Ending/

 ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。

 定期的になり続ける、目覚ましの電子音で飛び起きる。

 ――まさか。

 頭を過ぎるのは、失敗の二文字だ。あの時、紡は次がないと思って灯人の説得に臨んだ。だからこそ、あの結果を導くことができたのだ。二度目があるとは、限らない。

 慌てて目覚ましの表示を確かめようとして、声がした。

「神船君。朝から元気なのね」

 それは涼しげで、落ち着いた――有栖川鎮の声だ。

「……え?」

「体中傷だらけだというのに、本当に無茶ばかりするのね」

 声のする方を見る。大きく開かれた窓。きらきらと輝くような朝陽を受けつつ、鎮は窓に腰を掛けてこちらを眺めていた。

「な、なんで有栖川が……」

「なんで、とはお言葉ね。昨日、あなたが倒れた後、私がここまで運んだのよ」

 事も無げに彼女は言うと、紡の元まで歩き、ベッドに腰を下ろした。ぎし、とスプリングが軋む。鎮が優しい手つきで、泣き続ける目覚まし時計を鎮めた。窓から吹き込む風に乗って、鎮の髪から石鹸の匂いがした。

「樋口灯人は、一度この町を出たわ」

「え……」

「何でも、やり残していることをしてくる、って。すぐに戻ってくるそうよ」

「そっか」

 彼女には大見得を切ったのだ。見守っていてもらいたい。

 鎮が身体を反らすようにして、紡に顔を寄せる。そして、その手が伸ばされて、首筋に触れた。

「傷、残っちゃっているわ」

「……うん」

「お人好しね」

「……うん」

 そよ風が吹いて、二人は口を閉じた。ゆっくりとした時間が流れる。ループの中では、どんなに長い時間があったとはいえ、どうしても落ち着くことができなかった。こうして、気を抜けるのは、久しぶりだった。

「ねぇ、神船君。私が――別の私が、あなたに伝えた物語のタイトル、覚えている?」

「うん。忘れるわけがないよ」

 ループの度に、その言葉で鎮は協力を決意してくれていた。忘れるはずがない。

「――『ラプンツェル』。幼い頃に読んで、ずっと、私が好きな物語のタイトル。誰にも、両親にだって教えていなかったこと。だから、あなたがそれを口にした時、本当だと信じたわ」

 それに昨日もそれを読もうと思っていたのよ、と鎮は付け加える。

「私はきっと、ラプンツェルみたいに誰かが救いに来てくれるのを待っていたのかもしれないわ。私を囲っていた塔は、きっと私自身だった。魔法使いの在り方を否定したいのに、私がそれにとらわれていた。ねぇ、神船君。こんなことを言うのは、少し、乙女すぎるかしら」

 『ラプンツェル』それは、塔に閉じ込められて育てられた髪の美しい少女が、王子に助けられる物語だ。その少女の姿は、考えてみれば鎮と重なって見えなくはない。

「いや。似合ってるよ」

 くすり、と鎮は笑う。

「でも、王子があなたと云うのは、ね」

「そう言われてもね」

「嘘よ。感謝してるわ――ありがとう」

 そう言って、鎮はその顔を近づけ、紡の額に口づけをした。

「あ、ありすが――」

「おっはよー、お兄ぃ! 朝だっよー…………て、あれ?」

 時間が止まる。寧ろ止まって欲しい。しかし無情にも、時間はもう前にしか進まない。

「あら、妹さんかしら。どうも、初めまして」

「あ、は、はい。はじめまして…………」

 鎮に釣られて詠も丁寧にお辞儀をする。しかし残念なことに、詠は相変わらずスカートをはいていない。摘まみ上げるスカートも無い間抜けな姿だ。

「…………………………………………」

 無言のまま、詠がフェードアウトする。そしてややあって「おかーさん! た、たいへんだよー! お兄ぃが彼女連れ込んでる! すっごぉい美人!」などと叫ぶ声が聞こえた。

「――面白い妹さんね」

「は、はは。最悪だ……」

「やり直したくなる?」

「……いいや、全く」

「そう。私もよ」

 言いながら、鎮は立ち上がり、再び窓際に戻った。

「それじゃあ、私は帰るわ」

「うん。ありがとう」

「これ以上長居すると、深空さんに悪いわ」

「いや、だから奏はただの幼馴染みだって」

「あら。では、私にもチャンスがあるのかしら?」

「…………え?」

 鎮は既に窓の外を向いている。その表情を窺い知ることはできない。そんな時、一筋の風が吹いた。鎮の髪が揺れ、その口元だけが露わになる。有栖川鎮の艶やかな唇は、悪戯っぽく笑っていたような気がした。

「また、学校で会いましょう――紡君」

 言い残すようにして、窓から鎮は飛び立った。カーテンがはためいて、その余韻を伝える。

「……全く。よく分からない奴だよ」

 言いながら、紡は立ち上がる。窓際まで行くと、カーテンを押さえて外を眺めた。

 空には水彩を思わせる、薄い青色が広がっている。遠くになるにつれ、グラデーションのように白に近づいていくそれは、世界の広がりを思わせて気持ちがいい。

「おっはっよー」

 声に釣られて下を見れば、そこには奏がいた。既に制服姿に学生鞄を抱え、大きく手を振っている。待つにしてもあまりに早すぎるだろう。手を振り返して、挨拶だけをする。

 さて、と紡は気持ちを切り替える。奏を待たせているのを知った以上、のんびりはしていられない。着替えて、学校に行こう。それから、学校で有栖川と話そう。できれば、本について話せたらいい。そして、放課後は――

 考えは濁流のように流れてくる。止まっていた時間がようやく動き出したのだ。やりたいことは、可能性の数だけ無限にある。

「ああ、そうだ――」

 鞄に入っていた、祖父の本が目に入り、思考が塞き止められるかのように収まった。

 今度、じいちゃんの墓参りに行こう。その時は、有栖川と樋口さんもできれば一緒に。

 紡はそんな風に考えて、部屋を飛び出した。


『英雄になれない僕だから』fin

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