アマテラス
@kikimimi
第1話 雑踏
琥珀色に染まる満月がゆっくりと山尾根に登り始めると、その大集落の中心にそびえたつ神殿の壇上から一人の巫女が、大勢の民の前にその姿をあらわした。
白い顔に頬紅がうっすらとついている。
長いつややかな黒髪は、一筋に結ばれて腰に達している。
その額には、常緑樹の小枝と純金で作られた冠がひかり、白と水色の縁取りのある羽織に朱色のお帯を付けた姿は、太古の女神を思わせる。
光輝く姿は神々しさ漂っている。すると何処からともなく人々の声が湧きあがってきた。
「われら、奇跡の王とともにあり。われらが王国は不滅。今日も奇跡を賜らん」
大合唱ともいうような大きな声の渦がこだまのように周囲を振るわせる。
そしてそれを制するかのようなズーンという下腹に響くような銅鑼が2回階響いた。すると何が始まるのか突然、彼女の前に重病人とおぼしき中年の男が手足を掴まれた形で運ばれてきた。
金銀を身にまとっている。身分のあるものらしい。
その男のまわりには、もえぎ色の着物を付けた一団の従者が付きしたがっている。
ただ男は、ぜんそく患者のように「ヒューヒュー」と胸のあたりから音をもらしている。肩で息をしており、呼吸も荒く顔色も土気色だ。意識はすでにないようだ。かなり重症な様子だ。
側近の男が巫女の前に膝まづくと必死の表情で願いを告げた。
「我が主、猿田彦様は、数々の薬師にも診せましたが、回復の兆しなく、病は一層に悪くなるばかり。もはや一刻の猶予もなくあなた様のお力にすがるほかございません。何とぞ主人を御救いくだされ。」
巫女は、その病人の手をとって、暫く黙って見つめると、高く響く声で告げた。
「この者は、心の臓が弱っていることが病の源。心の臓が弱っておるところから血の流れが悪くなり肺に血がたまっているようじゃ。されば、心の臓をもとに戻せばすべてよくなる。」
巫女は、啓示を終えるや否や即座にそのものの左胸のあたりに両手をかざした。
その瞬間だった。バッチと音がした。
確かに何か淡く青い光が出たような感じだ。
すると病人は、「うーん」と苦しそうな息を吐いて胸のあたりをかきむしるような仕草をみせた。
苦しみもがいているのだが反対に次第次第に顔に赤みが射している。
呼吸も少しずつゆっくりと、大きくなってきた。やがて意識を回復したのか、うっすらと目を開けた。
心臓マッサージをしたというものではない。病気そのものを瞬間的に治療したようにみえる。周囲から大きな歓声があがった。銅鑼の音が今度は大きく1回響いた。
巫女の儀式は、終わったらしい。
人々の巫女への崇拝がうねりのように高まっていくのがわかる。まさにその中、巫女は宮殿のなかに消えた。
巫女は、奥の部屋で心を鎮めるように神獣の刻まれる銅鏡に一人祈っている。
鏡に映ったその顔は、目に特徴があった。
大きな目は、何も世の不浄に犯されていないように黒く澄みきっている。
白目は、あくまでも白く黒目はあくまで黒くまるで幼児の瞳を見ているようだ。
ただ一つ幼児の瞳と違うのは、一度その瞳を見た相手が視線を外すのを拒まざるを得えないほどの強力な意思を感じさせるパワーを発している点である。
しかしそれは、決して威圧的というのではない、-慈愛に満ちて見るものを強く惹きつける感じがする。しかし、あの手から出た青い光は、一体何だったのか。神の力か、それとも超能力なのか。
突然目の前にベールが降りてきた。心地よく意識がゆらぐ景色がぼやけた。
しばらく無意識の波間をただよった後、マヤは、また、いつもの幻想に浸っている自分に気がついた。この夢は、子供のころから何度も見ている。
ただ、色つきのイメージは、夢にしてはいつも妙なリアルさを持っている。
