第2話 結婚?
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杏は部屋に帰ると医官を呼びつけて虎の手当を命じた。
そして水を与え、鶏を締めさせた。しかし虎は、水は飲んでも肉を食べない。翌日も同じだった。
「公主さま、お願いでございます。どうか虎は外でお飼いください」
「こんなに弱っているのだから、可哀想じゃない。襲ったりしないわ」
宮女たちは虎の出現に困惑し、檻で飼うよう懇願したが、杏は頑なに自分の宮殿内で一緒に過ごすことにこだわった。朱色の柱に鎖で繋ぎ、綿入りの敷物を床に敷いてやった。贅沢すぎると、暗に諭されても、杏にはどうもこの気高い虎にはこの方が適していると感じて譲らず、部屋の隅に彼の住処を与えた。たぶん皆が口うるさくさえしなければ、繋がれた鎖も取ってやっていただろう。
「ごめんね、自由がなくて」
杏は床に座り込んで虎に謝った。それなりに宮女たちにも気遣いをしなければならない。
「触ってもいい?」
いいとも悪いとも言わない瞳が、杏に向けられる。それを勝手に肯定と取った彼女は、それでも多少の恐れを抱きながら震える指先をその
「怒らない?」
虎は眼を伏せた。杏はゆっくりと撫でた。虎は怒らなかった。動けないという理由だけではなく、純粋に杏を受け入れたように見えた。安心した杏は彼を労りながら撫でてやる。
「早く良くなって」
それを見ていた宮女の誰かが、この虎は野生のものではなく、誰かに飼われていたものではないかと言い出した。彼女は虎の出る
「なら、妖戎国の公族が飼っていたのかもね」
「きっとそうでございます」
皆がそれに肩を撫でおろした。それでこの虎にも宮殿に住まう権利が与えられ、少し人との心の距離が縮まった。
「名前は何になさいますか」
「じゃ、白虎」
「白くありませんよ」
「え、じゃ、じゃ、うーん。王偏を取って虎珀(こはく)は?」
「いいご趣味です。琥珀とかけているのですね」
杏は自分の命名に満足した。虎も文句をいう様子もない。
「虎珀、元気になって」
杏はもう一度、彼の頭を撫でてやった。
「鶏ではなくて羊だったら食べるかも」
「羊は祭祀や宴の際に出されるもの。無駄な贅沢は王家の台所事情では無理でございます」
「そう……。じゃ、叔父上に聞いてみる!」
「そうなさいませ。さきほど、信公から使者が参りました。梅山閣でお待ちしていると」
「宴はやらないの? 戦にせっかく勝ったのに」
「王の具合が悪いので、信公の方からご辞退があったと聞きました」
「そう……」
晴れ着を着ようと思っていたところを、ついてない。しかし、こうなることは予想していたから、杏はそうそうに頭を切り替えて、長い
「公主さま! お待ちを!」
宮女たちの泣きそうな声だけが、彼女を追いかけてきた。
「叔父上!」
朱色の高楼は武翔が新たに庭に建てさせたものだ。池のほとりにあり、優雅な王朝趣味の朱色の二階建てである。杏が何気なく『高楼があればいいのに』と言ったその一言で、莫大な金が動いて建設された。
普段はだから、杏ぐらいしか使う者はない贅沢な建物だった。
今は主人が客を待っているからか、四方を紫の羅の帳が張られ、それが風を含んで時折大きく膨らみながら、揺れていた。
「叔父上!」
もう一度呼ぶと、欄干に腕を持たれた武翔が、帳の間から彼女にちょっと手を上げる。髭も剃り、武具をまとわず、絹の濃紺の衣を纏って冠を被れば、彼は誰よりも中原の貴公子に見える。杏としてはこれが本来の武翔で、楽と詩、そして少しばかりの酒を愛する人だった。
少女はそのまま階段を駆け上がった。青の敷物に藍の肘置き、茶や南方から来た高価な砂糖菓子が並べられている。すでに武翔はそこに寝転がりながら、青銅の
「宴はやらないの?」
「ああ、王が病だからな」
「でもせっかく戦に勝ったのに」
「正直いえば、面倒だ。好きでもない奴らと酒を飲んで、つまらない冗談と阿諛を聞き、酔った俺の臣下たちの誇張した武勇伝に頷くのは耐えられない」
「ふーん」
やや不満そうに杏は座ると無造作に置いてあった武翔の琵琶を取って、へたくそな音を奏でだした。
「どうしたらそんな音が出るんだ」
詩も楽も学問も、そしてもちろん武芸も一通りこなす武翔は、我慢できなくなって、少女の体を抱き寄せると、後ろから指を当ててやる。どうやら手が小さく、届かないらしい。『この音はこうで、この音はこう』と教えてやれば、半時と経たずになんとか聞くに堪えられるものになった。
「疲れた」
「これぐらいで疲れるなんて」
「俺は昨日、戦から帰って来たばかりなんだ」
武翔はそういうとそのまま杏を押し倒して、彼の肘にその頭を乗せさせた。数日前は、人を斬りまくりそのせいで筋肉痛に苦しんでいた腕が、今は少女の枕になっている。
杏は別に拒否する様子もなく、帳が揺れて時折みせる青空に手を翳していた。白鳥が、大空で孤独に耐えているように漂っている。
「王にお前との結婚の許しを乞おうと思っている」
「結婚? 叔父と姪なのに?!」
驚いたように杏は身を上げた。
「俺たちに血の繋がりはない。知っているだろ? 俺は昔、信国の跡取り問題で王家に人質という名目で預けられたから、王の好意で義弟分扱いを受けているだけだ」
「でも叔父上と結婚って変な感じなんだけど……」
「じゃ、もう叔父上と呼ぶな」
「叔父上を叔父上じゃなきゃ、なんて呼べばいいの?
