青に目眩
咲川音
青に目眩
平凡すぎる自分に嫌気がさすことも多々あるけれど、やっぱり人間普通が一番だ。
「――それで
「あちゃー、うちの学年の王子でも駄目だったか」
「いくらイケメンでもやっぱり歳下はね。朝子先輩程の人なら、包容力のある大人じゃないと釣り合わないでしょ」
品行方正で先生達からの信頼も厚く、朝礼での凛とした姿は男女関係なく惹きつける。噂では県内一の進学校への推薦も堅いという、まさに絵に描いたような優等生だ。
今日は朝から、そんな高嶺の花に果敢にも挑んだ同級生の話題で持ち切りだった。
「先輩、めちゃくちゃ理想高そうだもんねぇ」
「……で、
早々に会話から抜けて携帯をいじっていた私の手元を、チカがのぞき込む。
「あ、それこの前勧めてた小説?」
「勧めたっていうか、読んでるところを横から覗き込んできたんでしょ」
他の二人も興味を持ったのか、身を乗り出してくる。
「なに、携帯小説? 未来がそういうの読むの珍しいね」
「うん、偶然読み始めたんだけど。でもすごく面白いんだよ、素人とは思えないくらい描写も綺麗だし……」
「未来が良いって言うからちょっと読んでみたけど、よく分かんなかったなー。主人公のカナ? って子が親友の女の子に恋する話でしょ?」
チカのその言葉を受けて、私を取り囲む顔にからかいの色が浮かんだ。
「うわー、未来ってもしかしてソッチ系?」
「うちらの事もそういう目で見てたんだぁ」
思いの外大きいその声に、私は慌てて二人の口を塞ぐ。
「馬鹿! 変なこと言わないでよ! そういうのじゃないんだってば!」
いつもの女子達のおふざけと受け取ったのか、周りはこちらを気にすることなく雑談を続けている。私はほっと胸をなでおろした。 まったく、妙な噂が広まりでもしたらたまったもんじゃない。
「とにかく、これはそういうイヤラシイのとは違うの! ほんとに深い話なんだから。一回ちゃんと読めばわかるよ」
「やだよ。私、活字は無理だもん」
言い返そうと口を開いた瞬間、予鈴が鳴り響く。私はまったくもう、とため息をつくと、携帯の電源を切った。
「ねえねえ、さっき面白いこと聞いちゃったんだけどさあ、
昼休み、弁当をつつきながらチカがニヤニヤと言った。また新たなネタが投下されたらしい。
「うわー、死ぬほどどうでもいいわ」
「まあまあ。それがなんと、相手は朝子先輩みたいでさ。西川くんに感化されちゃったのかね」
「うっわ、身の程知らずもいいとこ」
三人は思い切りしかめた顔を寄せ合う。
「西川くんくらいかっこいい人ならまだしもさ、浅野とか全然釣り合わないでしょ」
「なんか校舎裏に呼び出したんだって。ねえ、ちょっと覗きに行ってみない? 未来も行くでしょ?」
終始無言で弁当をかき込んでいた私は、投げられた言葉を一瞬の迷いの後叩き落とした。
「私はいいや。図書室行きたいし」
椅子を鳴らして立ち上がると、非難めいた目線が見上げてくる。
「未来ってさ、こういうのほんとノリ悪いよねー。本ばっかり読んでたら行き遅れちゃうよ?」
ここで何と答えればこの空気を和やかな笑いに持っていけるのか、それが分からないから曖昧に笑って彼女たちの輪を抜ける。教室の扉を閉めても、チカ達のキャハハと甲高い笑い声が漏れ聞こえてきた。もしかしたら今頃、私の悪口を言って盛り上がっているのかもしれない。
一番奥にある本棚の裏に隠れて、私はこっそりと携帯を取り出した。ブックマークから見慣れたページに飛ぶ。青い背景に雲のマークが可愛いその投稿サイトは、案の定さっき見た時と何も変わっていなかった。
「どうしちゃったのかなあ……」
『青に目眩』――