たいまつの燃えるにおい、周囲の山や平原から発せられる宮殿をぬけていく林の風までがはっきりと意識に残っている。
フロイトの説く「夢は、その人の性的願望をあらわす」という説は、心理学の古典である。これがどこまで真実なのかはわからないが、夢は、現実逃避や理想への願望などの深層意識が何らかの形に実態化されたものであるというのは説明されることが多い。
すると自分は、あのような巫女のような絶対的な守護者になりたいとひそかに思っていることになる。いやそれとも巫女に救ってほしいと望んでいることになるのだろうか。
ここまでベッドの中で考えていたとき、一気に眠りから覚めた。時計は、8時50分を指している。また悪いくせが出た。完全に朝寝坊してしまっている。
9時までには、新橋の職場に行かねばならないのに遅刻決定だ。
飛び起きてしたくをすませると東戸塚駅から横須賀線にのった。
今日は、東京での初仕事の日なのだ。
一条マヤ、職業:整体師、京都の治療院で勤めていたのだが、事情あって東京にきたのである。
シルバーの車体にブルーの線が走る列車にホームから滑りこんだ。ラッシュで車内は、相当なすし詰め状態となっている。
京都にいたときも混雑は経験していたが、ここまで身動きがとれないほどの息苦しさは覚えがなかった。
しかし少し背が高い彼女は、幸い周囲からポッカリ頭を浮き上がせるような感じで何とか息ができている。
周囲の人間が発する炭酸ガスが満ちるこの車内で30分以上酸欠に近い状態でいるかと思うと憂鬱な気分になった。
横浜駅に止まると乗客がさらに乗り込んできた。
そのときである、自分の腰のあたりを他人の手がなでますのを感じた。
こういう体験は、初めてではない。
しかし、マヤは先ほどからの不快感が増幅していくのを抑えきれず、思わずうなってしまった。
マヤは、短く舌打ちすると、即座に自分に触れている手を斜め下に見た。
そしてそのいまいましい手の親指の真下にある舟状骨とよばれる大きな骨をプロの整体師としての適度な握力で痛めつけた。
相当痛いはずだ。
ただそれだけにこの骨は、ちょっとした衝撃でも折れてしまうことがある。
やりすぎてしまうと過剰防衛になるので注意が必要だ。
背中のほうで一瞬押し殺した悲鳴にもつかぬ溜息がもれるのを感じた。
そのまま振り返ると相手を確認した。
大学生か予備校生くらいだ。
自分と同年齢にみえるその男は、思いもかけぬ展開に恐怖に満ちた表情で伏し目がちにこちらを向いていた。
「これって、現行犯だよ。この手、携帯で写してもいいんだけど。」
「すいません。どうかしていました。申し訳ありません。」
男は、そう言うと完全にあきらめた感じで放心状態のような表情をしている。
マヤの態度があまりに毅然としているので、もしかすると婦人警官とでも思ったのだろう。
過去の経験からすると、大抵の場合、勘違いだとか、狭い電車内で手が触れてしまったとか、目をむいて言い逃れしようとする卑怯な男が多い。
そういう反応を予想していたのだが、相手が意外にも完全に罪を認めている姿を見て、マヤは、拍子抜けした気分になった。
この男の情けないまでに屈服した態度をみて、テンションが下がってしまった。
正直、こういう馬鹿なヤツにかかずらわって、初仕事から遅刻するのがばかばかしい。マヤは、次の展開を好奇の目で見つめている周囲の乗客たちを意識すると、目配せして耳元で囁いた。
「素直に認めたから、多め目にみてやるよ。次の駅で消えちゃってくれる。」
男は、瞬間、信じられないといった顔で口を開けたが、安堵の表情を浮かべて沈黙すると、次の停車駅で小走りでホームの雑踏へ逃げた。
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