大きな瞳が寝返りを打って武翔に向けられた。真っ直ぐで純真な瞳。それは武翔がとうに失ってしまったものだった。三人の兄弟を殺して信公の身分を得た十代前半にだったのか、戦に明け暮れて人の喉を搔切り、血飛沫を浴びるのも平気になった十代後半からだったのか良く分からないが、彼女の瞳に映されるのは、偽りのない自分自身だった。
「武翔と呼べばいい」
「武翔叔父上?」
「いや、武翔だ」
「武翔さま? 字を呼ぶの? なんだか変な感じ。お父さまに怒られそう」
「俺がいいって言っているんだ。なぜ王が叱る?」
そう言うと、武翔は杏を抱き寄せた。
まだ手折るには早い咲きかけの花。彼は野心家ではあるが、倒錯した趣味があるわけでもなければ、風流を解さない男でもなかった。花は盛りに愛で、そして手折るのがいい。
「で? どうしたいんだ。他に好きな男でもいるのか。いるのなら、早く言え、
「また叔父上は殺すことばっか」
「叔父上、言うな。背徳感を感じる」
「妻かぁ。そうだね、いいよ。彩国に行かされるよりましだし」
「彩国?」
「うん。なんか義母上が彩国と縁組させたいらしくって。父上に訴えているって噂」
「……」
武翔は考え込んだ。
幼い太子の母は彩国出身だ。杏と武翔が婚姻したら、幼王の後見人は自動的に信国の武翔になるだろう。それがもし、彩妃の思惑通り、彩国に嫁いだら? 武翔は腹を立てた。
なにしろ、彼は、杏はもうとっくに自分のものだと思っていた。彼女の教育方針も着る物から部屋の調度に至るまで彼が面倒をみていた。没落気味の王家の財源では叶わない公主としての対面を整えたのは彼だった。どうやって? と聞かれれば、戦に出て敗戦国から奪ってくるという原始的であり、犠牲の多い方法でである。
「彩国などには行かせない。信国にはもう杏のための宮殿も立ててあるんだ」
「そうだね、じゃ、おじう、じゃなかった武翔の妻でいいよ。なんだか変だけど、そうなってもいいかな」
腕の中で大切な婚礼という事項をどうでもよさそうに言った杏の額に、武翔は唇を寄せた。少女の物言いが照れ隠しなのは分かっていた。そして、彼は、杏が男女のことを何も知らないことが心配になってきた。おくびにも閨のことを話すな、それは彼が命じたことだ。公主とは貞淑でなければならないという勝手な彼の思い込みでなされたこの指示は、徹底して行われた。あらゆる有害な書物は排除され、神の時代を描いた神書である神礼書でさえ、彼は不敬にも多くの箇所を削除した。
もちろん、男女のことだけではない。政治に関することも武翔は大変気を使った。信国は何度も王家を乗っ取り、領地を奪った。そういう記述も削られる対象だった。
――びっくりするだろうな……。
早熟だった武翔は多く女を抱いても、杏のような気を使わなければならない女を相手にしたことが未だにない。
――ま、いいさ。俺が教えてやれば。
眠気に耐えられなくなった杏の寝息に、そう武翔は結論付けた。どうせ結婚を許されても、婚礼に付随した長い儀式の日々が始まるし、武翔は、あと少なくとも三年は杏の成長を待ってやるつもりだったのだから、今すぐ頭を悩ませる問題でもなかった。
愛おしくて、武翔は杏の身体の線をなぞった。しっかりした曲線が大河のように描かれている。
「杏、早く大人になって追いかけて来い」
肢体に触れてもそれほど俗な気分にはならなかったので、無意識に抑制しているのかもしれないなと彼は睡魔と共に思った。それでも、眠っている杏の手を自分の躰に乗せてみた。躰は動悸したが、心は落ち着いた。ぬくもりが温かく、戦で疲れ果てた心を彼女が癒やしてくれ、武翔は愛しさを感じる。
そして現と夢のまにまに武翔は過去の残像を見た。
笑い合う声。
木漏れ日の斜光。
子供がその下を振り返りながら駆けていく。
『こっちよ!』
武翔は衣の端を掴もうとして、取り逃がして、声の主にくすぐられる。
それは幸せの日々。その後、過酷な信国の権力争い巻き込まれ、預けられていた良国から帰国した後は笑わぬ子供だと評された。
武翔はもう少し、あの頃の夢が見たくて手繰り寄せようとした。もう少し、もう少しだけ、と――。あの純真を感じていたかった。
それなのに、続きは赤と黒の世界だった。
男の左胸を一突きにして、生ぬるい血が顔を覆って、もう一度耳を澄ましてみたが、やはり聞こえない
人が石ころようで、軍旗が濤のようで、斬り落とした首のない屍骸を跨いで、自分も何かを叫んでいた。しかし、それも聞こえないし、誰にも届かない。
そしてまた三人の敵を斬り倒す。無感情な自分。どこか現実でない光景。『杏』と彼の失った過去の欠片を呼んでみる。『叔父上』とやっと声が聞こえた。
夢とはいつもそういうものだった。
蓄積された残酷な記憶は、幸せと悲しみで交互に彼をいたぶり、幻想は現実を浸食してその垣根を縮めて苦しめる。眠りは決して底には落ちることがなく、浮遊し続ける。
「杏……」
目を覚ましてしまった武翔は、杏が穏やかに眠っていることに安心した。風は優しく、どこからか花の香りがして、池に飛来した旅鳥が、愛を歌っていた。彼女が安らかに何の不安も抱かずに自分の腕に抱かれている、そのことに武翔は心から安堵した。
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