麗王記

微雨

第1章 覇者の帰還 第1話 虎

 麗王記 

  1章


 真国、外廷朱雀門、五月――。

 少女の紅の羅衣うすごろもの袖が翻ったかと思うと、息を切らした少女が暗い正殿の宮門前に立った。

「早く! 早く!」

 追ってくる宮女たちに手招きをして、少女は急かせた。が、待ってやるつもりはなく、腰を押えて苦しむ宮女たちを残して、一人、光の差し込む門の中へと走り入る。

「お待ちくださいませ……公主さま」

 誰かの嘆きは聞こえて来たが、彼女はもう振り返りもしなかった。

 ――急がないと!

 そして暗闇から光の穴を抜けると、視界がぱっと開いた。

 髪を留めていた紐を逆風がくうにさらい、少女、子杏しあんの黒髪が蒼天に舞った。しかし、杏はそんなことには気を留めずに散らばる髪を耳に挟むと目を凝らしていた。

 そして彼女は眼前の正殿の荘厳さに足を止める。黒い柱に日に眩しい甍、長い階段、霊獣の銅像。杏は興奮から堪えるともう一度、凝然と見やった。風がなびく度に、前髪が揺れて広い額が覗き、金の鳳凰の耳飾りが、少女の横顔を縁どって燦めいた。しかし、杏はまだ少女から女性へと脱皮しきれぬサナギでしかなく、現に門に警備の武官の多くが、『あの小さかった公主さまが、ずいぶんお綺麗になられたなぁ』と父や兄のような境地で彼女を見守っていた。

「公主さま、あれをごらんください」

 やっと追いついた宮女の指差す方に妖の国である妖戎国ようじゅうこくを滅ぼし凱旋した鎧の信公、武翔の姿が石階段の前にあった。これから朝議で復命に上がるのだろう。

「叔父上!」

 袖を振って迎えれば相手はこちらを見、杏だと気づくと兜を脱いで微笑んだ。

 すると杏は周囲が止めるのも聞かずに、信公を挨拶しようと集まった王臣たちを押しのけて、彼の前と走っていく。妖を退治するなど、杏にしたら奇跡のようなことである。

「叔父上! お帰りなさいませ!」

日に焼けた紅の鎧姿の男が驚いたように満面の笑みで迎えた彼女に言った。

「杏、大人しく居所で待っていなければダメだろ」

 叔父と呼ぶには若すぎる二十代初めの信国公、嬴武翔えいぶしょう。彼は戦場いくさばで鍛えた腕力で子供の頃からそうするように脇に手をいれて杏を軽々とすいっと持ち上げた。そしてそっと宝物のように杏を地面に下ろし、眩しそうに見上げる杏の頭を撫でて、袖から彼女が欲しがっていた瑠璃の簪を取り出した。

「どうして瑠璃の簪が欲しかったって分かったのですか?!」

「杏のことなら何でも知っているからさ」

 杏は貰った簪を光に翳してみた。

 青い石は世界のようだった。蒼い空の中心に置いても決して溶けてなくなってしまわない色をしている。黒い汚れが、血であったことにも杏は気付かずに衣で拭って、戦で髭を剃っていない叔父に『ありがとございます』とほほ笑んだ。

「ところで、杏。王の姿が見えないようだけど?」

 武翔の声には、無力な王に代わって出陣したのだから玉座から下り宮殿から出てくるほどの気遣いがあってしかるべきだとという不満と、いつもは両手を広げてにこやかに笑顔を見せる親しい間柄の王がここにいないことへの不審が感じられたが、杏の眉はわずかに翳りを作った。

「父上はずっと伏せっているのです」

「ずっと?」

「もう一月も。寝付いて起きられる状況ではないんです」

「……」

 武翔は考え込んだように顎に指を当てた。

「杏は幾つだったか」

「もうすぐ十二です」

「十二か……。あと二、三年ぐらいは待つつもりだったが」

 杏はきょとんと武翔を見上げた。

「王に早めにお願いしておくに越したことはないな」

 独り言ちした武翔が、もう一度、杏の頭を撫でた。

「さぁ」

 百官が正殿の前で鎧姿の武翔を出迎え、口々に『大勝をお祝い申し上げます』とまるで、彼の臣下のように言祝いだ。それは一種の儀式のようなもので、退屈な杏は正殿に馬で乗り入れることを許されている劉武とその将の馬がいるのを見て回ることにした。

