。これお願いします。」
「ああ、八木主任おはよう。」
一瞬目を合わせてニコッと笑いながらPCへ向き直り目を合わせずに、左手でファイルを受け取る江崎課長。
それはいつもと変わらない江崎課長のファイルの受け取り方。
「?」
それは小さな、それはそれは小さな…。
ーーー変易?
ファイルの下。
右手の人差し指に少しだけ。
江崎課長の左手の人差し指が触れた。
それは、
やわらかな風が吹き抜けたくらい、
小さな、
小さな揺らぎ。
次の日の朝。
風を待つ心を隠しながら、
今日もまたファイルを渡しに行く。
「江崎課長、お願いします。」
「ああ八木主任ありがとう。」
そう言って振り返って挨拶し、PCに向き直りながら左手で受け取る江崎課長。
「!?」
お互いの人差し指がまた触れる。
ーーーこれは本当に偶然なのだろうか。
まさか煽り?
江崎課長は今日も愛妻弁当を広げている。
私は今日もコンビニで買ったパンを食べる。
『From江崎
今日はパンツスーツ?』
『From八木
ケチャップ落としてクリーニング行きです。』
PC画面を見ている江崎課長の肩が震えている。
笑っているようだ。
『From江崎
八木さんて、仕事の鬼みたいだけどそういうヘマもしちゃうんだね。ケチャップって何食べたの?』
『From八木
人間です!』
ゴフッッ!
ゲホゲホ。
江崎課長が焦ってお茶を飲んでいる。
『From八木
大丈夫ですか?笑うとこでした?』
『From江崎
人間食べたの!?』
…あ!
あー!!
私鬼じゃない。って言う弁解のことだけを送っていて、何食べたかの質問の返信を忘れていた。
そりゃ笑うわな。
それじゃあ本当に鬼じゃないか。
『From八木
食べないですよ!オムライスです!!』
『From江崎
やばいわ。八木さん!ツボった。』
PCで顔は見えないが、江崎課長の肩が震えている。
そりゃぁ、笑いのツボにハマるでしょうね…。
こんな至近距離での、メールのやり取り。
こそばゆい感覚に、私は心が震えている。
抑えが効かなくなるまえに、やめなければ。
次の日。
「おはようございます、これお願いします。」
「おはよう八木主任。」
目を合わせずにいつものように受け取る江崎課長。
私は試すかのように、
ファイルの下の人差し指を少し浮かせてみた。
昨日よりも少しだけ長く、江崎課長の指が触れる。
江崎課長は目を合わせない。
私は気づいた。
これは。
これは、態とだと言うこと。
「おはようございます、これお願いします。」
「おはよう、八木主任。」
今日は江崎課長がこちらを見ながら受けとる。
私は自然を装って目合わせない。
お互いの人差し指は
引き寄せあうかのように
何かを確かめ合うかのように
一瞬だけ絡まる。
そして何事もなかったかのように
次の日も。
次の日も。
人差し指はファイルの下で絡み合い、解ける。
それはすれ違うかのような一瞬。
お互いの視線は、交わることはない。
やわらかい風が吹き抜けるように自然に
私はファイルから手を離す。
自然で。
不自然な行為。
不確かで。
確かなゲーム。
目を合わせてはいけない。
目が合えばお互い落ちる。
絶対に落ちてはいけない。
落ちたら溺れるゲーム。
ルールは単純。
指だけで、確かめ合うこと。
指以外で、確かめ合ってはいけないこと。
それ以上を超えたら落ちる。
落ちたら溺れる。
このゲームで落ちたら
ファイルで隠れる領域を超えたら
そこはもう不義の領域。
不義の領域。 もちもん @achimonchan
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