2018年4月6日 鼓狐

一日一作@ととり

第1話

カンと鼓が鳴った。舞手はすっと身体を前に出す、そのまま舞台を一周し、ポンと飛んだ。ふわりと着地したとき、そこには人の姿はなかった。化け物だ、化け物が現れ、世の儚さをなげいた。


舞が終わると、幽玄な世界がしみじみと晴れていった。濃い霧が晴れていくように、古い世界が消滅していき、現世が立ち返ってくる。次郎は呆けたようにそこに座っていた。


すごいものをみた。という感覚だけがはっきりとあった。次郎は小銭を握りしめ、舞台の裏に回った。次郎は近所に住む小作人の子どもだ。秋祭りに兄貴にくっついて神社まで来た。そこで旅芸人の能をたまたま見たのだ。舞台の裏は大勢の人間が、働いている。次郎は舞手を探した、見つけてどうするつもりもないが、ただ、生きている人間なのか知りたかった。


舞台に近いところで、仮面を外し、箱に入れている後姿を見つけた。あそこだ。次郎は人込みにまぎれて近づいた。きらびやかな衣装を着けた、舞手。斜め後ろからそっと見ると、切れ長の瞳が次郎の姿に気づいた。


不思議そうに次郎を見つめるその舞手は、次郎と年齢はそう変わらない少年だった。だけど彼のその真っ黒い目で見られると次郎は、急に声を出せなくなった。


「秋祭りにはつづみきつねが出て子どもをさらう。つづみきつねはこどもを舞手に仕立てて、さすらいながら舞い踊る」


「次郎、舞手になりたいか?」その真っ黒い目の少年は次郎に問うた。次郎は両親の顔を思い浮かべた、怖い兄貴の顔も浮かんだ。ここから離れたくない。次郎は首を振る。


真黑い目の少年は次郎の手を掴んでそっと、舞台のほうに歩いた。舞台のそでから次郎を外に逃がす。「早く出口を見つけて家に帰りなさい」「音を立てずに走りなさい」真黑い目の少年の手をすり抜けて次郎は走った。周りに人影はない、あれだけ居た人がどこにもいない。風がざわざわと木を揺らす。下駄が石に当たってコンと鳴った。遠くで狐がコンと鳴いた。


(2018年4月6日 了)

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