主人公のカナは私と同じ中学二年生。部活のエースで友達も多く、一見誰もが羨むような充実した毎日を送っている。しかし彼女には誰にも言えない秘密があった。実はカナは同性愛者で、親友に恋心を抱いていたのだ。偏見への恐れと周りからの期待で押し潰されそうになる主人公――
最初は暇つぶしになんとなく読み始めたのだが、繊細な文章と丁寧に描かれるカナの想いに次第に引きこまれ、今ではすっかりこの作者のファンとなっている。
最新話では、とうとうカナが想いを打ち明ける決心をし、親友のもとへ走り出したところで終わっていた。それから、ぱたりと更新が途絶えてしまっている。毎週のように投稿されていたのに、ここ一ヶ月間何の音沙汰もないのだ。
「いいところなのに……このまま未完なんて事になったら嫌だな」
ため息とともに画面を閉じる。何となく教室に戻る気にもなれなくて、そのまま窓辺に寄りかかった。
梅雨の湿り気の抜けた風が、肌にサラリと心地いい。幾重にも重なった金色を通り抜けて、それは微かに夏の香りがした。
中学生の社会は時に大人よりやっかいだ。周りの空気とやらを読んで自分の立ち位置を決めねばならない。そこに明確な基準はなくとも、それから少しでも外れた行動をすればたちまちああやって「身の程知らず」と叩かれる。かと言って朝子先輩のように目立ちすぎても、一挙手一投足が噂の種だ。
教室中に蔓延するスクールカーストの中では、「普通」でいることすら難しい。
なんとなくで決められた身分格差に理不尽さを感じながらも、やがて諦めとともにみんな慣れていくものだ。それでも発作的に煩わしさを感じては、私は図書室に来ている。
学校の中でここだけが、治外法権のように思えた。
……別に誰が何を好きになっても自由じゃない、ねえ。
心の中でカナに呼びかける。今この胸にあるもやもやを具現化したような少女だ、もし実在したならきっと頷いてくれるに違いない。
気づけば、周りにぽつぽつといた人達が片付けを始めている。もうすぐ授業の時間なのだろう、私も戻るかと重い腰を上げた時、がらんとした自習コーナーの机に手帳が置かれているのが目に入った。あたりを見回しても持ち主らしき人は見当たらない。忘れ物だろうか。
「仕方ないな……」
届けようと手にとった瞬間、ページの隙間からメモ帳のようなものが滑り落ちた。小さく折りたたまれたルーズリーフだ。何とはなしに広げてみて、私ははっと目を見開いた。
「これ……」
そこには走り書きの文章が並んでいた。震える手で、もう一度はじめから追ってみる。
『……それでもいい、とカナは思った。全てを打ち明けてしまおう。もういい、と心に繰り返すカナは、けれど決して投げやりな気持ちなどではなかった。怖がられるかもしれない。側にいられなくなるかもしれない。それでも
……どうして。
そこに綴られていたのは、私が何度も何度も読み返した『青に目眩』の文章そのものであった。
……じゃあこの手帳の持ち主が、白井猫さん?
慌てて手元の手帳をひっくり返して見る。けれどどこにも名前は書かれていなかった。
ひとしきり動揺したあと、とりあえず届け出なくてはとカウンターへ向かう。
「あの、これあっちの机に忘れてました」
書類を片付けていた司書は赤いチェックのカバーを見た途端、ああ、と顔を綻ばせた。
「ありがとう。多分それ、九条さんのね」
思わぬ名前に飛び上がりそうになる。
「九条? 九条って、あの生徒会長のですか?」
「そうそう、いつもあの席で勉強してるのよ。今日も来てたんだけど……帰っちゃったのかしらね」
九条朝子の手帳。ということはつまり、彼女が白井猫なのだろうか。いつも読んでいる小説は先輩が書いたものだった……?