「叔父上の馬は?」

 杏は武翔の愛馬である春駿の姿が見えないのを目敏く見つけると、劉武の部下の一人に尋ねた。

「矢に当たったのです……」

「もしかして怪我をしたの? どこ? どこにいるの?」

「それが……」

「死んでしまったってこと?」

 息を飲んだ杏に申し訳なさそうに武官は頭を下げた。

 杏は初めて戦で悲しみというもの感じた。勝ち戦の華やかさばかりが目について、多くを失って得たのが、今日という日だということを今知ったのだった。

 しかも、もっと彼女が気を付けてあたりを見れば、馬だけでなく見慣れた顔ぶれも欠けているのに気付くはずだった。しかし、それは杏が尋ねたところで誰も答えはしない。武翔が、杏を悲しませたくなくて『信国に先に帰国させた』と言って誤魔化すだろうからだ。

「お前は無事だったのね」

 武翔の将の一人の青馬の長い鼻を撫でてやりながら、その瞳が見て来た悲しい惨状を感じて杏は抱きしめてやった。

「お帰り」

 馬が杏の耳をくすぐった。

「お帰り、戻って来てくれてありがとう。待っていたの、ずっと待っていたよ」

 力一杯抱きしめてやって、もう一度

「無事でよかった」と囁いた。

 じんと広がった感傷が、あたりに染みて、それを横で聞いていた馬の主が、まるで自分が待っていてもらったかのように目頭を熱くした。杏は強く馬を抱きしめてやった。甘えるように、鼻を顔にくっつけていた青馬は、黄塵の憂いを無言で杏に聞いてもらおうとしていたが、なぜか急に気配を変えた。耳をそばだてて、そわそわと脚を動かす。

 杏は、それで自分が誰かに見つめられているのを感じた。竹の柵の付いた荷車が後にあり、柵の間から、白蝶が魂のように羽ばたくと、蒼天に消えていく。残っていたのは、抜け殻のように横たわる一頭の虎で、胴に傷を負い、右前脚は腫れあがっていた。首は鎖でしっかりと縛られているので、息をしているかも定かではなかった。

「大丈夫?」

 杏は柵を握って中に獣に声を掛けたが、当然返事はない。僅かに瞳が動いて杏を映した。

「この虎は?」

 杏は歩兵に聞いてみた。相手は高貴な女人に恐れをなして、ただ

「帰りの道中で発見して捕えたものです」とだけ答えた。

「痛そうよ。檻の中にいるのだから、鎖ぐらい外してあげたら? 水は飲めないの?」

 公主さまに咎められた男は困ってしまった。彼の仕事は虎が逃げないようにすることで、他のことはあずかり知らぬことだった。ただ、求められるまま水を公主に差し出して、彼女が器用に弱った虎の口の中に水を入れてやるのを見ていた。しかし、すぐにそれを止める人が出てきた。

「杏、何をしている!」

 背後で咎める主は、振り返らなくても分かる。叔父、武翔だ。

「水をあげているだけ」

「そんなことをしなくていい。手を噛まれたらどうする?」

 武翔は杏の手から竹筒を奪おうとしたが、杏は頑として渡さなかった。それどころか、武翔の目を真っ直ぐに見つめた。覇者と呼ばれる男が、この信国公、嬴武翔である。彼の目を直視する者はそうはいない。しかし、杏には何の恐れもなかった。

「春駿は死んでしまったのですか?」

「……」

 その真っ直ぐさのせいか、ためらいを瞳に浮かべて揺らいでしまったのは、武翔の方だった。

「すまない……助けてやることは出来なかった」

「謝って欲しいのではなく……。ただ、悲しいだけ……」

 武翔は杏を引き寄せて、抱きしめた。春駿はもともと杏の兄である太子の馬だった。が、太子は若くして鬼籍に入り、馬は杏のものとなった。武翔はそれを取り上げ、戦に連れて行った。駿馬だったが、戦場向きではなく、王族を乗せて走るために生まれたような美しく、そして気高い馬だった。

「いい相棒だった。最期まで走り続けてくれたよ……。太子と一緒にいるようだった」

「……………」

 杏は涙が出てきた。春駿だけのためではなく、走れなくなった馬を殺さなければならなかった武翔の心のためにも頬を濡らした。そして抱き合いながら、叔父の肩越しに生気のない虎と目が合った。助けを求めるようでもあり、この世を傍観するようでもある。杏の知らない世界を知っていて、偽りの世の中で何を泣いているんだと嘲笑しているようでもあった。