「とりあえず預かっておくね。もし九条さんに会ったら伝えてあげて」
その言葉に曖昧に頷いて、混乱する頭のまま私は図書室をあとにした。
午後の授業はずっと上の空で、気づけば放課後になってしまっていた。
「ついさっき九条さんが取りに来たの。届けてくれた人にお礼言っといて下さいって」
もう一度司書の元を訪ねると、にっこり笑ってそう言われる。やはりあの手帳は彼女のものだったのだ。
九条朝子が白井猫。その衝撃的な事実に、廊下を歩く私の足取りはおぼつかなかった。
確かに朝子先輩は文章が上手い。読書感想文の最優秀賞に名前があがっているのを何回か見たことがある。しかし、だからといって。
「……いや、まだそうと決まったわけじゃないし」
それに、あの小説と朝子先輩のイメージがどうにも結びつかないのだ。
カナは一人悩みを抱えてうずくまっているような少女だ。いつも皆からの注目を浴び、輪の中心にいる先輩とは正反対である。そんな彼女が、ああいうキャラクターを生み出すだろうか。いや、小説とは得てしてそういうものなのかもしれないが……
そんなつらつらとした考えは、突然響いた扉を開く音に遮られた。図書室を出てまっすぐ歩いたここは最上階、三年生の教室棟だ。音の方を振り返った私は、息を飲んでそのまま動けなくなってしまった。
教室から出てきたのは他でもない、いま頭の中を占めている朝子先輩本人だった。長い睫毛を少し伏して、こちらに向かって歩いてくる。だんだん近づく足音に、私は半分パニックになった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
あの事実をどうしても確かめたい。けれど先輩とは話したことすらないのだ。顔も知らない下級生が突然呼び止めて、あなたがあの小説の作者ですかなんて、変に思われるに決まっている。それに万が一勘違いだったら……
思い悩む私の横をふわりとシャンプーの香りが通り抜けた。追いかけるように視線をやると、彼女は挙動不審な後輩を他所に歩いて行ってしまっている。
私はああ、と肩を落とした。なんとか自然に話しかける術はないものだろうかと思いながら、遠ざかる背中を見つめる。先輩はこちらの視線に気づかないまま踊り場に差し掛かると、そのまま階段を上がっていった。
「あれ?」
この上には屋上しかない。てっきりそのまま帰るのだと思っていた私は、思わぬ先輩の行動に意表を突かれる。踊り場まで行って見上げると、もう外に出たのだろう、そこには誰もいなかった。
さっきは声をかけるのを躊躇ってしまったけれど、この機を逃したら永遠に確かめられないままではないだろうか。まさか教室まで行って聞くわけにもいかない。それに今は手帳の拾い主という、れっきとした肩書きがあるのだ。これを話題のきっかけにして、さり気なく聞いてみよう。
私は意を決して屋上へ続く扉を開いた。
一歩踏み出した瞬間、眩しさが目を貫いた。 床に日差しが反射して、屋上全体が白く光っている。その中に誰の姿も見当たらず、キョロキョロと辺りを見回していると、ふいに上から声が降ってきた。
「屋上は立ち入り禁止だよ」
慌てて振り仰げば、逆光になった影が階段室の上からこちらを見下ろしていた。
「あの……わ、私」
しどろもどろに何か言おうとする私を遮って、その口元がいたずらっぽく笑う。
「なんてね。でもどうしたの? 何か私に用事?」
先程の笑みの余韻を残した唇は紅く染まり、形の良い目が瞬きを繰り返している。自然のまま下ろされた髪がサラサラと風になびいて、それが彼女の洗練された雰囲気を更に引き立てていた。
今まで壇上にいる姿しか見たことがなかったけれど、美人は近くで見てもやっぱり美人だ。驚きに目を見張りつつ、私は思わずそんなことを思った。
「はい、あの……図書室に手帳、忘れませんでしたか」
先輩はああ、と納得したように頷く。
「あれ、あなたが届けてくれたの? ありがとう、助かったよ」
その言葉をピリオドに会話が終わってしまった。このまま切り出してもいいものか……一瞬の迷いの後、私は勢い良く顔を上げた。
「あのっ! 先輩って、白井猫さんなんですか?」
ピキン、と先輩を取り囲む空気が凍ったのが分かった。動揺に震える瞳が、どこか恐怖に似た眼差しを私
に送る。
「先輩の手帳を拾った時、間に挟んであったメモを見ちゃったんです……あの」
すみません、と小さく謝って私はうつむいた。この静寂がいたたまれない。
と、先ほどと打って変わって弾けるような声が響いてきた。
「うわー、恥ずかしい! まさかあれを知ってる人がこんな近くにいるとは……」
見れば、先輩は赤くなった頬を両手で挟み、照れたように身をよじっている。
「そうだよ、私が白井猫。白い猫、ってね。『青に目眩』読んでくれてるんだね。ありがとう」
白井猫こと九条朝子は思っていたよりもずっと話しやすい人だった。
「そっか、じゃあたまに付いてたコメントは未来ちゃんだったんだ」
「はい、私ずっとファンだったので」
あれから。慌てて自己紹介をした私に「未来ちゃんって呼んでも良い?」と先輩は気さくに笑ってくれた。それから、わざわざこちらに降りてきてくれようとしたのを慌てて押しとどめて――私達は今、顔を上と下に向けたまま会話を続けている。
「でも先輩ってほんとにすごいですね。あんな小説まで書けちゃうなんて」
「そんな、買いかぶり過ぎだよ」
「いえ、みんな言ってますよ。朝子先輩憧れるって」
一瞬奇妙な間が空いた。
「ねえ、それよりも未来ちゃんはさ、あれを最初に読んだ時、気持ち悪いって思わなかったの?」
思わぬ言葉に首を傾げる。
「えっ、どうしてですか?」
「だって主人公のカナって、普通じゃないというかその……所謂レズってやつじゃん。気持ち悪くないの?」
私は言葉を探し探し答えた。
「自分の好きなキャラにそんなこと思いませんよ。私はいつも、えーと……カナに会いたいなって思いながら読んでます」
「会いたい?」
「はい。きっといい友達になれる気がするから」
感情移入しすぎかな、と少し後悔する。先輩、引いてないといいけれど……そう思いながら見上げれば、彼女はこちらを見下ろしたまま固まっていた。
「すみません。なんか……変ですよね」
私の声に我に返ったのか、ぴくりと肩を揺らす。
「ううん、ありがとう。嬉しいよ」
そう言って笑いかけてくれたから、私もいくらかほっとして微笑み返した。
その日から、私は放課後になると屋上に通うようになった。
最初に言われた通りそこは本来立ち入り禁止で、普段は施錠されているのだが、
「見回りついでに休憩させてもらってるって体なの。内緒ね」
先輩は悪戯っぽく肩を竦めて、鍵の束をジャラジャラと揺らした。
彼女に会うからといって特別何をするわけでもない。例の定位置で参考書やら単語帳やらを捲っている先輩に一つお辞儀をして、私はその一段下、階段室の影になっているところに座り込んで図書室から借りてきた本を読む。普通なら気まずくなりそうなこの無言の空間が、何故か心地よく感じられた。ここが図書室と同じ、治外法権の場所だからかもしれない。
先輩の集中が切れるタイミングで、小説の話もした。
「『青に目眩』ってタイトル、なんかいい響きですよね」
「本当? あれはね、ここでぼんやり空を見上げてる時に思いついたの」
――この青に目眩がする。あまりにどこまでも透き通るようで。
作中、一人ぼっちで思い悩むカナは屋上に寝転んでそう呟いていた。
「確かに、眩しくてクラクラしますね」
雲一つない青空に私は目を細める。この時、カナは青く抜ける空に自分の人生を見ていたのだろう。この苦しみを抱えたまま歩いていかねばならない、先の見えない未来を。
「私、あとあれが好きなんです。カナが優香子と『ずーっと友達でいようね』って約束した後、一人で泣くシーン。なんだかすごく切なくて泣いちゃいました……」
思わず熱くなる作品語りも、先輩は黙って聞いてくれていた。その時の先輩の瞳は、いつも少し潤んでいて、私はその胡桃色の滲みをどこかで見たことがあるように感じていた。
「でも良かったです、無事に続きが読めそうで。ほら、ああいうサイトってたまに、更新されないまま何年も放ったらかしにされてる小説、あるじゃないですか。この作品もそうなったらどうしようって心配してたんですけど……受験で忙しいから、なかなか書けなかったんですね」