 だから、だろうか。

 杏は武翔の袖を引いた。

「ねぇ、叔父上、あれをください」

「あれ? 虎を? 何をするんだ」

「水を上げるのんです」

 花が欲しいと言っているかのような口ぶりで杏は言う。彼女は武翔にものを強請って未だかつて断られたことがない。彼女が口にしたからには、当然それは彼女のものだった。しかし、今回ばかりは違った。彼女が欲しがったのが、獰猛な獣だったからだ。

「危険だよ。懐かない」

「ちゃんと縛っておきます。猫も飼ったことあります」

「ダメだ。絶対にダメだ。それにそれは猫じゃない」

「もうすぐ誕生日だしいいでしょう? 誕生日には何でもくれるって言ったではありませんか」

「ダメだ」

 杏は膨れた。

 武翔の腕を乱暴に振りほどくと、近くにいた馬の轡を取る。そしてあっという間に騎乗の人となった。武翔の部下が三人がかりで、馬に蹴られるのを覚悟して止めたが、彼女は馬から降りようとはしなかった。

 武翔は怒ったように腕組みして、無言で反抗的で我儘な杏を睨んでいたが、杏に人前で恥をかかされて腹を立てているわけではない。人質という身から、諸侯となり、今や覇者となった彼には王さえも遠慮する。目が他人ひとと合うことなど皆無であるし、彼の側室たちも腕を掴んだだけで震えんばかり彼を恐れるという。それなのに、杏はこうして平気で武翔に刃向うのは、彼が杏に弱いことを知っているからだ。

「杏、馬から降りろ」

「嫌です」

「荷車を見せてやろう。翡翠の杯や黄金の香炉がある。好きなものを一番に選ぶといい」

「虎が欲しいんです」

 持って生まれた傲慢さゆえか、杏は武翔が否と言えないことを知っていた。

 彼ははため息を一つ吐いた。折れた時の彼の癖だった。どうせ虎は王に献上するつもりだったのだろう。杏に与えても差し支えない。きっと杏のことだ。そのうち飽きてしまうから、皮を剥いで虎の肉を食べればいいとでも思ったのかもしれない。

「欲しいの、あの虎が」

「分かった。やるよ。あの虎は杏のものだ。だから馬から降りろ。落馬したらどうする?」

「本当に?! 本当にくれるのですか?」

「ああ」


             *


 杏はそれで機嫌を直し、嬉しそうに虎を引き連れて宮殿に戻って行った。

 ――やれやれ……。

 ため息を吐いた武翔の横で、武翔の副将、李勇験(りゆうけん)だけは渋い顔をした。

「公主さまに甘すぎではございませんか」

「自分の未来の妻を甘やかして何が悪い?」

「そのおつもりなら、かまいませんが……」

 武翔は杏に叔父上と呼ばせているが、二人は縁もゆかりもない他人同士である。王の義弟、つまり本来は王に冊封された諸侯にすぎない信国が、主人である真国と兄弟分となったことで、武翔は堂々とこの国を牛耳り、他国を押しのけ覇者として君臨しているのだ。

 それを今、この為政者はもう一歩進もうとしている。つまり、王の女婿となり、杏の幼い弟が即位しても摂政できる準備を進めているのだ。杏は武翔に良く懐いていたし、王の唯一の娘でもある。年も十ほどしか違わない。杏は色白の大きな瞳を持つ美少女だから、あと数年もすれば、きっと右にでる美女はいないだろう。これ以上にない縁組といえる。

「何よりこの世で最も高貴な血筋の女だ。別格に扱って当然だろう」

「はぁ。しかし、嫁にもらってからもあの調子では困りませんか」

「何、あれはただの思春期の反抗だ。何に対しても腹が立つ年頃なんだよ。石につまずいても腹が立つし、夕飯が羊だと思っていたのに牛でも苛立つ。俺があの年のころにはムカついて兄貴を二人殺したから、杏の反抗など可愛くて仕方がない。そうだろ?」

「はぁ……」

「ああ、でも俺が弟を殺したのは、反抗期だからじゃない。あれはただの気まぐれだった」

 武翔として冗談だったのに、笑えない事実に李勇験は、中途半端な頬の緩みをぎこちなく作ったのだった。

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