先輩と出会って暫くたったある日、私は笑って言った。
「実は続きを書いてはみたんだけどね。ちょっと辛い展開になっちゃって、何とか別の方向に持っていけないかなあって模索中。要するにスランプなの」
聞き逃せない台詞に思わず立ち上がる。先輩は手帳サイズのノートをこちらに掲げてみせた。
「カナは幸せになれないんですか」
「うーん、今の私の手腕だと、ハッピーエンドは難しいねえ」
困ったように微笑んで、私も幸せにしてあげたいんだけどねと続ける。
「……ラストも決まってたんだけど、ここに来て迷いが出ちゃってね。私の悪い癖」
ページをめくる細い指が、夏の日差しに白く光っていた。
「どんなものかお聞きしても」
「えー。一番の読者にネタバレはいかんよ、ネタバレは」
パタンとノートが閉じられる。そろそろ塾に行くから帰るね、と片付けを始めた先輩に、私も荷物をまとめる。と、その時、頭上から独り言のような呟きがぽつりと落とされた。
「――カナは最後、屋上から飛び降りて自殺するの。親友も何もかも失って。でも、それじゃあまりにも悲しすぎるでしょ」
カナの自殺というラストは、私に少なからず衝撃を与えた。なぜ先輩はそんな終わりを用意したのだろう。体育館で「その他大勢」となっている私は、壇上を見上げてそればかり考えていた。
マイクを前にした先輩の口から出る言葉は淀みなく、嫌味のない理路整然さを以て私達を感心させる。法の下に出た彼女はやはり、嫉妬する気も失せるほどのトップだった。
常にそんな立場にいるのだ、カナのような子に未来を見いだせないのだろうか。けれど屋上での先輩は、ただ光の中を歩くだけの少女ではなかったように感じた。あの場所で見せる笑顔は、普段まとわりつく期待や羨望の眼差しを脱ぎ捨てて、まっさらなもののように思えるのだ。
その日の放課後、屋上へ行くとまだ先輩は来ていなかった。少しだけ待ってみようと、閉じられた扉の前に座る。程なくして、階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。
「ごめん未来ちゃん! 待った?」
「いえ、今来たところなので」
面談が長引いちゃって……と鍵をガチャカチャやっている。扉を開けると、むっとした暑さと共に蝉の声が流れ込んできた。
「面談?」
「そう、受験について。面倒だよねえ」
先輩はひらりと日差しの中に身を投げると、階段室のはしごに飛びついて軽々と上り始める。私はそれをただ見上げているばかりだった。
同じ空間を共有していても、一段上のそこは先輩だけのテリトリーのようで、安易に踏み込んではいけない気がするのだ。
と、その時、大きな声と共にドアが開いた。
「朝子! やっぱりここにいた!」
先生が来たのかと飛び上がる私に対し、先輩はゆっくりと顔だけをそちらに向ける。
「……
詩織と呼ばれた少女は弾むような足取りでこちらへ駆けてくると、先輩を見上げてピョンピョン跳ねる。あどけない雰囲気が、その整った顔立ちを親しみやすいものにしていた。
「聞いて! さっき面談してきたんだけどね、
先輩は弾かれたように身を乗り出す。
「だって詩織、前は別の高校行くって……」
「うん、安全圏狙ってたんだけどね、もっと上のランク目指そうと思って。だって朝子、栄開の推薦受けるんでしょ? まあ余裕とは言えないけど、今から頑張れば可能性はあるって」
そう言って詩織は満面の笑みを浮かべる。
「朝子、私頑張るよ。だって朝子と高校でも一緒にいたいんだもん」
先輩は一瞬表情を固め、それから苦笑を返した。
「もう、そんなこと言って、ほんとは彼氏と一緒にいたいんでしょ」
「また朝子はそんないじわるを言う。前にも言ったでしょ、彼氏は別れちゃったら他人だけど、友達なら一生そばにいられるって。だから」
――だからずーっと友達でいようね。
ふと、言葉が重なった。
――はいはい、分かった分かった。
心に浮かぶ台詞を、先輩はそのままなぞる。何度も見たシーン。詩織を見つめるどこか寂しげな瞳も、完璧さの端に見える不安定な揺らぎも、全てに既視感が……
「それよりこんな所にいていいの? 小野君、教室で待ってるんじゃない?」
「うわ、忘れてた! じゃあ朝子、また明日ね」
そこで初めてこちらに気づいたのか、詩織は人懐こい笑顔を残して去っていった。
何も無い空間に二人きり取り残される。先輩の方を振り向くと、俯いた顔は影になって表情が見えなかった。
……確かこの後、カナは一人で……
風に煽られるようにして顔を上げた先輩の頬には、涙が伝っていた。ふっと目線が絡む。
……ああ、あれはカナの目だ。何度も読み返した、孤独に泣くカナの……
瞬間、先輩は乱暴に鞄を掴むと階段室から飛び降りた。あっ、と思った時には派手な音を立てて床に転がっている。声をかけるより先に彼女は起き上がって、こちらを振り返らないまま屋上を飛び出していった。
私はそのまま一人動けずにいたが、バサバサ、と何かの音を聞きつけ我に返った。上からだ。私は恐る恐るはしごに足をかけて、彼女の縄張りへと入り込んだ。
音は風にめくれるノートだった。昨日先輩が持っていたものだ。私はそっと手に取り、ため息とともに最初のページを開いた。
『……何もかも手放したくなった。いっそみんな私の事など忘れて、放っておいてくれればいいのに。そう思う一方で、今の立ち位置を失う事が怖くて怖くて怖くて……』
あの途絶えた物語の続きからだった。先輩が語ったように、カナは告白した親友とは距離ができ、噂を聞いた周りの人間からも白い目で見られるようになっていった。孤独になったカナはいつも泣いていた屋上へと上がる。そして――
最後のページは真っ黒に塗りつぶされていた。何重にも重ねられた線は、所々水滴の形によれている。私はただ、それを抱きしめることしか出来なかった。カナと友達になれるなどと言ったけれど、とんだ思い上がりだ。私の無意識の偏見も、この小説の感想を語る言葉すら、積もり積もってカナを屋上から突き落としてしまったのだろう。
しばらくそのままそうしていたが、風が孕む熱が和らいだ頃、私は静かにペンを取り出して、真っ白なページに文字を綴っていった。
次の日。もう会えないかもしれないと思っていたけれど、先輩はいつもの時間にここへ来てくれた。顔を合わせるなりお互い口を開きかけて、結局遠慮がちな笑みを浮かべるだけになってしまう。
「忘れ物ですよ」
定位置に座った彼女に、ノートを掲げた。
「ありがとう。また拾ってもらっちゃったね」
「どういたしまして。朝子先輩、私もそっちにいっていいですか?」
先輩は目を丸くして、それからどうぞ、と隣を叩いた。
同じ高さまで上って、胸に抱いていたものを渡す。確かめるようにページをめくった手が止まった。
「これ……」
真っ黒に塗りつぶされたその先。白紙だったそこは、私の字で埋め尽くされていた。
「ごめんなさい、スランプだって言ってたので、勝手に続きを考えてみました」
――フェンスをよじ登るカナ。そこに見知らぬ女の子が現れる。彼女はカナの腕を掴んで言うのだ。「図書室に手帳、忘れませんでしたか」と……
「この子の名前、未来ちゃんっていうの?」
「はい、私ネーミングセンスないので。そのまま自分の名前使っちゃいました」
先輩がふふっと吹き出した。
「うーん、ボツね。急展開過ぎるし、何よりほら、ここ、言葉の使い方間違ってる」
呆気なく突き返される。ガックリ肩を落とす私に、先輩は楽しそうに言った。
「ねえ、この続きはどうなるの?」
「カナは頼りない後輩の未来ちゃんと仲良くなって……そこから先はまだ決めてません。一緒に考えてくれますか?」
「いいよ。実のところ私も、あの最後じゃ後味が悪いなって思ってたんだ」
「そうですよ。やっぱり物語はハッピーエンドでなくっちゃ」
空は今日も晴れ渡って、屋上を輝きに満たしている。
どこまでも続く青に目眩を感じながら、私たちは大きく息を吸い込んだ。
青に目眩 咲川音 @sakikawa_oto
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